「李純 (民国)」の版間の差分
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[[1917年]](民国6年)8月、馮国璋が北京入りして代理大総統に就任すると、李純は[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]督軍に転じた。[[護法運動]]が開始されると、[[孫文]]ら南方政府への対策をめぐって、「武力統一」を主張する段祺瑞と「和平統一」を主張する馮との間で対立が発生する。10月、段が[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]への護法軍政府討伐軍派兵を決定すると、李純は湖北督軍王占元、江西督軍陳光遠とともに、これを停止するよう段に圧力をかけた。これにより、段は南方軍征伐を断念し、国務総理の地位を一時退いた。李・王・陳の3督軍は「長江三督」として国政においても注目を受けるようになり、特に李は、その中の指導的存在と目された。 |
[[1917年]](民国6年)8月、馮国璋が北京入りして代理大総統に就任すると、李純は[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]督軍に転じた。[[護法運動]]が開始されると、[[孫文]]ら南方政府への対策をめぐって、「武力統一」を主張する段祺瑞と「和平統一」を主張する馮との間で対立が発生する。10月、段が[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]への護法軍政府討伐軍派兵を決定すると、李純は湖北督軍王占元、江西督軍陳光遠とともに、これを停止するよう段に圧力をかけた。これにより、段は南方軍征伐を断念し、国務総理の地位を一時退いた。李・王・陳の3督軍は「長江三督」として国政においても注目を受けるようになり、特に李は、その中の指導的存在と目された。 |
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しかし翌年、段祺瑞の腹心[[徐樹錚]]が[[奉天派]]の[[張作霖]]の支援を獲得し、3月に段が国務総理に復帰した。段は馮国璋に圧力をかけ、「和平統一」路線の堅持を困難とさせた。李純は引き続き「和平統一」路線の提唱を続け、安徽派との対決姿勢をとり続けている。しかし同年10月の馮の任期満了による退任、12月の死去により、李純は後ろ盾を失ってしまう。また、直隷派内部でも、[[曹 |
しかし翌年、段祺瑞の腹心[[徐樹錚]]が[[奉天派]]の[[張作霖]]の支援を獲得し、3月に段が国務総理に復帰した。段は馮国璋に圧力をかけ、「和平統一」路線の堅持を困難とさせた。李純は引き続き「和平統一」路線の提唱を続け、安徽派との対決姿勢をとり続けている。しかし同年10月の馮の任期満了による退任、12月の死去により、李純は後ろ盾を失ってしまう。また、直隷派内部でも、[[曹錕]]・[[呉佩孚]]が台頭し、李純は江蘇1省の支配権を維持するのがやっととなってしまった。 |
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[[1920年]](民国9年)7月の[[安直戦争]]では、李純も当然直隷派として参戦したが、北方の主戦場に向かう余力はなかった。そして直隷派の勝利によっても、李純は自己の影響力を強化できず、孤立を深めるばかりとなってしまう。さらに江蘇省内でも反李純の世論が高まり、省内外の逼迫した情勢に李純は精神的に追い詰められていく。 |
[[1920年]](民国9年)7月の[[安直戦争]]では、李純も当然直隷派として参戦したが、北方の主戦場に向かう余力はなかった。そして直隷派の勝利によっても、李純は自己の影響力を強化できず、孤立を深めるばかりとなってしまう。さらに江蘇省内でも反李純の世論が高まり、省内外の逼迫した情勢に李純は精神的に追い詰められていく。 |
2020年7月11日 (土) 21:29時点における版
李 純 | |
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徳富蘇峰に贈られた李純の写真 | |
プロフィール | |
出生: |
1867年9月12日 (清同治6年8月15日) |
死去: |
1920年(民国9年)10月12日 中華民国江蘇省南京市 |
出身地: | 清直隷省天津府天津県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 李 純 |
簡体字: | 李 纯 |
拼音: | Lǐ Chún |
ラテン字: | Li Ch'ün |
注音二式: | Lǐ Chún |
和名表記: | り じゅん |
発音転記: | リー チュン |
李 純(り じゅん)は清末民初の軍人。北京政府、直隷派の有力軍人で、王占元、陳光遠とともに、「長江三督」の一人と呼ばれた。字は秀山。
事跡
江西省の統治者へ
1888年(光緒14年)、天津武備学堂第2期に入学する。1895年(光緒21年)に卒業すると袁世凱が創設した新建陸軍に配属され、督隊稽査先鋒官に任命された。1902年(光緒28年)、李純は馮国璋配下の提調に任命された。1903年(光緒29年)以降は、鉄良率いる京旗常備軍の下で昇進している。1907年(光緒33年)、第6鎮第11協統領に任命された。
1911年(宣統3年)4月、協都統位を授与された。同年10月、武昌起義が勃発すると、李純率いる第11協は第21混成協に改組され、馮国璋率いる第1軍に配属されて革命派の鎮圧に向かった。11月、李純の軍は漢陽を攻撃し、これを清朝側に取り戻す上で貢献した。
中華民国成立後、李純は第6師師長に任命され、河南省信陽に駐屯した。1913年(民国2年)7月、江西都督李烈鈞が二次革命(第二革命)を起こすと、李純は袁世凱から九江鎮守使に任命される。李純は李烈鈞を撃破して8月には南昌を攻め落とした。この功により、李純は署江西都督に任じられた。1914年(民国3年)6月には、昌武将軍の位を授与され、督理江西全省軍務に任命された。
1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むと、当初は李純もこれを支持した。しかし、同年12月に護国戦争(第三革命)が勃発して反袁世論が高まると、袁の皇帝即位に消極的だった馮国璋・段祺瑞に李純も追随する。1916年(民国5年)3月、馮の指示により、李純ら5省の将軍は袁に皇帝即位の取消しを勧める秘密電報を打った。同年6月6日に袁世凱が死去すると、翌7月に各省将軍は督軍となる。李純もそのまま江西督軍として留任した。
江蘇省の統治者として
1917年(民国6年)8月、馮国璋が北京入りして代理大総統に就任すると、李純は江蘇督軍に転じた。護法運動が開始されると、孫文ら南方政府への対策をめぐって、「武力統一」を主張する段祺瑞と「和平統一」を主張する馮との間で対立が発生する。10月、段が湖南省への護法軍政府討伐軍派兵を決定すると、李純は湖北督軍王占元、江西督軍陳光遠とともに、これを停止するよう段に圧力をかけた。これにより、段は南方軍征伐を断念し、国務総理の地位を一時退いた。李・王・陳の3督軍は「長江三督」として国政においても注目を受けるようになり、特に李は、その中の指導的存在と目された。
しかし翌年、段祺瑞の腹心徐樹錚が奉天派の張作霖の支援を獲得し、3月に段が国務総理に復帰した。段は馮国璋に圧力をかけ、「和平統一」路線の堅持を困難とさせた。李純は引き続き「和平統一」路線の提唱を続け、安徽派との対決姿勢をとり続けている。しかし同年10月の馮の任期満了による退任、12月の死去により、李純は後ろ盾を失ってしまう。また、直隷派内部でも、曹錕・呉佩孚が台頭し、李純は江蘇1省の支配権を維持するのがやっととなってしまった。
1920年(民国9年)7月の安直戦争では、李純も当然直隷派として参戦したが、北方の主戦場に向かう余力はなかった。そして直隷派の勝利によっても、李純は自己の影響力を強化できず、孤立を深めるばかりとなってしまう。さらに江蘇省内でも反李純の世論が高まり、省内外の逼迫した情勢に李純は精神的に追い詰められていく。
同年10月12日、李純は南京の督軍署の中で自殺した。享年54(満53歳)。
参考文献
- 張振鶴「李純」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第1巻』中華書局、1978年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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