「戯志才」の版間の差分
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'''戯 志才'''(ぎ しさい、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期の人物。[[豫州]][[潁川郡]]の出身。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書[[郭嘉]]伝・[[ |
'''戯 志才'''(ぎ しさい、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期の人物。[[豫州]][[潁川郡]]の出身。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書[[郭嘉]]伝・[[荀彧]]伝に僅かながら記述がある。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
2020年7月12日 (日) 09:02時点における版
戯志才 | |
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後漢 謀士 | |
出生 |
不詳 豫州潁川郡 |
死去 | 不詳 |
拼音 | Xì Zhìcái |
字 | 不詳 |
主君 | 曹操 |
戯 志才(ぎ しさい、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。豫州潁川郡の出身。『三国志』魏書郭嘉伝・荀彧伝に僅かながら記述がある。
概要
曹操が献帝を推戴した頃、「策略に優れた人物だから」と荀彧が推薦した。曹操は戯志才のことを「見どころがある」と思い、篤く尊重したが、早くに亡くなった。
荀彧伝には「世俗との交流を持とうとはしなかった」と書かれている。
曹操は、戯志才の死を惜しみつつ荀彧に手紙を送り「彼が死んで策略を相談できる相手がいなくなった。貴公の出身である潁川には優れた人物が多い。誰か彼を継ぐ人物はいないか」と問うと荀彧は、先に袁紹の下へ仕官を求め拒絶されていた郭嘉を推薦した。
小説『三国志演義』には登場しない。