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[[天津武備学堂]]卒業生。[[1911年]]([[宣統]]3年)に北洋第3鎮第5協管帯、標統を歴任した。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、第3師の団長に就任する。[[1917年]](民国6年)に直隷派の[[曹錕]]配下として[[直隷省|直隷]]第2混成旅旅長に昇進した。[[1920年]](民国9年)、第20師師長に昇進する。翌年5月、署[[陝西省 (中華民国)|陝西]]督軍に任命された。この時、[[馮玉祥]]率いる第16混成旅などを率いて陝西省入りし、[[安徽派]]の前督軍[[陳樹藩]]を撃破している。<ref name=Xu>徐主編(2007)、2645頁。</ref> |
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しかし閻相文は、陝西省で活動する民軍に妨げられ、[[西安市|西安]]以外の地域を統制することができなかった。そのため、軍の糧食を供給することも困難となり、精神的に追い詰められていく。同年8月23日、閻は西安の督署において[[アヘン]]を服用し、自殺した。享年47。<ref name=Xu/>後任の督軍には馮玉祥が就任した。 |
しかし閻相文は、陝西省で活動する民軍に妨げられ、[[西安市|西安]]以外の地域を統制することができなかった。そのため、軍の糧食を供給することも困難となり、精神的に追い詰められていく。同年8月23日、閻は西安の督署において[[アヘン]]を服用し、自殺した。享年47。<ref name=Xu/>後任の督軍には馮玉祥が就任した。 |
2020年7月11日 (土) 21:29時点における版
閻相文 | |
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プロフィール | |
出生: | 1875年(清光緒元年) |
死去: |
1921年(民国10年)8月23日 中華民国陝西省西安 |
出身地: | 清山東省済寧州 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 閻相文 |
簡体字: | 阎相文 |
拼音: | Yán Xiāngwén |
ラテン字: | Yen Hsiang-wen |
和名表記: | えん しょうぶん |
発音転記: | イエン シアンウェン |
閻 相文(えん しょうぶん)は中華民国の軍人。北京政府、直隷派に属した。字は煥章。
事績
天津武備学堂卒業生。1911年(宣統3年)に北洋第3鎮第5協管帯、標統を歴任した。1912年(民国元年)、第3師の団長に就任する。1917年(民国6年)に直隷派の曹錕配下として直隷第2混成旅旅長に昇進した。1920年(民国9年)、第20師師長に昇進する。翌年5月、署陝西督軍に任命された。この時、馮玉祥率いる第16混成旅などを率いて陝西省入りし、安徽派の前督軍陳樹藩を撃破している。[1]
しかし閻相文は、陝西省で活動する民軍に妨げられ、西安以外の地域を統制することができなかった。そのため、軍の糧食を供給することも困難となり、精神的に追い詰められていく。同年8月23日、閻は西安の督署においてアヘンを服用し、自殺した。享年47。[1]後任の督軍には馮玉祥が就任した。
注
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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