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**[[チャンバラJr.#メンバー|岡田和幸(チャンバラJr.)]]
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**[[吉田ヒロ]]・[[小米良啓太]](ヒロ&ケイ)※小米良啓太のみ(吉田ヒロは、ぼんちおさむの弟子)
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2020年7月11日 (土) 10:41時点における版

タイヘイトリオは、日本の浪曲漫才トリオ。浪漫ショウの名で広く知られた。

メンバー

タイヘイ洋児(タイヘイ ようじ、1923年 - 生死不明)本名・西村庄司。
ギター担当。歌手や文芸漫才作家を志し郡山桜葉の書生や下働きをしていたが台本を書くチャンスを貰えず木下華声門下に入り、南洋児の名で音曲漫才に転身。
姉妹のボケ・ツッコミにたじたじとなり、舞台では殆ど喋らせて貰えぬ役回り。文芸志望だけあって台本も手がけていたが、1975年キャバレーなどの事業に失敗して失踪。著書に自主出版した『漫才タイヘイ戦記』がある。
暁伸と並ぶギブソンの遣い手。愛用していた1本は、梅乃ハッパが譲り受けている。
タイヘイ原児(タイヘイ げんじ、1945年9月11日 - 2002年9月14日)本名・寺下道治。兵庫県西宮市出身。
歌とギター担当。素人参加のラジオのど自慢大会に出演がきっかけで川上のぼる門下になる。1963年結成の『川上のぼると大阪ヤローズ』に寺下ジョージの名で参加、その後洋児の失踪を受けて1975年にタイヘイトリオに加入。大きな体が特徴。
1985年の脱退後は司会や、のど自慢の審査員などの傍ら、『浪花ラブコール』(川上のぼる作詞・作曲)で歌手デビューもしている。2002年9月14日、心筋梗塞のため、死去。57歳没。
タイヘイ夢路(タイヘイ ゆめじ、1930年4月2日 - 2018年7月31日[1])本名・辻本(西村)節子。奈良県出身[1]。生前はアンクル所属。
洋児の妻(後に失踪で離婚)で、舞台上はリーダー。一時満州で軍事浪曲で満州日出丸を名乗って売れていた浪曲師兼興行師京山愛朝の娘で、少女浪曲師として4歳から朝日博子の名前で舞台に立つ。
強烈な毒舌を売りに『いただきます』(フジテレビ系)にセミレギュラー出演した際には、髪の毛を金や赤に染めたり(それはカツラであり「アデランス」と言いながら、着脱するパフォーマンスも見せた)、目立ちまくるアクセサリや原色の服を着こなすなど、関西のド派手なおばはんのキャラでタレント、女優活動もし、知名度は全国的。
同じ辻本姓の辻本茂雄とは、人並み外れたしゃくれ顎が共通することから、ギャグで夢路の実子説や、阿吾寿朗との間の隠し子説が出回った。
『浪花春秋』などのレコードがある。著書に1976年に自主出版した『夢路のしゃくれた人生』がある。
一時桜ノ宮で連れ込みホテルを経営していた事がある。
主な出演ドラマ『よーいドン』(NHK連続テレビ小説1982年 - 1983年)、『新・なにわの源蔵事件帳』(NHK水曜時代劇1983年 - 1984年)、『都の風』(NHK連続テレビ小説、1986年 - 1987年)『料理少年Kタロー』(関西テレビ2001年)『結婚はいかが?』(NHK、1996年)『アーバンポリス24』(朝日放送2000年9月16日)『ビタミンF』(NHKBS22002年)『かるたクイーン』(NHK、2003年)『てるてる家族』(NHK連続テレビ小説、2003年 - 2004年)等。
関西演芸協会に所属し、「関西演芸協会まつり」に2016年まで出演していた[1]ほか、『おしゃべり歌謡』と題して舞台にも立った。
2018年7月31日、肝硬変のため、大阪市内の病院で死去[1]。88歳没。
タイヘイ糸路(タイヘイ いとじ、1927年11月29日 - )本名・土田久子。奈良県出身。
夢路の実姉。夢路同じく父の門下で、藤原良子を名乗って幼い頃から曲師などをしていた。妹と絶妙の掛け合いを展開した。夫が音楽畑の人手であった。のちに夫の助言でソデに回りクラリネットを伴奏した。夫自身が伴奏のクラリネットを担当していた時期もある。テーマ曲も夫の作と言われている。童顔であったためよく妹の夢路と年齢を間違えられた。

概説

1950年頃、夢路が浪曲師として九州でドサ周りしている時に洋児と知り合い、1951年に洋児・夢路夫婦の浪曲漫才コンビとして出発、間もなく糸路が加わりトリオになった。グループ名は'「タイヘイレコード」に因む。

西川ヒノデショウ暁伸・ミスハワイ人生幸朗・生恵幸子京唄子鳳啓助らと並ぶ、千日劇場を擁する千土地興行大看板。一時吉本興業花月の劇場にも上がっていたが、千日劇場の閉鎖後は道頓堀角座にも出演。

「♪ またも出ましたロマンショウ、いつもニコニコ朗らかに~!夢路さん「OhYeah!(お~やぁ~)」糸路君「あ~いよ!」洋児さん(原児さん)時間来るまでお楽しみ!タイヘイ・ト・リ・オのお笑いでぇ~」(「浪漫ショウ」は「浪曲漫才ショー」の意)のテーマソングで始まる、明るく賑やかな芸風で人気を博す。ツッコミの糸路と張り合う、しゃくれ顎でボケ役の夢路は、自分の出演している演芸番組の録画中継を芸人仲間と楽屋で見ていて、「我ながらおもろい顔やな」と感心したという。後に多くの音楽ショウが誕生する切っ掛けにもなる。

多くの弟子達から慕われ、人気絶頂だったにも関わらず、1975年に事業に失敗した洋児が失踪。同年に原児を急遽迎え入れ、新生タイヘイトリオで再出発した。この頃は小野沢オフィス所属であった。暫くして糸路が一線から退き、夢路・原児のコンビで活躍していたが、原児の脱退後は夢路が家元としてタイヘイ一門を率いる傍ら、ピン芸でも意気軒昂。

都はるみは、贔屓だった母に連れられて幼少期からタイヘイトリオの舞台に親しみ、『アンコ椿は恋の花』の歌唱に際しては、母から夢路のくどい節回し・コブシ回しを参考にするよう指導された結果、これを大ヒットさせた。

放送作家の萩原芳樹は、このタイヘイトリオのテーマソングの替え歌を、間寛平の『アメママン』に改作した。

タイヘイ一門

直弟子

孫弟子

曾孫弟子

脚注

関連項目

外部リンク