コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「オレンジアタッカーズ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
31行目: 31行目:
このリーグでは開幕から好調をキープしていた。そんな中での休部発表は、チームの勢いに水を差すのではないかという心配をよそに、休部報道後も勝ち星を連ね、最終的に2度目のリーグ優勝を果たす。「ダイエーとしての有終の美を」という選手の意思が生んだ結果であり、試合後、チームの旗を手に会場を駆け回る選手の姿はファンの感動を呼んだ。
このリーグでは開幕から好調をキープしていた。そんな中での休部発表は、チームの勢いに水を差すのではないかという心配をよそに、休部報道後も勝ち星を連ね、最終的に2度目のリーグ優勝を果たす。「ダイエーとしての有終の美を」という選手の意思が生んだ結果であり、試合後、チームの旗を手に会場を駆け回る選手の姿はファンの感動を呼んだ。


Vリーグ優勝を果たしたチームは、試合直後の祝賀会での[[中内]]ダイエー会長兼社長(当時)の提言により、新チームでの存続の道を探ることとなった。
Vリーグ優勝を果たしたチームは、試合直後の祝賀会での[[中内]]ダイエー会長兼社長(当時)の提言により、新チームでの存続の道を探ることとなった。
当初目指していた独立採算型のプロチーム設立は断念したが、グループ会社のダイエーコミュニケーションズがチームを引き受ける事になり、1998年6月1日、日本バレー界初のプロチーム・オレンジアタッカーズが誕生した。
当初目指していた独立採算型のプロチーム設立は断念したが、グループ会社のダイエーコミュニケーションズがチームを引き受ける事になり、1998年6月1日、日本バレー界初のプロチーム・オレンジアタッカーズが誕生した。



2020年7月11日 (土) 10:10時点における版

オレンジアタッカーズ
原語表記 オレンジアタッカーズ
ホームタウン 兵庫県神戸市
クラブカラー オレンジ・黒
創設年 1982年(ダイエーとして)
廃部年 2000年
チーム所在地 兵庫県神戸市
体育館所在地 兵庫県神戸市

オレンジアタッカーズ(オレンジアタッカーズ)は、兵庫県神戸市を本拠地に活動していた、女子バレーボールのプロチームである。獲得タイトル計11回。 なお、この項目では、前身チームである、ダイエーオレンジアタッカーズについても述べる。

来歴

1982年11月、日本の大手スーパー・ダイエーの社内レクリエーション活動の一環として女子バレーボールの実業団チーム「ダイエー女子バレーボール部・オレンジアタッカーズ」としてスタート。本拠地をダイエー本部のある神戸市においていた。

1983年4月、チーム始動。全日本実業団6人制優勝大会で優勝し、地域リーグ入り。翌1984年、第4回地域リーグ優勝。第16回実業団リーグで全勝優勝を飾り、最短で日本バレーボールリーグ昇格を果たす。19851986年の第19回日本リーグでいきなり準優勝と健闘したが、そのシーズン中の1986年1月24日の対日立戦で、フロー・ハイマン(元ロサンゼルス五輪アメリカ代表)が試合中に倒れ急死するというアクシデントにも見舞われた[1]。以後日本リーグ、黒鷲旗全日本選手権で着実に上位進出をするも、優勝までには至らなかった。

日本リーグからVリーグへ、念願の優勝

従来の日本リーグから1994/95シーズンにリニューアルした第1回Vリーグでは、リーグ途中に阪神淡路大震災の被害に遭う非常事態の中、「がんばろうKOBE」を合言葉に団結し、チームの悲願である優勝を勝ち取った。 念願だったチャンピオンの座を手中に収めて以降、Vリーグは1996年黒鷲旗全日本選手権で優勝するなど、強豪チームとしての地位を確たるものとした。

この時期のダイエーは、エース山内美加を中心に、移籍で加入した吉原知子坂本清美斎藤真由美といった日本代表クラスの選手を抱える他、ミレーヤ・ルイス(キューバ)やポーラ・ワイショフ(アメリカ)といった世界のスター選手を助っ人選手として迎え、まさに「スター軍団」と呼ぶに相応しいチーム構成であった。この事も「ダイエー=強い」というイメージを植え付ける要因になっていたといえる。

ダイエー休部・プロチームへ

しかし、折からの不況でダイエー本体がダメージを受けており、これを理由に第4回Vリーグの最中であった1998年1月にチームの休部が発表された。 このリーグでは開幕から好調をキープしていた。そんな中での休部発表は、チームの勢いに水を差すのではないかという心配をよそに、休部報道後も勝ち星を連ね、最終的に2度目のリーグ優勝を果たす。「ダイエーとしての有終の美を」という選手の意思が生んだ結果であり、試合後、チームの旗を手に会場を駆け回る選手の姿はファンの感動を呼んだ。

Vリーグ優勝を果たしたチームは、試合直後の祝賀会での中内㓛ダイエー会長兼社長(当時)の提言により、新チームでの存続の道を探ることとなった。 当初目指していた独立採算型のプロチーム設立は断念したが、グループ会社のダイエーコミュニケーションズがチームを引き受ける事になり、1998年6月1日、日本バレー界初のプロチーム・オレンジアタッカーズが誕生した。

新生オレンジアタッカーズは積極的に広報活動を行い、選手たちもこれに積極的に参加した。一般向けファンクラブ設立やグッズ販売、イベント開催などは、当時としては珍しく、こうした面でもバレーファンから注目を浴びる事となった。 オレンジアタッカーズとして初めて迎えたVリーグ(第5回・1998/99年)は大村加奈子高橋幸子といった若手がレギュラーに起用され、開幕5連勝と出だしは好調だったが、後半に突如大ブレーキ。10勝8敗と勝ち越しながら5位に終わる。直後の黒鷲旗では優勝し、2連覇を果たすが、この大会限りでヨーコ・ゼッターランドが引退。アリー・セリンジャー監督も退任し、更に吉原知子斎藤真由美佐々木みきといった中心選手も退部してチームは一気に窮地に追い込まれる。ここで中心になったのは、既にレギュラーとなっていた満永ひとみ大村加奈子をはじめとした若手選手(チーム名になぞらえ、一部では青みかんアタッカーズとも呼ばれていた[要出典])であった。

迎えた第6回Vリーグでは、チャンスを得た選手たちが力を発揮。前年と同じ10勝8敗の成績を挙げたが、またしても5位に終わった。しかし、初レギュラーとなった先野久美子がスパイク賞とベスト6を獲得する活躍を見せた他、同じく初レギュラーの鶴田桂子関井陽子も活躍した。

オレンジの終焉、久光へ

しかし、クラブチームとしてのオレンジアタッカーズも経営的に厳しい状況が続いていた。そんな中、2000年5月の黒鷲旗を終えた直後に久光製薬とチームのスポンサード契約を結んだことが発表される。同時にチーム名を「久光製薬スプリングアタッカーズ」と変更。ダイエー時代から続く「オレンジアタッカーズ」の歴史に幕を下ろし、新たなチームとして始動することとなった(以降の来歴については久光製薬スプリングスを参照のこと)。

エピソード

  • 地元のサンテレビとの結びつきが強く、Vリーグ期間中に「オレンジアタッカーズアワー」として試合の録画中継を行っていた(1997年まで続く)。この模様は千葉テレビ等の一部他局でも放映された。

成績

主な成績

日本リーグ/Vリーグ
黒鷲旗全日本選抜
国民体育大会成年女子(6人制)

年度別成績

大会名 順位 参加チーム数 試合数 勝率
実業団リーグ 第16回 (1984/85) 優勝 8チーム 14 14 0 1.000
日本リーグ 第19回 (1985/86) 準優勝 8チーム 21 15 6 0.714
第20回 (1986/87) 3位 8チーム 21 15 6 0.714
第21回 (1987/88) 4位 8チーム 14 9 5 0.643
第22回 (1988/89) 5位 8チーム 14 5 9 0.357
第23回 (1989/90) 5位 8チーム 14 5 9 0.357
第24回 (1990/91) 6位 8チーム 14 5 9 0.357
第25回 (1991/92) 3位 8チーム 20 10 10 0.500
第26回 (1992/93) 5位 8チーム 14 6 8 0.429
第27回 (1993/94) 準優勝 8チーム 20 14 6 0.700
日本リーグ通算 (9年) 152 84 68 0.553
Vリーグ 第1回 (1994/95) 優勝 8チーム 21 16 5 0.762
第2回 (1995/96) 4位 8チーム 21 17 4 0.809
第3回 (1996/97) 6位 8チーム 21 10 11 0.476
第4回 (1997/98) 優勝 8チーム 21 19 2 0.905
第5回 (1998/99) 5位 10チーム 18 10 8 0.556
第6回 (1999/2000) 5位 10チーム 18 10 8 0.556
Vリーグ通算 (6年) 120 82 38 0.683

かつて在籍していた選手

脚注

  1. ^ 敗れた日立の連勝記録が88でストップした歴史的な日でもあった[1]

関連項目