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[[1915年]](民国4年)2月、陳宧は毅威将軍兼会弁四川軍務に任命され、3個旅を率いて四川入りした。5月21日、四川巡按使を兼任する。6月22日、署理四川巡按使、成武将軍兼行督理四川軍務に特任された。 |
[[1915年]](民国4年)2月、陳宧は毅威将軍兼会弁四川軍務に任命され、3個旅を率いて四川入りした。5月21日、四川巡按使を兼任する。6月22日、署理四川巡按使、成武将軍兼行督理四川軍務に特任された。 |
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陳宧は、袁世凱の権威を四川に及ぼすために、[[国民党 (宋教仁)|国民党]]や共和党、進歩党などの政党や[[川軍]](四川軍)の勢力を排除した。さらに同年11月以降は、袁の皇帝即位を後押しし、四川省の代表による帝制支持を打ち出している。ただ、その一方で陳宧は、雲南の[[蔡鍔]]とも密かに通じていた。蔡鍔らが[[護国戦争]]を発動すると、[[長江]]上游総司令[[曹 |
陳宧は、袁世凱の権威を四川に及ぼすために、[[国民党 (宋教仁)|国民党]]や共和党、進歩党などの政党や[[川軍]](四川軍)の勢力を排除した。さらに同年11月以降は、袁の皇帝即位を後押しし、四川省の代表による帝制支持を打ち出している。ただ、その一方で陳宧は、雲南の[[蔡鍔]]とも密かに通じていた。蔡鍔らが[[護国戦争]]を発動すると、[[長江]]上游総司令[[曹錕]]率いる北洋軍本隊とは異なり、積極的な討伐には動かなかった。 |
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そして、袁世凱が[[1916年]](民国5年)3月22日に皇帝即位を取り消し、四川省内でも反袁の世論が圧倒的となる。ついに5月22日に、陳宧も四川の独立を宣言した。袁は、四川軍第1師師長[[周駿]]を後任の四川将軍(正確には益武将軍署理四川軍務)に任命し、周駿は[[成都市|成都]]の陳宧を攻撃した。6月6日、袁世凱が死去し、翌7日に黎元洪が総統を継ぐと、8日に陳宧は独立を取り消した。24日、黎元洪は蔡鍔を督理四川軍務兼署民政長とし、陳宧と周駿は揃って[[北京市|北京]]へ召還された。これ以後、陳宧は軍事・政治いずれの面でも、実質的な力量を喪失したのである。 |
そして、袁世凱が[[1916年]](民国5年)3月22日に皇帝即位を取り消し、四川省内でも反袁の世論が圧倒的となる。ついに5月22日に、陳宧も四川の独立を宣言した。袁は、四川軍第1師師長[[周駿]]を後任の四川将軍(正確には益武将軍署理四川軍務)に任命し、周駿は[[成都市|成都]]の陳宧を攻撃した。6月6日、袁世凱が死去し、翌7日に黎元洪が総統を継ぐと、8日に陳宧は独立を取り消した。24日、黎元洪は蔡鍔を督理四川軍務兼署民政長とし、陳宧と周駿は揃って[[北京市|北京]]へ召還された。これ以後、陳宧は軍事・政治いずれの面でも、実質的な力量を喪失したのである。 |
2020年7月11日 (土) 21:29時点における版
陳宧 | |
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プロフィール | |
出生: | 1870年(清同治9年)3月 |
死去: |
1939年(民国28年)10月24日 中華民国北平特別市 |
出身地: | 清湖北省徳安府安陸県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 陳宧 |
簡体字: | 陈宧 |
拼音: | Chén Yí |
ラテン字: | Ch'en Yi |
和名表記: | ちん い |
発音転記: | チェン イー |
陳 宧(ちん い)は、清末民初の軍人政治家。袁世凱の下で四川省の将軍として中国西南部の軍政に関与した。原名は寛培。字は養細。号は二庵。なお「陳宦」との表記は誤りである。[1]
事跡
清末、民国成立直後の事跡
清末に会試に合格し、中書として採用された。1897年(光緒23年)、湖北省武備学堂に入学し、卒業後は北京で武衛前軍管帯に任命された。1903年(光緒29年)、四川総督錫良から幇統に任命される。新軍を訓練し、常備軍6営、工作兵1営を組織した。光緒32年(1906年)、四川新軍第33混成協統領兼四川武備学堂会弁に任命された。同年、陸軍小学が設置されると、陳宧はこの会弁も兼任している。
1907年(光緒33年)、雲貴総督に異動した錫良に陳宧も随行し、雲南新軍協統兼雲南陸軍講武堂堂長をつとめた。1909年(宣統元年)2月、錫良が東三省総督に異動すると、やはり陳宧もこれに随行し、奉天督練公所総参議に任命された。1910年(宣統2年)、東北新軍第20鎮統制官として奉天に駐留している。1911年(宣統3年)にはドイツへ軍事留学した。
辛亥革命後、帰国した陳宧は、錫良の推薦で袁世凱に任用された。1912年(民国元年)、北京政府参謀部参謀次長に抜擢された。しかも、実際には参謀総長代理(参謀総長は黎元洪)として参謀部の実権を掌握し、後に陸軍中将の位を授与された。1914年(民国3年)5月、袁が陸海軍大元帥統率弁事処を設置すると、陳宧もこの構成員となる。主に西南部(四川、雲南、貴州)の軍事問題について研究し、意見を奉呈した。
四川将軍として
1915年(民国4年)2月、陳宧は毅威将軍兼会弁四川軍務に任命され、3個旅を率いて四川入りした。5月21日、四川巡按使を兼任する。6月22日、署理四川巡按使、成武将軍兼行督理四川軍務に特任された。
陳宧は、袁世凱の権威を四川に及ぼすために、国民党や共和党、進歩党などの政党や川軍(四川軍)の勢力を排除した。さらに同年11月以降は、袁の皇帝即位を後押しし、四川省の代表による帝制支持を打ち出している。ただ、その一方で陳宧は、雲南の蔡鍔とも密かに通じていた。蔡鍔らが護国戦争を発動すると、長江上游総司令曹錕率いる北洋軍本隊とは異なり、積極的な討伐には動かなかった。
そして、袁世凱が1916年(民国5年)3月22日に皇帝即位を取り消し、四川省内でも反袁の世論が圧倒的となる。ついに5月22日に、陳宧も四川の独立を宣言した。袁は、四川軍第1師師長周駿を後任の四川将軍(正確には益武将軍署理四川軍務)に任命し、周駿は成都の陳宧を攻撃した。6月6日、袁世凱が死去し、翌7日に黎元洪が総統を継ぐと、8日に陳宧は独立を取り消した。24日、黎元洪は蔡鍔を督理四川軍務兼署民政長とし、陳宧と周駿は揃って北京へ召還された。これ以後、陳宧は軍事・政治いずれの面でも、実質的な力量を喪失したのである。
晩年
国民政府時代になると、陳宧は完全に政界から引退し、北平(北京)で文化人としての生活を送ることになった。日中戦争(抗日戦争)勃発後、1937年(民国26年)に、親日の中華民国臨時政府が北平に成立すると、陳も同政府に招聘されたが、これを拒絶した。1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、陳も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している[2]。ただし、陳が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。同年10月24日、北平で死去。享年70(満69歳)。
脚注
- ^ ちなみに中国本国においても、この人名表記の誤りは定着しかかっていたとされる。裴高才「莫将“陳宧”当“陳宦”」『中華読書報』2012年8月8日。
- ^ 「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。
参考文献
- 馬宣偉「陳宧」中国社会科学院近代史研究所編『民国人物伝 第11巻』中華書局、2002年。ISBN 7-101-02394-0。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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