コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「張天錫」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
100行目: 100行目:
[[383年]]8月、苻堅は80万を超える大軍を率いて南征に出ると、張天錫は征南大将軍[[苻融]]の征南司馬となり、これに従軍して[[寿県|寿春]]に屯した。
[[383年]]8月、苻堅は80万を超える大軍を率いて南征に出ると、張天錫は征南大将軍[[苻融]]の征南司馬となり、これに従軍して[[寿県|寿春]]に屯した。


11月、苻堅が[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で大敗を喫すると、張天錫は陣営を脱出して東晋軍に帰順した。その後、東晋軍に従って建康に入った。[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]は詔を下して「昔([[秦]]の[[穆公 (秦)|穆公]]は{{仮リンク|コウの戦い|label=殽の戦い|zh|殽之戰}}で[[晋 (春秋)|晋]]に大敗しながらも、[[百里奚]]の子で戦いの指揮官であった){{仮リンク|孟明視|label=孟明(百里視)|zh|孟明視}}を更迭せずにいたことで、終には彼の功は明らかとなった。どうして一事をもって才ある者を用いずにいようか!これをもって天錫を散騎常侍・左員外とする」と述べ、さらに詔を下して「もとの[[太尉]]・西平公[[張軌]]は遠方においてその徳は著しく、代々その労があった。強兵を阻んでいたが、遂に守りを失うに至った。散騎常侍天錫は高位にありながら朝に登り、先祖の祭祀は廃されることとなった。これに憐れみ嘆くばかりである。天錫に西平公の爵位を復すべきである」と述べ、張天錫はやがて金紫[[光禄大夫]]に任じられた。
11月、苻堅が[[淝水の戦い]]で大敗を喫すると、張天錫は陣営を脱出して東晋軍に帰順した。その後、東晋軍に従って建康に入った。[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]は詔を下して「昔([[秦]]の[[穆公 (秦)|穆公]]は{{仮リンク|コウの戦い|label=殽の戦い|zh|殽之戰}}で[[晋 (春秋)|晋]]に大敗しながらも、[[百里奚]]の子で戦いの指揮官であった){{仮リンク|孟明視|label=孟明(百里視)|zh|孟明視}}を更迭せずにいたことで、終には彼の功は明らかとなった。どうして一事をもって才ある者を用いずにいようか!これをもって天錫を散騎常侍・左員外とする」と述べ、さらに詔を下して「もとの[[太尉]]・西平公[[張軌]]は遠方においてその徳は著しく、代々その労があった。強兵を阻んでいたが、遂に守りを失うに至った。散騎常侍天錫は高位にありながら朝に登り、先祖の祭祀は廃されることとなった。これに憐れみ嘆くばかりである。天錫に西平公の爵位を復すべきである」と述べ、張天錫はやがて金紫[[光禄大夫]]に任じられた。


張天錫は幼い頃より文才があり、遠近から名を知られて邁人の傑であると称されていた。その為、東晋に帰順して以降は甚だ恩遇を受け、孝武帝は彼を重んじていつも終日に渡って論じ合った。だが、国が敗れて虜となったことから、彼を誹る朝士もまた多かったという。やがて精神を病んで生気を失ってしまい、列位に処されてはいたものの、誰もまともに相対しなくなった。
張天錫は幼い頃より文才があり、遠近から名を知られて邁人の傑であると称されていた。その為、東晋に帰順して以降は甚だ恩遇を受け、孝武帝は彼を重んじていつも終日に渡って論じ合った。だが、国が敗れて虜となったことから、彼を誹る朝士もまた多かったという。やがて精神を病んで生気を失ってしまい、列位に処されてはいたものの、誰もまともに相対しなくなった。

2020年7月12日 (日) 08:15時点における版

悼公 張天錫
前涼
第9代君主
王朝 前涼
在位期間 363年 - 376年
姓・諱 張天錫
純嘏
諡号 悼公
廟号
生年 346年
没年 406年
張駿
劉美人
年号 升平363年 - 376年

張 天錫(ちょう てんしゃく、346年 - 406年)は、五胡十六国時代前涼の第9代君主。は純嘏。小名は独活。第4代君主張駿の末子。母は劉美人。

生涯

若き日

346年、張駿の末子として生まれた。

354年1月、兄の張祚が涼王を称すると、長寧侯に封じられた。

361年9月、中領軍に任じられ、中護軍張邕と共にまだ幼かった甥の張玄靚の輔政にあたった。

政変を決行

張邕は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患っていた。

張天錫の腹心である郭増劉粛は、就寝中の張天錫へ「国家は未だ鎮まる事を望んでいないようです!」と言った。張天錫は「何を言っている」と問うと、両者は「今、護軍(張邕)が出入りしておりますが、これは長寧(張祚)の振る舞いと似ております」と答えた。張天錫は驚いて「我もこれを強く疑っているが、敢えて口には出さなかった。計が何かあるのかね」と問うと、劉粛は「これを速やかに除く他ありません」と答えた。張天錫は「それを実行する人はいるのか」と問うと、劉粛は「肅がまさにその人です!」と答えた。この時、劉粛は20歳にも達していなかったので、張天錫は「汝は年少である。助けが必要であろう」と述べると、劉粛は「趙白駒とこの粛の二人で十分です」と答えた。これにより、張天錫は張邕暗殺を決意した。

11月、張天錫は兵400を伴って入朝し、張邕もまた入朝した。劉粛・趙白駒は刀を鞘から出す準備をしながら張天錫に付き従った。そして、門下において張邕と出くわすと、劉粛が張邕へ斬りかかったが、避けられた。趙白駒もこれに続いたが、失敗した。二人は諦めて張天錫と共に禁中へ入ると、張邕は反攻に転じて三百余りの兵を率いて宮門を攻撃した。張天錫は屋へ登ると「張邕は凶逆にして無道を為している。諸宋(宋澄一族は張邕に誅殺された)には何の罪があって尽く誅殺されたというのか。さらには今、国家を傾覆しようとし、社稷を乱そうとしている。我は死を惜しんではおらぬが、先人の祭祀が廃されることを恐れ、ここに至った。これは我家の門戸の事であり、どうして汝ら将士は戈を向けて相対しようか。今、誅殺するのは張邕1人である。他の者は罪を問う所ではない。天地には霊があり、我は約束破らぬ」と叫んだ。これを聞き、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。

朝権を握る

張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄靚はまだ幼く、その性格は仁弱であったので、張天錫が政治を専断するようになった。

12月、張天錫は建興49年を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。

363年8月、張玄靚の母である郭氏は張天錫の専横を憎み、大臣張欽らと謀って張天錫の誅殺を目論んだ。だが、この計画は事前に露見し、張天錫は張欽らを尽く誅殺した。張玄靚はこれを大いに恐れ、位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。

同月、右将軍劉粛らは議して、張玄靚が幼沖であり国家は多難である事から、長君が立つべきであると述べ、張天錫へ自立を勧めた。張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄靚を殺害させた。その後、張天錫は張玄靚が急死したと宣言した。

君主に推戴

国の人は張天錫を主君に推戴し、太廟において拝謁した。嫡母(父の正妻)である厳氏を太王太后に立て、生母である劉氏を王后[1]に立て、張玄靚を平陵に葬り、沖公[2]と諡した。また、自ら使持節・大都督大将軍・護羌校尉・涼州・西平公・涼王[3]を号した。さらに、司馬綸騫に上表文を携えて東晋に派遣してその命を請うと共に、侍御史兪帰張重華の時代に到来した東晋からの使者)を送り届けた。

364年2月[4]、東晋より詔が下り、張天錫は大将軍・大都督・隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史に任じられ、西平公に封じられた。

6月、前秦君主苻堅大鴻臚を使者として前涼に派遣し、張天錫は大将軍・涼州牧・西平公に任じられた。

張天錫は即位して以降、音楽や酒・女に溺れて政治を省みる事が無かった。また、驕り昂って夜遅くまで遊び惚けていた。

365年1月、張天錫は元日にも関わらず、寵臣とだらしなく飲み騒ぎ、群臣からの朝賀を受けなかった。また、永訓宮に留まって朝廷にも顔を出す事がなかった。從事中郎張慮は棺を担いで決死を覚悟してその振る舞いを諫め、朝政を観るように請うたが、張天錫は従わなかった。少府長史紀瑞もまた上疏し、その時政について「臣が聞く所によりますと、東野はよく御してその駕を敗り、秦氏は富強となって国を覆しました。馬力は既に尽き、これを求めたならば休むことも出来ません。人は既に披露して枯渇し、死人には労働は出来ません。造父の御では馬は尽きる事無く、虞舜の治では、人が窮する事はありませんでした。故に造父は御を失せず、虞舜は人を失いませんでした」と諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。

366年10月、張天錫は前秦へ使者を派遣し、国交の断絶を通達した。以前、前涼に背いて隴西に割拠していた李儼は前秦の傘下に入っていたが、張天錫の時代になると再び前涼とも通じるようになった。

李儼征伐

12月、羌族斂岐が前秦から反旗を翻して益州刺史を自称し、部落4千家余りを引き連れて西方に割拠していた李儼に臣従した。これを機に、李儼は前秦とも前涼とも国交を断絶した。

367年2月、前秦の輔国将軍王猛らが斂岐討伐に向かった。3月、張天錫は李儼討伐の兵を挙げると、別駕楊遹を監前鋒軍事・前将軍に任じて金城に進ませ、晋興相常據を使持節・征東将軍に任じて左南に進ませ、游撃将軍張統を白土に進ませ、張天錫自らは3万を率いて倉松に拠った。4月、王猛は略陽を攻略し、斂岐を捕らえた。

4月、張天錫は大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據は葵谷において李儼軍を撃破した。張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯すると、李儼は恐れて枹罕まで後退し、甥の李純を前秦へ派遣し、謝罪して救援を請うた。苻堅は前将軍楊安と建威将軍王撫に2万の兵を与えて王猛と合流させ、李儼救援を命じた。

王猛が楊安と共に枹罕へ進むと、楊遹は枹罕の東でこれを迎え撃つも、大敗を喫した。この戦いで捕虜・斬首併せて1万7千を失い、全軍の2・3割に及んだ。また、前涼の将軍陰拠もまた敗北して捕らえられ、5千の兵を奪われた。その後、枹罕城下において張天錫は王猛と睨み合いの状態となった。王猛は張天錫へ書簡を送り「我が受けた詔は李儼救援のみであり、涼州と交戦する事ではない。今、防備を固めて次の詔を待っている所であるが、こうして膠着状態となっても互いに疲弊するだけで良策ではない。もし将軍が退却するのであれば、我は李儼の下へ赴くだけである。将軍は無事に帰る事が出来、それが最良だとは思わんかね」と告げた。これを読んだ張天錫は諸将へ「猛の書はこう言っている。我はもとより反乱を討ちに来ただけであり、秦と戦いに来たわけではない」と述べ、軍を撤退させた。その後、王猛は李儼を捕らえて枹罕を陥落させた。当時、前秦は強盛であり、これ以降も毎年のように侵攻を受けて、兵を動かさない年はなかったという。

前秦に称藩

368年、臨松郡を設置した。

369年春、子の張大懐を世子に立てた。この年、災害や変異が相次いだので、張天錫は素服を着て正殿を避け、咎を引いて罪を責めた。

370年、東晋より再び使者が到来し、張天錫は都督隴右関中諸軍事・大将軍・涼州牧に任じられ、西平公に封じられた。

371年4月、苻堅は以前捕らえていた陰拠と兵士5千を前涼に返還し、梁殊閻負に送らせた。この時、王猛は張天錫へ書を送り「昔、貴の先公は劉(前趙)・石(後趙)の藩を称したが、これはただ強弱を考えてのものであった。今、涼土の力を論じれば、往年からは損なわれている。また、大秦の徳は二趙の比ではない。にもかかわらず、将軍は翻然として断絶している。宗廟の福とはならないであろう!秦の威を以てすれば、遠方を揺らし、弱水を回して東に流し、江・河を逆流させて河を西に注がせる事も出来よう。関東は既に平らげており、この兵を河右へ移せば、恐らく六郡の士民では抗する事叶わぬであろう。かつて(後漢末に)劉表は『漢南を保つ事が出来る』と言ったが、将軍も『河西を全うできる』と言うかね。吉凶は身にあるものである、元亀は遠くにはない。故に、深算・妙慮し、自ら多福を求めるべきである。六世の業を一代で地に堕とすべきではないぞ!」と述べ、前秦の傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫は大いに恐れ、苻堅に謝罪して称藩を告げる使者を派遣した。苻堅はこれを認め、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じ、西平公に封じた。

東晋と通じる

12月、苻堅は河州刺史李弁を涼州に移らせ、金城を統治させた。張天錫は前涼征伐の準備ではないかと煩い、大いに恐れた。その為、姑臧の南に壇を立てて家畜を捧げると共に、東晋との修好を強めようと思い、典軍将軍張寧・中堅将軍馬芮らを派遣し、東晋の三公と盟約を交わした。また、従事中郎韓博、奮節将軍康妙を東晋朝廷に派遣して表を奉じて盟文を送り、大司馬桓温に書を献じ、372年の夏[5]上邽に集結して共に前秦を討つ事を誓い合った。

372年、母の劉氏が亡くなった。

373年1月、世子の張大懐を廃嫡して使持節・鎮西将軍に任じて高昌公に封じ、寵愛していた焦氏の子である張大豫を代わって世子に立て、焦氏を左夫人に立てた。7月、大水・地震が起こり、西平では50日に渡って大地が動き、建物は崩れたという。8月、張天錫は病に倒れると、禍を祓う為に美人閻氏・薛氏を自殺させ、供物とした。10月、張天錫の病が癒えると、領内に大赦を下すと共に、両美人を追悼して夫人の礼で葬った。

梁景・劉粛はともに豪族の家柄であり、幼少期より張天錫と親しかった。また、張天錫が張邕を誅殺した時、劉粛・梁景は大いに勲功を挙げたので、張天錫は深くこれを徳とした。この2人は寵用されて『張』の姓を賜り、張天錫の諸子はみな『大』の字があったので、梁景は大奕、劉粛は大誠と字を改められて養子となり、国政にも参画するようになった。これにより衆人はみな大いに憤怒したという。従兄弟である従事中郎張憲はこれを頑なに諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。

前涼滅亡

376年7月、苻堅は武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに13万の兵を与え、前秦征伐を命じた。さらに、秦州刺史苟池・河州刺史李弁・涼州刺史王統に命じ、三州の兵をもって後続とした。また、閻負・梁殊を前涼に派遣し、張天錫へ長安に入朝するよう勧めさせた。閻負らが姑臧へ到着すると、張天錫は百官へ「今入朝すれば、必ずや帰れぬであろう。従わなければ、秦兵は必ずや到来するであろう。これをどうすべきか」と尋ねると、禁中録事席仂は「先公の故事にある通り、愛子を人質とし、重宝をもって賄賂とし、敵を退却させるのです。しかる後に、徐やかに計を為すのです。これが即ち、孫仲謀(孫権)の『屈伸の術』です」と勧めた。だが、他の者はみな席仂が弱腰であると激怒して「我らは代々晋朝に仕え、忠節は海内において著しいものがあります。今、一旦でも賊庭に身を委ねたならば、その辱は祖宗にまで及びましょう。これ以上の醜めはありません!また、河西は天険の地であり、百年の間虞などありません。もし領内の兵を総動員し、西に西域を招いて北に匈奴を引き入れて拒んだならば、どうして敗れる事をおそれましょうか![6]」と言い合った。これを聞いた張天錫は衣を翻すと「孤の計は決まった!降伏を語る者は斬る!」と大声で叫んだ。そして、閻負・梁殊へ「君たちは生きて帰りたいかね。死して帰りたいかね」と脅したが、梁殊は屈服せずに語気を強めて言い返した。張天錫はこれに怒り、二人を軍門に縛り付ると、軍士へ交互に射撃するよう命じ「射して当たらぬ者は、我と心を同じくする者ではないぞ」と言い放った。嫡母の厳氏は涙を流して「秦主は一州の地をもって天下を制しました。東は鮮卑(前燕)を平らげ、南は巴蜀を取り、その兵は留まることを知らず、向かうところ敵がありません。汝がもし降伏すれば、なお数年は命を長らえましょう。今、僅かなこの一隅の地をもって大国に抗衡しようとしている。さらに、その使者まで殺してしまいました。明日にでも亡国の憂き目に遭いましょう!」と嘆いた。張天錫はこれを聞かずに龍驤将軍馬建に2万の兵を与え、前秦軍を迎え撃たせた。2人の使者が殺された事実は前秦へも伝わった。

8月、梁熙・姚萇・王統・李弁は清石津から河を渡って河会城へ侵攻すると、河会城を守る驍烈将軍梁済は前秦へ降伏した。苟萇は石城津から渡河すると、梁熙らと共に纒縮城を攻め、これもまた陥落した。馬建は大いに恐れ、清塞まで撤退した。張天錫は征東将軍常據へ3万の兵を与えて洪池へ派遣し、自らもまた5万の軍で金昌城へ出征した。安西将軍宋皓は張天錫へ「臣は昼に人事を見、夜に天文を見ましたが、秦軍には敵いません。これを降すことができません」と諫めたが、張天錫は怒って宋皓を宣威護軍に降格した。広武郡太守辛章は城を保って固守すると、晋興相彭和正・西平相趙疑と謀って「馬建が出陣しても、必ずや国家のために用いることはできず、秦軍は深く入るであろう。我らが三郡の精鋭を率いてその糧道を断ち、一朝にして命を決しようぞ」と言い合った。征東将軍常據もまず姚萇を撃つべきだと考えたが、これらは張天錫の命により止められた。

苟萇は姚萇に兵3千を与えて先鋒とすると、馬建は1万の兵を率いて姚萇らを防いだが、大敗を喫して前秦へ降伏してしまった。これにより、他の前涼兵は逃散してしまった。さらに、苟萇が洪池に進むと、常據は迎え撃つも敗れて戦死し、さらに軍司席仂もまた戦死した。前秦軍は清塞へ進むと、張天錫は司兵趙充哲・中衛将軍史景に勇軍5万を与えて迎撃させたが、赤岸において趙充哲は姚萇に敗北を喫した。これにより3万8千の兵を失って趙充哲は戦死し、史景もまた陣没した。張天錫は大いに恐れ、自ら城を出撃したが、留守となった城内で反乱が起こった。その為、やむなく数千騎を率いて姑臧へ撤退した。前秦軍が姑臧まで進軍すると、窮した張天錫は左長史馬芮の勧めに応じ、降伏を決断した。自らを縛り上げて棺を伴い、素車・白馬を用い、苟萇の軍門に降った。苟萇はその戒めを解いて棺材を焼き払うと、張天錫を長安へ送致した。これにより、涼州の郡県はみな前秦へ降伏した。こうして前涼は滅亡した。張天錫の即位から13年の出来事であった。

その後

9月、張天錫は長安に到着すると、帰義侯に封じられ、侍中・比部尚書に任じられた。苻堅は前涼征伐より前に、張天錫の為に新しい邸宅を造っており、予定通り張天錫はその邸宅に住むこととなった。やがて、右僕射に移った。

383年8月、苻堅は80万を超える大軍を率いて南征に出ると、張天錫は征南大将軍苻融の征南司馬となり、これに従軍して寿春に屯した。

11月、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると、張天錫は陣営を脱出して東晋軍に帰順した。その後、東晋軍に従って建康に入った。孝武帝は詔を下して「昔(穆公殽の戦い中国語版に大敗しながらも、百里奚の子で戦いの指揮官であった)孟明(百里視)中国語版を更迭せずにいたことで、終には彼の功は明らかとなった。どうして一事をもって才ある者を用いずにいようか!これをもって天錫を散騎常侍・左員外とする」と述べ、さらに詔を下して「もとの太尉・西平公張軌は遠方においてその徳は著しく、代々その労があった。強兵を阻んでいたが、遂に守りを失うに至った。散騎常侍天錫は高位にありながら朝に登り、先祖の祭祀は廃されることとなった。これに憐れみ嘆くばかりである。天錫に西平公の爵位を復すべきである」と述べ、張天錫はやがて金紫光禄大夫に任じられた。

張天錫は幼い頃より文才があり、遠近から名を知られて邁人の傑であると称されていた。その為、東晋に帰順して以降は甚だ恩遇を受け、孝武帝は彼を重んじていつも終日に渡って論じ合った。だが、国が敗れて虜となったことから、彼を誹る朝士もまた多かったという。やがて精神を病んで生気を失ってしまい、列位に処されてはいたものの、誰もまともに相対しなくなった。

隆安年間、会稽王の世子である司馬元顕が朝権を握るようになると、しばしば張天錫を呼び出しては愚弄したという。

張天錫の家は貧しかったので、廬江郡太守に任じられたが、本来の官爵もまた以前通りであった。

403年12月、桓玄が帝位を簒奪し桓楚を建国すると、彼は遠方の民を招懐しようと考え、張天錫を護羌校尉・涼州刺史に任じた。

406年、この世を去った。享年61。鎮西将軍・金紫光禄大夫を追贈され、悼公と諡された。

子の張大豫は河西に逃れて後涼天王呂光と涼州を争ったが、敗れて殺された。

逸話

  • 張天錫は元々の字を公純嘏といったが、入朝した際に字が三文字である事を人から笑われた事があった。その為、それ以降は純嘏と改めた。
  • 張天錫は即位して以降、頻繁に庭園で宴を催し、政務を怠けていたので、盪難将軍・校書祭酒索商は上書してこれを極諌した。すると張天錫は「我がこのような事を行うのは好みではなく、得るものがあるからである。朝栄を見て才秀の士を敬い、芝蘭を玩んで徳行の臣を愛し、松竹を睹て貞操の賢を思い、清流に臨んで廉潔の行を貴び、蔓草を覧じて貪穢の吏を賤しみ、飆風に逢って凶狡の徒を憎んでいるのだ。引きてはこれを申し(何かの事柄や考えから他の関連する意味に派生し、さらに発展する事)、触類してはこれを長じ(一つの物事の知識や法律を理解する時、それによって類似する事柄の知識も得られるという事)、諸々の事に遺漏などないのだ」と答えた。
  • 張天錫が後を継いでからというもの、連年に渡り地震が発生して山は崩落した。また、泉が出現し、柳が松に化け、泥中に火が生じるなど、怪異な事柄が相次いだという。
  • ある時、張天錫の住居である安昌門・平章殿が突如崩壊した。国が滅亡するのはその後まもなくであったという。
  • 東晋に渡った後の事、会稽王司馬道子は西土の特産について問うと、張天錫は「桑椹は甘く、鴟鴞の声は変わっており、乳酪は健康を養い、人は嫉む心がありません」と答えた。
  • 張天錫は幼い頃、東晋が多才であると聞き、江南の地に行きたいと強く願うようになった。ある時、東晋の司馬著作(名は不明)が彼の下を詣でたが、その言容は卑しく、見るべきところも聞くべきところも無かった。その為、内心では東晋を甚だ侮るようになり、憧れを抱く事も無くなった。その後、東晋の王珣は俊才によって評判となり、張天錫の耳にもその名は届いたが、偽りに過ぎないと思っていた。だが、後に江南に至って王珣と会うと、その風采は清令にして、その言は流れる如く陳説され、古今において知らない事はなかった。また、人物や氏族について諳んじると、誤りは一つも無く、その根拠も示した。これにより、張天錫は驚嘆して感服したという。
  • 張駿が即位した時、涼州では『劉新婦簸米、石新婦炊羖、羝蕩滌、簸張児、張児食之口正披』という歌謡が流行った。376年に前秦が襲来した時、姑臧と諸郡にいる童子はみなこれを謡うようになり、また「劉曜・石虎は並んで涼に来伐するも克てず、堅が至ると之に降った」と言い合った。
  • ある時、張天錫は夢を見た。その内容は、一匹の緑色の狗が現れ、その姿は甚だ長く、城の東南から侵入して張天錫を喰らわんとした。張天錫は床の上に逃れたが、地に堕ちてしまうというものだった。後に苟萇が姑臧を攻略すると、地は緑一面に染まり、苟萇は錦袍を着て東南門より入城した。みな夢の通りであった。
  • ある時、天水郡太守史稷は急死したが、50日後に蘇ると「涼州の謙光殿の中に、白瓜が生い茂るのが見える」と告げた。後に前秦の中書令梁熙らは前涼を滅ぼしたが、梁熙の小字は白瓜だったという。
  • 楊樹から松が生まれた。ある者はこれを天の戒めであるとして「松は枝葉が失われる事は無いが、楊は弱くて脆い。これは永久の業がまさに危亡の地に集まっているという事だ」といった。

宗室

妻妾

  • 左夫人焦氏、美人閻氏、美人薛氏

子女

年号

  1. 升平363年 - 376年(元号は東晋のものを使用した)

参考文献

脚注

  1. ^ 『資治通鑑』には太妃とある
  2. ^ 『十六国春秋』には沖王とある
  3. ^ 『晋書』には涼王を名乗ったとは記されていない
  4. ^ 『晋書』には366年の出来事とする
  5. ^ 『晋書』には371年の夏と、『十六国春秋』には376年の夏とする
  6. ^ 『晋書』には「龍驤将軍馬建に精兵1万人を与えて防がせたならば、必ずや敵を進ませない事でしょう」とある