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* [[幸助・福助]]<ref name="deshi" /> - 前名は『それゆけ!2匹』。師匠とは逆に松竹芸能から和光プロダクションに移籍し、『和光亭幸助・福助』→『コウスケ・フクスケ』→『幸助・福助』と改名。
* [[幸助・福助]]<ref name="deshi" /> - 前名は『それゆけ!2匹』。師匠とは逆に松竹芸能から和光プロダクションに移籍し、『和光亭幸助・福助』→『コウスケ・フクスケ』→『幸助・福助』と改名。
=== 孫弟子 ===
=== 孫弟子 ===
* [[かつみさゆり|太平かつみ]]
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* [[チャンバラJr.#メンバー|岡田和幸]]([[チャンバラJr.]])
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* [[小米良啓太]]
* [[小米良啓太]]

2020年7月11日 (土) 10:37時点における版

レツゴー三匹
メンバー レツゴー正児
(以下は元メンバー)
レツゴー一修
レツゴーじゅん(逢坂じゅん)
レツゴー長作(人長作)
結成年 1968年
解散年 2014年
事務所 和光プロダクション
松竹芸能
(のちに、じゅんのみオフィスのいり[1]
師匠 タイヘイ洋児
芸種 漫才
過去の代表番組 目方でドーン!
笑アップ歌謡大作戦 [2]
受賞歴
#受賞歴参照
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レツゴー三匹(レツゴーさんびき)は、日本の漫才トリオ

昭和後期から平成初期に活動していた。トリオとしての所属事務所は和光プロダクションをへて、松竹芸能。のちにじゅんのみオフィスのいりに所属した[1]

タイヘイ一門の総領格。「レツゴー三匹」は誤記(由来は後述)。

トリオ略歴

ルーキー新一率いる「ルーキー爆笑劇団」の座員だった正児、じゅん、一修(のち脱退)が、同劇団の活動停止に伴い旗揚げした[3]。トリオ名の由来は、名古屋の焼き鳥店「三匹」。それだけではインパクトがないとして、英語の「Let's Go」を付けた。正児によると、聞き取りやすさと、サインの書きやすさを狙い、あえて促音を抜いた表記の「レツゴー」としたという[4]

1年のちに一修が脱退するも、偶然同じ日に所属グループを失った長作を誘い、トリオを維持するとともに、長作の師匠であるタイヘイトリオのタイヘイ洋児の門下に移る[5]1968年9月に新花月で初舞台[5]。「じゅんでーす」「長作でーす」という冒頭挨拶で、正児が早々に「三波春夫でございます」とボケることで知られた。

1969年に松竹芸能に移籍(公式[2][3]にはこの年を結成年としている)。千日劇場や、同劇場閉鎖後は道頓堀角座をホームグラウンドに活動した。本業の漫才では、1970年代に放送局主催の賞を多数受賞(後述)するかたわら、歌謡曲のレコードを発売した。山城新伍に気に入られ、1980年代にテレビ朝日系で放送された山城司会の『笑アップ歌謡大作戦』にレギュラー出演し、全国的な知名度を上げた[6]

1990年代以降はトリオとしての活動が休止状態になっていく。休止してから一度、同じ事務所の後輩シンデレラエキスプレスの2人を交えて5人で酒の席を設けたことがある[要出典]

2009年8月、長らく親交のあった2代目桂春蝶の実子・桂春菜改め3代目桂春蝶の襲名披露公演(大阪松竹座)に口上と漫才で参加したのが、公の場に3人揃った最後の機会となった。

以降は永らく休止状態にあった[2]が、2014年5月、じゅんが死去したことにより事実上の解散となった。その後、2018年2月に長作も死去した[7]

受賞歴

メンバー

香川県仲多度郡琴平町出身[3][8]。本名:直井 正三(なおい しょうぞう)[8][5]。立ち位置は真ん中[2]
ルーキー新一の実弟[3][5]。家計の問題で、大阪市立市岡商業高等学校に2年遅れで入学[9]。同時期に同校に在学し、のちに芸能界入りした人物に2代目桂春蝶6代桂文枝がいる[10]。正児は在学中、演劇部に所属し、「対照的に背の高い」部員と漫才コンビを組んでABCラジオ漫才教室』に出演し、「卒業試験(=勝ち抜きの最終週)」に合格した[5]。このほか、兄の新一ともコンビを組み、テレビ素人参加番組に出演した際の写真が残っている[10]
高校卒業後、関西汽船に3年間勤務し[3][5]、そののちは兄が経営する珠算塾の講師を2年務めた[3]。この間の1963年4月[5]京芸プロ漫画トリオの個人事務所)に所属し、同じ『漫才教室』出身の横山やすしと「横山やすし・たかし[11]」を結成[10]。しかし長続きせず、翌年[3]に解散。その後、三田ホップ(後の3代目平和日佐丸)らと「三田ホップ・ステップ・ジャンプ」→「スリージョーク」を結成[5]。正児は「三田ステップ」を名乗った。このとき、トリオ漫才の話術と間を習得したという[5]
このトリオも自然消滅し、正児は兄・新一を頼って吉本新喜劇に加入。芸名を「丸井正太」と改めた[12]1965年に新一が劇団員を率いて集団脱退し、軽演劇一座「ルーキー爆笑劇団」を立ち上げた際、正児は帯同の意思を示さなかったが、「トバッチリ[12]」で吉本から解雇されたために、後を追って加入した。同劇団解散後[5]、座員で「レツゴー三匹」を結成。タイヘイ洋児の「児」をもらい、芸名をレツゴー正児とした[12]
レツゴー三匹としての活動が休止状態になるに従い、俳優、講演活動、吾妻ひな子の「おんな放談」を模した「おとこ放談」と称する河内音頭を織り交ぜた漫談[13]などで活動していたが、2014年6月に認知症の診断を受けたことが、ホームページ上で妻より明らかにされた[4]。これ以降は仕事を控え、療養に専念している。
大阪府堺市出身[1]。本名:渡辺 美二(わたなべ よしじ)[15]。立ち位置は向かって左[2]。晩年は逢坂 じゅん(おうさか じゅん)を名乗った[15]
上宮高等学校在学中の1961年エキストラテレビドラマに出演した。このころ横山やすしとも親交があったという。高校卒業後、新聞に掲載されていた吉本新喜劇の研究生募集の広告を見て入団し、花紀京の付き人になる[16]坂田利夫らと同期)。1964年11月に初舞台[1]。当時の芸名は渡 淳[12](わたり じゅん、命名は前田五郎)。翌年ルーキー新一に帯同し、「ルーキー爆笑劇団」に移籍[3]。座員だった正児、一修とレツゴー三匹を結成した。
1970年ごろ、藤山寛美の「アホばかりを集めよう」という声に呼応し、坂田利夫、西川きよし月亭八方とともに、「内山田洋とクール・ファイブ」のパロディ「フール・ファイブ」を結成[16]。活動内容は5人集まって飲み歩くというものであった。
レツゴー三匹としての活動が休止状態になるに従い、ピンのテレビタレント、舞台俳優として活動。1991年脚本家逢坂勉(おうさか べん、本名:山像 信夫、野川由美子の夫)門下に入り、「逢坂じゅん」の名を用いるようになった[1][15]
2014年5月8日17時29分、脳出血により大阪市内の病院で死去[14][15][16]。68歳没。戒名は「求芸院釋一道」(くげいいんしゃくいちどう)。
MC企画所属の俳優・渡辺知晃は三男。
岡山県都窪郡妹尾町(現:岡山市南区)出身[17][18]。本名:永原 誠(ながはら まこと)[17]。立ち位置は向かって右[2]
両親は岡山を本拠とする旅回りの劇団の俳優だった[12]。自身も俳優を目指し、妹尾町立妹尾中学校卒業[要出典]後の1964年[18]に父親の友人の紹介[12]松竹新喜劇2代目渋谷天外に入門し、入団。同年道頓堀中座で初舞台。この間天外邸に2年間住み込んで芝居の修行をするかたわら、初代真山一郎のもとで歌謡曲を学んだ。1966年ごろ[12]松竹新喜劇を離れ、タイヘイ洋児の門下[5]ピンアップトリオに加入したのち、あひる艦隊(第3次)に参加。あひる艦隊解散の当日[5]に正児とじゅんに誘われ、レツゴー三匹に加入。人 長作(じん ちょうさく)という歌手としての別名を持っていた。
レツゴー三匹としての活動が休止状態になるに従い、俳優としてテレビドラマや松竹新喜劇に出演したり、寄席において「難儀節」「長作のかわら版」と題する、津軽三味線を取り入れたボヤキ漫談を披露したりしていた。
2016年3月末から進行性のがんで入院し、2017年12月からは緩和ケアを開始。2018年2月1日20時35分、肺がんのため大阪市内の病院で死去。74歳没[19]。2016年3月27日の大阪府道頓堀角座でのステージが最後の仕事となった[20]

元メンバー

本名:森 一修(もり いっしゅう)[12]。「ルーキー爆笑劇団」に在籍していた[3]。結成直後の1年間在籍。後に黒木雪夫の名ですっとんトリオに参加。

芸風・ギャグ

  • 舞台を広く使って走り回るなど、体を張ったどつき漫才であった。主に正児のツッコミとじゅんのボケによる掛け合いであり、長作は両者をまとめてツッコんだり、われ関せずにふたりを傍観する様子で笑わせたりするなど、ネタの流れを転換するきっかけ(フリ)を担っていた[12]
  • 活動初期は、消防車を演じる短躯の正児の両肩に消防士を演じるじゅんと長作がしがみつき、「右へ行け! 左へ行け! スピードを出せ!」などと無茶を言い、正児を疲弊させるネタがあったと、正児は回想している[10]。晩年は年齢相応にどつきやアクションが減り、しゃべくり主体になっていた。
  • ツカミ(=冒頭)の「じゅんでーす」「長作でーす」と順に名乗り、最後に正児が似ていない物真似で「三波春夫でございます」と仰々しく自己紹介した所を、じゅんと長作の両方から頬をドツかれ、その結果正児のメガネがズレる、というギャグが定番であり、よく知られた。あまりに似てない物真似のため、一人だけ三波春夫みたいな着物を着て登場する事もあった。[2][14][16]
元はじゅんだけが正児をドツく形だったが、長作がアドリブを利かせ、タイミングを合わせてドツいたところ大受けし、以降定着したという[21]
このツカミのために、観客や視聴者の間で、じゅんと長作の名前は思い出せても、正児の名前が思い出せず「三波春夫」と言ってしまう、ということが少なくなかったという。2002年フジテレビ系列で放送された『クイズ!ヘキサゴン』で出題された「丸の内OL回答率0%。漫才トリオレツゴー三匹、じゅんと長作ともう一人は誰?」という問題では、解答者5名中3名が「三波春夫」と解答したと言う事があった。
  • 正児のネタ振りに長作がうまく対応する半面、じゅんがボケて正児にドツかれ、窮したじゅんが「ルーキーに貸した金返せ」と反撃するパターン。
  • 禿げ上がったじゅんの額をからかう。
  • じゅんのギャグ「こ~れからは~」[2]
外国人による片言日本語のパロディ。

エピソード

弟子との関係

当時唯一の弟子だったサブロー・シローが、ライバル吉本興業制作の『ヤングおー!おー!』(毎日放送)への出演を熱望したため、松竹芸能幹部の眼前で2人を叱責する芝居を打ち、周囲が破門を容認せざるを得なくなる形で円満移籍させてやったり、長期にわたる低迷で弟子の面倒を見切れなくなった横山たかし・ひろしから幸助・福助を引き受けてやるなどの逸話がある(これに伴い、幸助・福助は短期間ではあるが『それいけ!2匹』という名前で活動していた)[要出典]

パロディー
  • 「ゴーゴー三匹」
1986年3月1日および3月8日フジテレビ系『オレたちひょうきん族』で放映された、『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)のパロディコーナー「ひょうきんスター誕生」内で、直弟子のサブロー・シロー(長作、じゅん)および、ラサール石井(正児)により結成された。
初登場時には余りに似すぎていたため、本物が出てきたのかと客席が一瞬騒然となり、片岡鶴太郎が「シャレになんねー!」と叫びながらのたうち回って大笑いするなど、ひょうきん族の伝説となっている。また、オリジナルである彼らも、自分たちの漫才で話題にしている。
  • 「レッツゴー三万匹」
すんげー!Best10内で結成された、中川礼二らによるユニット。ぴのっきをのネタにも同様の名称があった。

出演

テレビバラエティ番組、演芸番組、情報番組

正児のみ
じゅんのみ

テレビドラマ

長作のみ[18]
じゅんのみ[1]

CM

じゅんのみ

映画

正児のみ
長作のみ
じゅんのみ

出版

レコード・CD

シングル

いずれも、ジャケットの表記が「レツゴー三匹」と誤っている。

  • あなた信じて/あなた一人をたよっています(日本コロムビア AA-119、1972年)
  • 新地ワルツ/女の終着駅(ビクター音楽産業 SV-2338、1973年)[18]
  • どしゃぶり人生/懐メロ流し(ビクター音楽産業 SV-2365、1973年)
アルバム
  • どしゃぶり人生(ビクター音楽産業 SJX-147、1973年)
    • 2007年にCDで再発売。
長作ソロ[18]

著書

いずれもレツゴー正児の著作[3]

弟子

直弟子

  • 太平サブロー・シロー[13]
  • 幸助・福助[13] - 前名は『それゆけ!2匹』。師匠とは逆に松竹芸能から和光プロダクションに移籍し、『和光亭幸助・福助』→『コウスケ・フクスケ』→『幸助・福助』と改名。

孫弟子

脚注

  1. ^ a b c d e f 逢坂じゅん(キャッシュ) 株式会社オフィスのいり
  2. ^ a b c d e f g h i j レツゴー三匹 コトバンク - 典拠は朝日新聞出版編『知恵蔵mini
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n レツゴー正児 プロフィール レツゴー正児ホームページ
  4. ^ a b レツゴー三匹 正児の「人がいて ぬくもりがあって 人がいて」トップページ(キャッシュ) 2016年2月4日閲覧
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 井澤壽治『上方大入袋 名人の心と芸』東方出版、1988年 pp.210-213
  6. ^ レツゴー正児コラム バックナンバーNo.61~70 - No.65「山城新伍さんの子分でした」
  7. ^ 「レツゴー三匹」の長作さんが死去 74歳 - スポニチアネックス 2018年2月4日
  8. ^ a b タレント一覧 - レツゴー正児 Archived 2016年3月16日, at the Wayback Machine. 松竹芸能株式会社
  9. ^ レツゴー正児コラム バックナンバーNo.111~120 - No.111「もう一度聞きたい」
  10. ^ a b c d レツゴー正児コラム バックナンバーNo.11~20 - No.18「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
  11. ^ 当時のやすしの相方は代々「横山たかし」を名乗っており、正児は確認される限り、横山プリンにつぐ2人目のたかしであった。「横山たかし・ひろし」の横山たかしはやすし(師匠)と組んだ経験はないが、名跡としては3代目にあたる。
  12. ^ a b c d e f g h i 竹本浩三『オモロイやつら』文春新書、2002年 pp.167-185「レツゴー三匹」
  13. ^ a b c レツゴー正児コラム バックナンバーNo.41~50 - 正児の晩年の活動の出典はNo.44「『講演』と『おとこ放談』」。弟子の出典はNo.47「『幸助・福助』25年の節目」
  14. ^ a b c レツゴー三匹」じゅんさん 脳出血で死去 68歳 スポーツニッポン、2014年5月8日
  15. ^ a b c d 逢坂じゅんさん死去 お笑いトリオ「レツゴー三匹」 68歳 産経WEST、2014年5月8日
  16. ^ a b c d レツゴー三匹じゅんさん死去 68歳脳出血 nikkansports.com、2014年5月9日
  17. ^ a b c タレント一覧 - レツゴー長作 Archived 2016年1月28日, at the Wayback Machine. 松竹芸能株式会社
  18. ^ a b c d e ブログ情報 レツゴー三匹 長作jrブログ
  19. ^ レツゴー長作さん死去、75歳 肺がんで…16年3月から入院 - デイリースポーツ 2018年2月4日
  20. ^ 「レツゴー三匹」長作さん 肺がんのため死去、74歳 - スポーツ報知 2018年2月4日(2018年2月5日アクセス)
  21. ^ レツゴー三匹が復活!? 道頓堀角座開場1周年記念で特別企画 Sponichi Annex、2014年7月6日

外部リンク