「辻兵」の版間の差分
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[[1951年]]、3代目が逝き、1954年には4代目となる[[辻兵太郎|兵太郎]]も亡くなった。そこで高島屋飯田(現:[[丸紅]])のサラリーマンであった良一が呼び戻され[[辻兵吉 (5代目)|5代目兵吉]]を襲名した。この折、5代目には帰郷早々、2人合わせて2億円もの[[相続税]]が課され、10年賦で納付を行った。5代目は往時を振り返り「私自身、相続税をどうやって払うかが、昭和30年代の最大の課題であって、その余力で商売を続けたみたいなものでした。本当に税金の恐怖に脅えました。当時としたは莫大だった資産に振り回された格好で、[[デパート]]や[[量販店]]へ業容を広げる時期だったのでしょうが、思い切った投資ができませんでした。」と述懐している<ref name=eco />。 |
[[1951年]]、3代目が逝き、1954年には4代目となる[[辻兵太郎|兵太郎]]も亡くなった。そこで高島屋飯田(現:[[丸紅]])のサラリーマンであった良一が呼び戻され[[辻兵吉 (5代目)|5代目兵吉]]を襲名した。この折、5代目には帰郷早々、2人合わせて2億円もの[[相続税]]が課され、10年賦で納付を行った。5代目は往時を振り返り「私自身、相続税をどうやって払うかが、昭和30年代の最大の課題であって、その余力で商売を続けたみたいなものでした。本当に税金の恐怖に脅えました。当時としたは莫大だった資産に振り回された格好で、[[デパート]]や[[量販店]]へ業容を広げる時期だったのでしょうが、思い切った投資ができませんでした。」と述懐している<ref name=eco />。 |
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昭和40年代に入り税金の刻苦からようやく解き放たれた辻兵は、事業拡大に乗り出し辻兵の県下主要都市および県外展開を開始したほか、グループ企業である[[秋田いすゞ自動車]]の[[モータリゼーション]]の到来による発展や、貸衣装業を伸長させ改称した秋田県新生活互助会(現:へいあん秋田)も県下で結婚式場である平安閣をオープンした<ref name=eco />。また祖業である呉服・[[アパレル]]関連の拡大には大手資本との提携が必要であるとの認識の下、かねてから5代目の知己であった[[中内 |
昭和40年代に入り税金の刻苦からようやく解き放たれた辻兵は、事業拡大に乗り出し辻兵の県下主要都市および県外展開を開始したほか、グループ企業である[[秋田いすゞ自動車]]の[[モータリゼーション]]の到来による発展や、貸衣装業を伸長させ改称した秋田県新生活互助会(現:へいあん秋田)も県下で結婚式場である平安閣をオープンした<ref name=eco />。また祖業である呉服・[[アパレル]]関連の拡大には大手資本との提携が必要であるとの認識の下、かねてから5代目の知己であった[[中内㓛]]に協力を要請し、大町2丁目の旧本店跡地の再開発に乗り出し、地元商工業者との粘り強い交渉をへて[[1981年]]6月4日には、再開発ビルである[[秋田ニューシティ]]が開業。[[ダイエー]]秋田店と辻兵がキーテナントとして入居した<ref name=eco />。 |
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5代目は、[[1986年]]2月から途中退任を挟み、2004年10月まで秋田商工会議所会頭を務め<ref>「辻兵吉 秋田商議所名誉会頭死去 県経済界をけん引 バスケット普及に寄与」『朝日新聞』秋田版 2008年7月7日</ref>、その傍らには秋田銀行や[[秋田放送]]の社外取締役を務めたほか、[[秋田テレメッセージ]]や[[秋田ケーブルテレビ]]の設立にも尽力。両社トップを務めるなど県経済界の重鎮として重きをなした。また低成長下において売り上げが踊り場に入っていた秋田いすゞ自動車における新たな[[ビジネスモデル]]の構築として、[[富士ゼロックス]]との特約店契約を締結。秋田いすゞ内に[[秋田ゼロックス]]の前身となる複写機事業部を創設した<ref>「秋田いすゞ、富士ゼロックスと特約店契約を締結 複写機など販売、OA製造へ布石」『日本経済新聞』1983年1月26日</ref>。 |
5代目は、[[1986年]]2月から途中退任を挟み、2004年10月まで秋田商工会議所会頭を務め<ref>「辻兵吉 秋田商議所名誉会頭死去 県経済界をけん引 バスケット普及に寄与」『朝日新聞』秋田版 2008年7月7日</ref>、その傍らには秋田銀行や[[秋田放送]]の社外取締役を務めたほか、[[秋田テレメッセージ]]や[[秋田ケーブルテレビ]]の設立にも尽力。両社トップを務めるなど県経済界の重鎮として重きをなした。また低成長下において売り上げが踊り場に入っていた秋田いすゞ自動車における新たな[[ビジネスモデル]]の構築として、[[富士ゼロックス]]との特約店契約を締結。秋田いすゞ内に[[秋田ゼロックス]]の前身となる複写機事業部を創設した<ref>「秋田いすゞ、富士ゼロックスと特約店契約を締結 複写機など販売、OA製造へ布石」『日本経済新聞』1983年1月26日</ref>。 |
2020年7月11日 (土) 10:15時点における版
辻兵(つじひょう)とは、元来秋田市で呉服商を営んでいた店(たな)名である。店名は総帥の氏名として引き継がれていた「辻・兵吉」から由来する。
概要
初代である萬四郎は加賀の一向一揆の際に秋田に逃れてきたものとされ[1]、その後初代兵吉が現在の大町二丁目にて呉服商を創業。1908年、合資会社辻呉服店を設立。1959年、株式会社辻兵に改組した[2]。また代々当主が兵吉を襲名してきた。
呉服商である辻兵を秋田随一の素封家までに築き上げたのは2代目兵吉であり、湯沢の山内家から婿入りした2代目は生糸や米相場において巨万の富を得てそれを元手に田畑を買い集め、1896年には、池田甚之助らと図り営業満期を迎える第一国立銀行秋田支店を継承し銀行を設立[1]。現:秋田銀行の前身となる旧:秋田銀行が誕生した[注 1]。また2代目はインフラストラクチャー整備にも貢献。1500万円の資金を拠出し日露戦争の影響から工事が滞っていた湯沢 - 横堀間の鉄道敷設を再開させた[1]。
1922年、日本農民組合が設立された際には秋田でもその余波から小作争議が度々生じた。この為当主であった3代目は、争議に巻き込まれることを回避するため、投資先を田畑から山林に振り分けた。これによって第二次大戦後の農地解放による資産散逸から免れた[1]。
1951年、3代目が逝き、1954年には4代目となる兵太郎も亡くなった。そこで高島屋飯田(現:丸紅)のサラリーマンであった良一が呼び戻され5代目兵吉を襲名した。この折、5代目には帰郷早々、2人合わせて2億円もの相続税が課され、10年賦で納付を行った。5代目は往時を振り返り「私自身、相続税をどうやって払うかが、昭和30年代の最大の課題であって、その余力で商売を続けたみたいなものでした。本当に税金の恐怖に脅えました。当時としたは莫大だった資産に振り回された格好で、デパートや量販店へ業容を広げる時期だったのでしょうが、思い切った投資ができませんでした。」と述懐している[1]。
昭和40年代に入り税金の刻苦からようやく解き放たれた辻兵は、事業拡大に乗り出し辻兵の県下主要都市および県外展開を開始したほか、グループ企業である秋田いすゞ自動車のモータリゼーションの到来による発展や、貸衣装業を伸長させ改称した秋田県新生活互助会(現:へいあん秋田)も県下で結婚式場である平安閣をオープンした[1]。また祖業である呉服・アパレル関連の拡大には大手資本との提携が必要であるとの認識の下、かねてから5代目の知己であった中内㓛に協力を要請し、大町2丁目の旧本店跡地の再開発に乗り出し、地元商工業者との粘り強い交渉をへて1981年6月4日には、再開発ビルである秋田ニューシティが開業。ダイエー秋田店と辻兵がキーテナントとして入居した[1]。
5代目は、1986年2月から途中退任を挟み、2004年10月まで秋田商工会議所会頭を務め[3]、その傍らには秋田銀行や秋田放送の社外取締役を務めたほか、秋田テレメッセージや秋田ケーブルテレビの設立にも尽力。両社トップを務めるなど県経済界の重鎮として重きをなした。また低成長下において売り上げが踊り場に入っていた秋田いすゞ自動車における新たなビジネスモデルの構築として、富士ゼロックスとの特約店契約を締結。秋田いすゞ内に秋田ゼロックスの前身となる複写機事業部を創設した[4]。
2008年の5代目の死去後、子息である良之がグループの総帥を担い、秋田大町ニューシテーの解散を決定するなど、時代の変遷に対応すべく施策を講じている。
グループ企業
「二十日会グループ」と称している[5]。
- 秋田いすゞ自動車[注 2]
- 秋田ゼロックス株式会社
- コマツ秋田株式会社
- 株式会社秋田デンカ
- 辻兵商事株式会社
- 辻不動産株式会社
- 株式会社へいあん秋田
- 羽後設備株式会社
- 羽後電設工業株式会社
- 株式会社アテック
- 秋田総合リース株式会社
- ロイヤルモーター株式会社[注 3]
- 株式会社エル・アンド・デー
脚注
注
- ^ 2代、3代の兵吉は、旧秋田銀行と秋田貯蓄銀行の頭取を務めた。この経緯から3代目は現:秋田銀行の初代頭取を務め、5代目も同行社外取締役を長年歴任。5代目の子息である良之も、2017年より社外取締役に就任した。
- ^ 吸収合併した新秋田いすゞモーターから引き継ぎ、アルファロメオの正規自動車ディーラーでもあったが、2007年3月に撤退している。
- ^ フォルクスワーゲン・アウディの正規ディーラー。秋田ヤナセの前身の名称と同一だが、フォルクスワーゲンを扱うディーラー、Volkswagen Akita Rinkaiを運営するため、別途設立された企業である。
出典
参考文献
- 秋田魁新報社編 『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年。ISBN 4870200074