コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「寇遐」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Ellsiemall (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
[[中華民国]]成立直後は[[陝西省 (中華民国)|陝西省]]臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員に選出されている。革命派として、反[[袁世凱]]の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員に復帰した。
[[中華民国]]成立直後は[[陝西省 (中華民国)|陝西省]]臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員に選出されている。革命派として、反[[袁世凱]]の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員に復帰した。


[[孫文]](孫中山)が[[護法運動]]を開始すると、これに応じて[[広州市|広州]]に赴き、国会非常会議議員、大元帥府参議などをつとめた。[[1922年]]([[民国紀元|民国]]11年)、第2次国会回復とともに再び北京で衆議院議員となった。しかし、翌年の[[曹コン|曹錕]]賄選に反発して孫の下に戻った。
[[孫文]](孫中山)が[[護法運動]]を開始すると、これに応じて[[広州市|広州]]に赴き、国会非常会議議員、大元帥府参議などをつとめた。[[1922年]]([[民国紀元|民国]]11年)、第2次国会回復とともに再び北京で衆議院議員となった。しかし、翌年の[[曹]]賄選に反発して孫の下に戻った。


[[1924年]](民国13年)の第2次[[奉直戦争]]の際には、[[北京政変]](首都革命)の発動に参与している。[[1925年]](民国14年)12月、[[許世英]]内閣で農商総長に任じられたが、翌年3月、[[賈徳耀]]内閣の途中で辞任する。以後は[[北京市|北京]]に寓居した。
[[1924年]](民国13年)の第2次[[奉直戦争]]の際には、[[北京政変]](首都革命)の発動に参与している。[[1925年]](民国14年)12月、[[許世英]]内閣で農商総長に任じられたが、翌年3月、[[賈徳耀]]内閣の途中で辞任する。以後は[[北京市|北京]]に寓居した。

2020年7月11日 (土) 21:31時点における版

寇遐
『改訂 現代支那人名鑑』1928年
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1953年9月6日
中華人民共和国陝西省西安市
出身地: 清の旗 陝西省同州府蒲城県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 寇遐
簡体字 寇遐
拼音 Kòu Xiá
ラテン字 K'ou Hsia
和名表記: こう か
発音転記: コウ シア
テンプレートを表示

寇 遐(こう か)は、末、中華民国の政治家。北京政府で農商総長をつとめた。勝孚。号は玄疵

事跡

1906年光緒32年)、西安師範学堂選科に入学する。在学中に中国同盟会に加入した。1909年宣統元年)に卒業後、同州中学堂監学となる。その傍らで、陝西省内の革命派の蜂起を支援する秘密活動に従事している。

中華民国成立直後は陝西省臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員に選出されている。革命派として、反袁世凱の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員に復帰した。

孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、これに応じて広州に赴き、国会非常会議議員、大元帥府参議などをつとめた。1922年民国11年)、第2次国会回復とともに再び北京で衆議院議員となった。しかし、翌年の曹錕賄選に反発して孫の下に戻った。

1924年(民国13年)の第2次奉直戦争の際には、北京政変(首都革命)の発動に参与している。1925年(民国14年)12月、許世英内閣で農商総長に任じられたが、翌年3月、賈徳耀内閣の途中で辞任する。以後は北京に寓居した。

1931年(民国20年)に帰郷し、陝西省政府委員、同省臨時参議会議員、国民政府行政院僑務委員会委員、同賑務委員会委員などをつとめた。金石文研究を好んだことから、1934年(民国23年)に西安金石書画学会を発足させて、その会長となる。また、秦腔(陝西省の地方劇・戯曲)にも造詣が深く、研究書を著している。

中華人民共和国成立後も故郷に留まっている。陝西省人民政府委員などをつとめた。

1953年9月6日、西安にて死去。享年70。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
楊庶堪
農商総長
1925年12月 - 1926年3月
次代
楊文愷