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「歩璣」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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生涯: 「遣璣與弟璿詣洛陽爲任」なので、歩璣も一度洛陽へ人質として行って、その後西陵に戻っていると思われます。
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'''歩 璣'''(ほ き、? - [[273年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将。[[徐州]][[臨淮郡]][[淮陰県]]の人。祖父は[[歩隲|歩騭]]。父は[[歩協]]。叔父は[[歩闡]]。弟は[[歩璿]]。
'''歩 璣'''(ほ き、? - [[273年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将。[[徐州]][[臨淮郡]][[淮陰県]]の人。祖父は[[歩騭]]。父は[[歩協]]。叔父は[[歩闡]]。弟は[[歩璿]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年7月11日 (土) 12:25時点における版

歩 璣(ほ き、? - 273年)は、中国三国時代の武将。徐州臨淮郡淮陰県の人。祖父は歩騭。父は歩協。叔父は歩闡。弟は歩璿

生涯

父の歩協の死後、祖父の歩騭から続く臨湘侯の爵位を襲爵した。父の軍隊は叔父の歩闡が継いだ。

鳳凰元年(272年)、孫晧西陵督であった歩闡を繞帳督に任じ武昌に戻るよう命じた。父や兄を継いで西陵を守ってきた歩闡は、突然の召還命令を不審に思い、朝廷で讒言されたのではないかと大いに疑った。誅殺される身の危険を感じた歩闡は西晋に使者を出し、西陵城ごと西晋に降伏する旨を申し入れ、甥の歩璣・歩璿を人質として洛陽に送り、歩闡自身は配下の将兵とともに西陵城に籠った。

歩璣は西晋により監江陵諸軍事・左将軍・散騎常侍・廬陵太守に任じられ、また江陵侯に改封されて、西陵に戻って歩闡と共に呉と戦った。孫晧は陸抗らを西陵に派遣し攻撃した。西晋は車騎将軍羊祜荊州刺史楊肇らに西陵の救援を命じたが破れ、同年12月(西暦では273年1月中旬~2月初旬)、呉は西陵城を陥落させた(西陵の戦い)。

歩闡・歩璣を含む歩氏一族は戦後全員処刑されたが、人質として洛陽に残っていた歩璿だけは生き延び、祖先の祭を継いだという[1]

参考文献

脚注

  1. ^ 三国志』呉志 歩騭伝