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[[1923年]](民国12年)7月、王克敏は[[高凌イ|高凌霨]]内閣で財政総長に就任した。ところが、[[奉天派]]指導者・[[張作霖]]の反発を受け、わずか1週間で辞任に追い込まれた。10月には中国銀行総裁からも辞任している。しかし、同月に[[直隷派]]の[[曹錕]]が総統となると状況は一転する。かねてから曹と交遊があった王は、曹が総統にあった間の多くの内閣で財政総長として起用された。[[1924年]](民国13年)10月の[[北京政変]](首都革命)により曹錕が拘禁されると、王はいったんは失脚した。しかし、まもなく公職に復帰し、かつての政敵であった張作霖の下でも任用されている。関税自主委員会委員などをつとめた。<ref>王(2002)、453-454頁。</ref><ref name=Xu/> |
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=== 国民政府での活動 === |
=== 国民政府での活動 === |
2020年7月11日 (土) 21:29時点における版
王克敏 | |
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『写真週報』1940年4月3日号 | |
プロフィール | |
出生: | 1873年(清同治12年) |
死去: |
1945年(民国34年)12月25日 中華民国北平市 |
出身地: | 清浙江省杭州府杭県 |
職業: | 政治家・銀行家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 王克敏 |
簡体字: | 王克敏 |
拼音: | Wáng Kèmĭn |
ラテン字: | Wang K'o-min |
注音二式: | Wáng Kèmĭn |
和名表記: | おう こくびん |
発音転記: | ワン コーミン |
王 克敏(おう こくびん)は中華民国の政治家、銀行家、外交官。北京政府、国民政府の政治家で、後に中華民国臨時政府の首脳となる。さらに汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府にも参加した。字は叔魯。
事績
清朝、北京政府での活動
郷試に合格した後の1901年(光緒27年)、清朝により日本に派遣される。そこで浙江留日官費生経理員、留日浙江学生監督、駐日公使館参賛を歴任した。1906年(光緒32年)、留日学生副監督に就任した。翌年に帰国し、度支部、外務部で勤務した。1908年(光緒34年)、直隷総督楊士襄の下で外交事務を担当する。1910年(宣統2年)、直隷交渉使に就任した。[1][2]
1913年(民国2年)、王克敏はフランスへ外遊して、帰国後に中法実業銀行董事に就任した。1917年(民国6年)7月、中国銀行総裁となる。同年11月、王士珍臨時内閣で財政総長となり、さらに中国銀行総裁と塩務署督弁も兼務した。1918年(民国7年)に辞任する。同年12月の南北政府による和平善後会議では、北京政府側代表の1人となった。1920年(民国9年)以降は、中法実業銀行総裁、天津保商銀行総理、中国銀行総裁などを歴任した。[1][2]
1923年(民国12年)7月、王克敏は高凌霨内閣で財政総長に就任した。ところが、奉天派指導者・張作霖の反発を受け、わずか1週間で辞任に追い込まれた。10月には中国銀行総裁からも辞任している。しかし、同月に直隷派の曹錕が総統となると状況は一転する。かねてから曹と交遊があった王は、曹が総統にあった間の多くの内閣で財政総長として起用された。1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)により曹錕が拘禁されると、王はいったんは失脚した。しかし、まもなく公職に復帰し、かつての政敵であった張作霖の下でも任用されている。関税自主委員会委員などをつとめた。[3][2]
国民政府での活動
1928年(民国17年)6月に、中国国民党の北伐軍が張作霖を破ると、王克敏も指名手配されたため、大連に逃げ込んだ。その後、張学良の庇護を受けて、東北辺防軍司令長官公署参議兼財務処処長として任用された。また、張学良の仲介により、1929年(民国18年)11月には指名手配も解除されている。[4][2]
1932年(民国21年)以降は、東北政務委員会委員、北平政務委員会財務整理委員会副委員長、行政院駐平政務整理員会財務処主任、華北戦区救済委員会常務委員、天津特別市市長、代理行政院駐平政務整理委員会委員長、冀察政務委員会委員、冀察政務委員会経済委員会主席を歴任した。しかし1935年(民国24年)9月、日本との交渉が不調に終わったことなどが原因で辞職し、上海に隠棲した。[5][2]
中華民国臨時政府などでの活動
日中戦争が勃発した後の1937年(民国26年)10月、王克敏は北支那方面軍特務部長喜多誠一の仲介で北平(北京)に迎え入れられた。そして、王揖唐らとともに、親日政権樹立作業を開始する。同年12月14日、中華民国臨時政府が成立すると、王克敏は行政委員会委員長兼議政委員会常務委員兼行政部総長に就任し、事実上の最高首脳となった。翌年、王克敏は、南京で中華民国維新政府を樹立していた梁鴻志と合流の交渉を開始する。同年9月22日に中華民国政府連合委員会が北平で設立され、これが臨時政府と維新政府の連合機関となった。1939年(民国28年)6月、王克敏は汪兆銘と合流の交渉を開始し、妥結に至っている。[6][2]
1940年(民国29年)3月に南京国民政府が成立し、王克敏の臨時政府、梁鴻志の維新政府はこれに併合された。南京国民政府の下では、臨時政府の旧統治地域を中心に華北政務委員会が成立し、王克敏が委員長兼内政総署督弁に任命されている。しかし、王は興亜院華北連絡部部長・森岡皐(喜多誠一の後任)や汪兆銘と対立したため、同年6月に辞任に追い込まれた。[7][2]
以後しばらく、王克敏は国民政府中央政治委員会委員のみの地位にあった。しかし1943年(民国32年)6月、華北政務委員会委員長に再任された。中央政治委員会当然委員・延聘委員、最高国防会議委員、全国経済委員会副委員長、物資調査委員会委員長なども歴任している。1945年(民国34年)2月、病身のために、各職から辞任した。日本敗北後の同年12月6日、王克敏は漢奸として北平で逮捕される。同月25日、王は獄中で死去した。享年73。一般には自殺したとされるが、病死説も有力である。[8]
注
参考文献
- 王春南「王克敏」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第11巻』中華書局、2002年。ISBN 7-101-02394-0。
- 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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