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[[王元章]]「墨梅」を愛蔵した{{sfn|坂口|1918|p=494}}。
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奇行が多く、[[亀田鵬斎]]等から「竹痴」と呼ばれた。信中に珍しい石を所蔵している人がいると聞き、山水花卉図数十頁を描いて潤筆料の代わりに譲り受け、人を雇って背負わせて持ち帰った。芸妓に入れ込み、思いが止まず、そのいる方角を向いて一日中座って空を見上げていることがあった。酒を飲むと酔って踊り出し、手足の動作が刺松点や乱柴[[皴法|皴]]を描くようだったため、[[顧愷之]]や[[米芾]]に擬えられた{{sfn|坂口|1918|pp=494-495}}。


善導寺に父浚明の墓碑を建てる際、先に[[柴野栗山]]撰・[[巻菱湖]]書の碑文が存在していたものの、菱湖と不和だったためこれを用いず、[[片山北海]]撰・[[永根氷斎]]書のものを用いたという{{sfn|三村|1936|p=55}}。
善導寺に父浚明の墓碑を建てる際、先に[[柴野栗山]]撰・[[巻菱湖]]書の碑文が存在していたものの、菱湖と不和だったためこれを用いず、[[片山北海]]撰・[[永根氷斎]]書のものを用いたという{{sfn|三村|1936|p=55}}。

2020年7月12日 (日) 08:39時点における版

五十嵐 竹沙
生誕 安永3年(1774年
越後国新潟
死没 天保15年2月25日1844年4月12日
武蔵国江戸浅草聖天町
墓地 多磨霊園第3区甲32側(護国院墓域)
代表作 『竹沙小品』
流派 南宋派[1]
影響を受けた
芸術家
鈴木芙蓉酒井抱一谷文晁

五十嵐 竹沙(いからし ちくさ、安永3年(1774年) - 天保15年2月25日1844年4月12日))は江戸時代後期の画家。姓は、名は主膳(主善)。字は巨宝、号は静所・達斎[2]法眼を名乗る[3]五十嵐浚明の孫。

事跡

安永3年(1774年)越後国新潟の画家五十嵐片原の子として生まれ[4]、父に絵を学んだ[5]

天明4年(1784年)父の死後江戸に出て、鈴木芙蓉酒井抱一谷文晁等に接して絵を学んだ[6]文化6年(1809年)亀田鵬斎越後国に来訪した際、信濃国佐久平から千曲川畔まで同行した[7]。 江戸では毎月7日大窪詩仏が詩聖堂で開いた詩会に参加し、文化12年(1815年)詩仏・菊池五山秦星池作『文人番付』の上位に掲載されている[6]。また、文政元年(1818年)『江戸方角分』に中御徒町在住、天保7年(1836年)『広益諸家人名録』にも下谷聖天町在住として掲載される[8]

天保15年(1844年)2月25日71歳で死去し、上野護国院に葬られた[1]。戒名は竹沙院巨宝主膳居士[1]。後に多磨霊園第3区甲32側に改葬された[1]

絵画

作品 技法 形状・員数 寸法 (縦x横cm) 所蔵 年代 備考
山水図 紙本著色 一幅 159.7x85.9 渥美コレクション 文化6年(1909年)6月 亀田鵬斎讃。鵬斎の越後旅行に同行中、佐久郡野沢村並木家で描いたものか[4]
有竹居図 絹本墨画 渥美コレクション 大窪詩仏[9]
山水画 一幅 207x74 新潟県立図書館 [10]
山水画 一幅 207x74 新潟県立図書館 天保4年(1833年)冬 月海草堂での作[10]
人物画 一幅 178x47 新潟県立図書館 天保14年(1843年) [10]
松下虎図 絹本着色 98.5x35.5 個人 [11]
夏木重陰図 絹本墨画淡彩 125.0x59.0 個人 文化12年(1815年) [11]
山水図巻 絹本墨画淡彩 23.8x460.8 新潟市歴史博物館 文化13年(1816年) [11]
山水人物押絵貼屏風 紙本墨画淡彩 六曲一双 各隻1,6扇137.0x51.5、2-5扇137.0x53.8 正福寺 寛政8年(1796年)2月 従兄弟佐野其正との共作。右隻3扇(布袋図)・4扇・6扇(書画図)、左隻1扇・3扇・6扇(馬上の高士)が竹沙筆[12]
山水図 雪梁舎美術館寄託 文化6年(1809年) 亀田鵬斎賛[13]。「大井平瀑布記」巻末[11]
花鳥図 絹本着色 131.0x55.5 個人 天保13年(1842年) [11]
秋景山水釣艇図 絹本墨画淡彩 98.0x37.0 新潟市歴史博物館 [11]
山水図巻 絹本墨画 23.8x460.8 新潟市歴史博物館 [11]
長命富貴図 紙本着色 一幅 127.8x35.6 石川県立美術館 天保4年(1833年) [14]
蓮に鶺鴒図/水亭図 絖本 平野美術館 寛政12年(1800年)冬 松平定信『楽翁画帖』巻4掲載[15]
荘生夢蝶の図 天明2年(1782年) 釈香樹『北山詩集』掲載[16]
山水図
人物図

『竹沙小品』

亀田鵬斎序、文化10年(1813年)刊[6]。竹沙筆12図と各界文人に依頼した漢詩22首とを交互に掲載する[6]

逸話

王元章「墨梅」を愛蔵した[17]

奇行が多く、亀田鵬斎等から「竹痴」と呼ばれた。信中に珍しい石を所蔵している人がいると聞き、山水花卉図数十頁を描いて潤筆料の代わりに譲り受け、人を雇って背負わせて持ち帰った。芸妓に入れ込み、思いが止まず、そのいる方角を向いて一日中座って空を見上げていることがあった。酒を飲むと酔って踊り出し、手足の動作が刺松点や乱柴を描くようだったため、顧愷之米芾に擬えられた[18]

善導寺に父浚明の墓碑を建てる際、先に柴野栗山撰・巻菱湖書の碑文が存在していたものの、菱湖と不和だったためこれを用いず、片山北海撰・永根氷斎書のものを用いたという[8]

弟子

家族

  • 父:五十嵐片原(元誠、子勉)
  • 母:谷氏[20]
  • 子:五十嵐雪槎(此宝) - 『竹沙小品』に倣い『雪槎墨戯』を出版した。晩年越後に帰って市島礼卿の下に身を寄せ、慶応年間水原で死去した[21]
  • 子:五十嵐竹塢(亦吉、高槐) - 天保13年(1842年)『人名録』に下谷聖天町在住として載る。1896年(明治29年)69歳で死去した[8]

脚注

  1. ^ a b c d 藤浪 1940, p. 276.
  2. ^ 桜井 1914, p. 271.
  3. ^ 髙松 2016, p. 88.
  4. ^ a b 武田 1998a, p. 2.
  5. ^ 藤山 1898, p. 180.
  6. ^ a b c d 武田 1998a, p. 3.
  7. ^ 武田 1998b, pp. 119–120.
  8. ^ a b c 三村 1936, p. 55.
  9. ^ 武田 1998a, pp. 3–4.
  10. ^ a b c 越後佐渡デジタルライブラリー”. 新潟県立図書館. 2018年5月14日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g 開館記念3周年記念企画展 新潟・文人去来 ― 江戸時代の絵画をたのしむ ―”. 新潟市歴史博物館. 2018年5月14日閲覧。
  12. ^ 岩田 2014, pp. 33–36.
  13. ^ 岩田 2014, p. 33.
  14. ^ 長命富貴図”. 所蔵品のご案内. 石川県立美術館. 2018年5月14日閲覧。
  15. ^ 髙松 2016, p. 11.
  16. ^ 坂口 1918, p. 498.
  17. ^ 坂口 1918, p. 494.
  18. ^ 坂口 1918, pp. 494–495.
  19. ^ 岩田 2014, p. 29.
  20. ^ 桜井 1914, p. 32.
  21. ^ 坂口 1918, p. 495.

参考文献

  • 藤山鋹太郎『近世越佐人物伝』樋口小左衛門、1898年9月。NDLJP:777631/107 
  • 桜井市作『船江遺芳録』桜井市作、1914年9月https://books.google.co.jp/books/reader?id=dO70o5cC1AwC&pg=GBS.PA271 
  • 今泉鐸次郎『北越名流遺芳』 第1集、目黒書店、1918年6月。NDLJP:1185239/95 
  • 坂口仁一郎北越詩話』 上巻、目黒甚七、1918年11月https://books.google.co.jp/books/reader?id=LtkpLAR9A74C&pg=GBS.PT566 
  • 新潟市役所新潟市史』 下巻、新潟市役所、1934年12月https://books.google.co.jp/books?id=jRiZpKE357AC&pg=PT1028 
  • 三村清三郎大和室蔵 間雲一朶 二(公刊)」『美術研究』第73号、東京文化財研究所、1938年1月、東文研 00007617 
  • 藤浪和子『東京掃苔録』東京名墓顕彰会、1940年4月。 
  • 武田庸二郎「江戸の文人交遊録(その2) ―呉主善小伝―」『世田谷区立郷土資料館資料館だより』第28号、世田谷区立郷土資料館、1998年3月。 
  • 武田庸二郎「山水図 五十嵐竹沙筆・亀田鵬斎賛」『江戸の文人交友録 亀田鵬斎とその仲間たち 渥美コレクションを中心に』世田谷立郷土資料館、1998年9月。 
  • 岩田多佳子「正福寺所蔵の五十嵐浚明および孫の作品について」『平成25年度 新潟市文化財調査概要』、新潟市教育委員会、2014年12月。 
  • 杉本欣久「江戸中期の漢詩文にみる画人関係資料 ―事項一覧編―」『古文化研究』第9号、黒川古文化研究所、2010年3月。 
  • 髙松良幸「「楽翁画帖」について」『静岡大学情報学研究』第21号、静岡大学情報学部、2016年3月。 

外部リンク