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*'''第六十二回'''、[[張粛]]が弟の[[張松]]の密書を劉璋に届け、劉備の益州取りの野心が明らかになったことで、防衛戦の総大将が必要となる。これに[[劉循]]が名乗りをあげるがそれを抑え、彼に代わる形で前線に派遣されている。この時、副官として[[呉蘭]]・[[雷銅]]を推挙している。前線に着くと、早速[[劉璝]]・[[張任]]・[[冷苞]]らと対応を協議し、冷苞の建策を取り上げ、水攻めを企てている。 |
*'''第六十二回'''、[[張粛]]が弟の[[張松]]の密書を劉璋に届け、劉備の益州取りの野心が明らかになったことで、防衛戦の総大将が必要となる。これに[[劉循]]が名乗りをあげるがそれを抑え、彼に代わる形で前線に派遣されている。この時、副官として[[呉蘭]]・[[雷銅]]を推挙している。前線に着くと、早速[[劉璝]]・[[張任]]・[[冷苞]]らと対応を協議し、冷苞の建策を取り上げ、水攻めを企てている。 |
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*'''第六十三回'''、実行部隊にも名乗りをあげた冷苞が、魏延の妨害にあい失敗。後詰として派遣されていた呉蘭・雷銅も[[黄忠]]に追い散らされ、計画は頓挫してしまう。呉懿は次の作戦を協議するが、今度は張任の建策により、彼が伏兵として外に出される事になる。張任は、たまたまやってきた[[ |
*'''第六十三回'''、実行部隊にも名乗りをあげた冷苞が、魏延の妨害にあい失敗。後詰として派遣されていた呉蘭・雷銅も[[黄忠]]に追い散らされ、計画は頓挫してしまう。呉懿は次の作戦を協議するが、今度は張任の建策により、彼が伏兵として外に出される事になる。張任は、たまたまやってきた[[龐統]]を劉備と取り違え射殺。張任の報告により劉備を討ち取ったと思った呉懿らは、城から全軍で討って出て、劉備の軍を散々に追い散らしている。結果、劉備は諸葛亮に便りを出し、[[荊州]]の援軍を待って進軍するよう計画を立て直すことになる。守将として[[関羽]]を残し荊州から進発した諸葛亮は、[[張飛]]らを率いて益州に入ると、[[厳顔]]を打ち破っている。 |
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*'''第六十四回'''、主将が呉懿から劉循に交代し、呉懿は張任から命令される立場となっている。すでに劉備の軍による毎夜のような夜討ちに疲労し、敗勢は色濃くなっていく。事態を打開すべく、張任は劉備一人を狙って討ち取ろうとするが、張飛の軍に阻まれてしまう。降将の厳顔が行く先々の太守を調略した事で、諸葛亮の軍が僅かな期間で到着していたのである。両軍は総力戦を行ない、呉懿・劉璝・呉蘭・雷銅が魏延・黄忠の二将を挟撃し、一旦は打ち破る。しかし、呉蘭・雷銅は二将を追う内に敵陣深くに入り込んで孤立し、降伏。呉懿は、張任・[[卓膺]]らと共に、劉備との最後の決戦に挑むが、張任が諸葛亮の罠にかかって生け捕りにされると、戦意を失って卓膺らとともに劉備に降伏している。張任は降る事を拒んで斬首となり、城を守っていた劉璝もまた内応した[[張翼]]に殺されてしまう。劉循は成都に逃げ戻っている。呉懿は厳顔とともに劉備の軍を先導し、益州の調略を行なうことになる。 |
*'''第六十四回'''、主将が呉懿から劉循に交代し、呉懿は張任から命令される立場となっている。すでに劉備の軍による毎夜のような夜討ちに疲労し、敗勢は色濃くなっていく。事態を打開すべく、張任は劉備一人を狙って討ち取ろうとするが、張飛の軍に阻まれてしまう。降将の厳顔が行く先々の太守を調略した事で、諸葛亮の軍が僅かな期間で到着していたのである。両軍は総力戦を行ない、呉懿・劉璝・呉蘭・雷銅が魏延・黄忠の二将を挟撃し、一旦は打ち破る。しかし、呉蘭・雷銅は二将を追う内に敵陣深くに入り込んで孤立し、降伏。呉懿は、張任・[[卓膺]]らと共に、劉備との最後の決戦に挑むが、張任が諸葛亮の罠にかかって生け捕りにされると、戦意を失って卓膺らとともに劉備に降伏している。張任は降る事を拒んで斬首となり、城を守っていた劉璝もまた内応した[[張翼]]に殺されてしまう。劉循は成都に逃げ戻っている。呉懿は厳顔とともに劉備の軍を先導し、益州の調略を行なうことになる。 |
2020年7月12日 (日) 08:22時点における版
呉 懿(ご い、? - 237年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は子遠。正史では司馬懿の諱を避けて
事跡
少年時代に父を失ったが、かつて亡父と旧交のあった劉焉の入蜀の際に母と妹、そして族弟の一家と共に益州に移住し、劉焉亡き後は子の劉璋に仕えて中郎将に任じられた。
212年、劉備が劉璋を攻撃すると防御にあたったが、防ぐことができずに降伏した。劉備は益州を平定すると彼を護軍・討逆将軍に任じた。
228年、街亭の戦いで諸葛亮が馬謖を用いようとしたが、諸将は実戦経験豊富な呉懿や魏延を推挙したという。だが諸葛亮は聴き容れず、馬謖を任用して大敗を喫した。230年、魏延と共に羌中に進出し、魏の費曜を撃破して高陽郷侯に封じられた。234年の諸葛亮の死後、車騎将軍となって漢中を守った。王平が副将として、呉懿を支えたという。
237年に死去した。子は早世していたために、孫が跡を継いだという。
呉懿は博愛の人物として知られ、戦功もあり、何より皇帝の外戚という重要人物でありながら、正史に彼個人の伝が立てられていない。
孫は成漢の李雄と戦って捕えられたが、30年間も李雄に屈しなかった[1]。
評価
季漢輔臣賛において「非常に剛毅な人物であり、博愛の心を持っていた。弱軍を率いて強敵を制圧し、危機に陥ることがなかった」と称賛されている。
三国志演義
- 第六十二回、張粛が弟の張松の密書を劉璋に届け、劉備の益州取りの野心が明らかになったことで、防衛戦の総大将が必要となる。これに劉循が名乗りをあげるがそれを抑え、彼に代わる形で前線に派遣されている。この時、副官として呉蘭・雷銅を推挙している。前線に着くと、早速劉璝・張任・冷苞らと対応を協議し、冷苞の建策を取り上げ、水攻めを企てている。
- 第六十三回、実行部隊にも名乗りをあげた冷苞が、魏延の妨害にあい失敗。後詰として派遣されていた呉蘭・雷銅も黄忠に追い散らされ、計画は頓挫してしまう。呉懿は次の作戦を協議するが、今度は張任の建策により、彼が伏兵として外に出される事になる。張任は、たまたまやってきた龐統を劉備と取り違え射殺。張任の報告により劉備を討ち取ったと思った呉懿らは、城から全軍で討って出て、劉備の軍を散々に追い散らしている。結果、劉備は諸葛亮に便りを出し、荊州の援軍を待って進軍するよう計画を立て直すことになる。守将として関羽を残し荊州から進発した諸葛亮は、張飛らを率いて益州に入ると、厳顔を打ち破っている。
- 第六十四回、主将が呉懿から劉循に交代し、呉懿は張任から命令される立場となっている。すでに劉備の軍による毎夜のような夜討ちに疲労し、敗勢は色濃くなっていく。事態を打開すべく、張任は劉備一人を狙って討ち取ろうとするが、張飛の軍に阻まれてしまう。降将の厳顔が行く先々の太守を調略した事で、諸葛亮の軍が僅かな期間で到着していたのである。両軍は総力戦を行ない、呉懿・劉璝・呉蘭・雷銅が魏延・黄忠の二将を挟撃し、一旦は打ち破る。しかし、呉蘭・雷銅は二将を追う内に敵陣深くに入り込んで孤立し、降伏。呉懿は、張任・卓膺らと共に、劉備との最後の決戦に挑むが、張任が諸葛亮の罠にかかって生け捕りにされると、戦意を失って卓膺らとともに劉備に降伏している。張任は降る事を拒んで斬首となり、城を守っていた劉璝もまた内応した張翼に殺されてしまう。劉循は成都に逃げ戻っている。呉懿は厳顔とともに劉備の軍を先導し、益州の調略を行なうことになる。
- 第百回、諸葛亮の計略に従い、呉班・関興・廖化とともに曹真の副将である秦良の軍を待ち伏せし、打ち破る。その後は彼らと共に降参した魏軍の兵士を率い、曹真の本陣に潜入している。しかしこの計画は、司馬懿によって埋伏の毒と見破られており、失敗してしまう。
- 第百二回、魏軍が渭水を下って攻めてくる事を恐れた諸葛亮の命に従い、呉班とともに橋の焼き討ちを任じられる。しかし、この計画も司馬懿によって看破されており、呉班が魏軍の待ち伏せにあって戦死、呉懿も橋の焼き討ちに失敗している。以後は登場しない。