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[[華北]]の戦乱を避けて[[長江]]を南に渡り、琅邪王[[元帝 (東晋)|司馬睿]]の下で丞相記室参軍となり、[[臨淮郡|臨淮国]]内史・振威将軍に転じた。ほどなく[[建康 (都城)|建康]]に召還されて、散騎侍郎に任じられた。尚書右丞や北軍中候を歴任した。[[大将軍]][[王敦]]に請われてその従事中郎となり、[[宣城郡|宣城国]]内史に任じられた。[[324年]]([[太寧 (東晋)|太寧]]2年)、[[銭鳳]]が反乱を起こすと、鍾雅は広武将軍の号を加えられて、兵を率いて青弋に進軍した。ときに[[広徳県]]の周玘が銭鳳に呼応して起兵し、鍾雅を攻撃した。鍾雅は[[ケイ県|涇県]]に退却して、士庶を糾合すると、周玘を討ち、これを斬った。銭鳳の乱が平定されると、鍾雅は建康に召還されて、尚書左丞に任じられた。 |
2020年7月12日 (日) 08:46時点における版
鍾 雅(しょう が、生年不詳 - 329年)は、中国の東晋の官僚・軍人。字は彦胄。本貫は潁川郡長社県。
経歴
公府掾の鍾曄(鍾繇の弟の鍾演の孫)の子として生まれた。早くに父を失ったが、学問を好んで才能と志望に優れ、四行に挙げられた。汝陽県令に任じられ、入朝して佐著作郎となった。母が死去したため、官を去って喪に服し、喪が明けると復職した。東海王司馬越に請われてその参軍となり、尚書郎に転じた。
華北の戦乱を避けて長江を南に渡り、琅邪王司馬睿の下で丞相記室参軍となり、臨淮国内史・振威将軍に転じた。ほどなく建康に召還されて、散騎侍郎に任じられた。尚書右丞や北軍中候を歴任した。大将軍王敦に請われてその従事中郎となり、宣城国内史に任じられた。324年(太寧2年)、銭鳳が反乱を起こすと、鍾雅は広武将軍の号を加えられて、兵を率いて青弋に進軍した。ときに広徳県の周玘が銭鳳に呼応して起兵し、鍾雅を攻撃した。鍾雅は涇県に退却して、士庶を糾合すると、周玘を討ち、これを斬った。銭鳳の乱が平定されると、鍾雅は建康に召還されて、尚書左丞に任じられた。
325年(太寧3年)、明帝が死去すると、鍾雅は御史中丞に転じた。国喪が終わらないうちに、尚書の梅陶が勝手に妓女を成帝に献上していたため、鍾雅は梅陶を弾劾した。明穆皇太后が臨朝称制すると、梅陶の罪は不問に付された。
326年(咸和元年)、劉遐が死去すると、劉遐の部下たちが反乱を起こしたため、郭黙が反乱の討伐にあたった。鍾雅は監征討軍事・仮節として討伐に参加した。反乱が鎮圧されると、鍾雅は驍騎将軍に任じられた。327年(咸和2年)、蘇峻の乱が起こった。328年(咸和3年)、鍾雅は前鋒監軍・仮節となり、1000人を率いて討伐に向かった。鍾雅の兵は少なく、交戦せずに引き返した。侍中に任じられた。官軍が敗れて、建康が陥落すると、鍾雅は劉超とともに成帝を護衛した。成帝が蘇峻に迫られて石頭城に移ることとなると、鍾雅と劉超は歩いて侍従した。329年(咸和4年)、鍾雅は反乱兵によって殺害された。反乱が鎮圧されると、光禄勲の位を追贈された。
子の鍾誕は中軍参軍となったが、早逝した。
伝記資料
- 『晋書』巻70 列伝第40