コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「紀藤閑之介」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
48行目: 48行目:
[[高等中学校#第三高等中学校|第三高等中学校]](現・[[京都大学]][[教養部]])を卒業<ref name="daijiten" />した後、宇部村に戻った閑之介は「村内の情報を村民に伝えることが村人の民度を向上させ、ひいては国の繁栄に通じる」と考え、[[1912年]](明治45年)、宇部時報(現・[[宇部日報]])を発刊した{{Sfn|堀和也|2011|p=84}}{{Sfn|宇部時報社|1993|p=557}}。
[[高等中学校#第三高等中学校|第三高等中学校]](現・[[京都大学]][[教養部]])を卒業<ref name="daijiten" />した後、宇部村に戻った閑之介は「村内の情報を村民に伝えることが村人の民度を向上させ、ひいては国の繁栄に通じる」と考え、[[1912年]](明治45年)、宇部時報(現・[[宇部日報]])を発刊した{{Sfn|堀和也|2011|p=84}}{{Sfn|宇部時報社|1993|p=557}}。


その後宇部市会議員となった閑之介は宇部市会副議長、同議長を経て、[[1928年]](昭和3年)[[7月1日]]、宇部市長(第3代)に就任した<ref name="daijiten" /><ref name="rekidai" />。就任後まもなく執り行われた[[昭和天皇]]の[[即位の礼]]の記念事業として、同市内の神原公園に[[福原元たけ|福原越後]]の像を建立した<ref name="ubenippo_20100903" />{{Refnest|group="注"|このとき建立された像は、第二次世界大戦中に金属供出の対象となっており現存しない<ref name="ubenippo_20100903" />。}}。
その後宇部市会議員となった閑之介は宇部市会副議長、同議長を経て、[[1928年]](昭和3年)[[7月1日]]、宇部市長(第3代)に就任した<ref name="daijiten" /><ref name="rekidai" />。就任後まもなく執り行われた[[昭和天皇]]の[[即位の礼]]の記念事業として、同市内の神原公園に[[福原元|福原越後]]の像を建立した<ref name="ubenippo_20100903" />{{Refnest|group="注"|このとき建立された像は、第二次世界大戦中に金属供出の対象となっており現存しない<ref name="ubenippo_20100903" />。}}。


翌年の[[1929年]](昭和4年)[[4月20日]]に市長職から一度退任したものの、[[1935年]](昭和10年)[[12月7日]]には再び同市長(第6代)に就任し、[[1938年]](昭和13年)[[7月29日]]まで在任した<ref name="rekidai" />。
翌年の[[1929年]](昭和4年)[[4月20日]]に市長職から一度退任したものの、[[1935年]](昭和10年)[[12月7日]]には再び同市長(第6代)に就任し、[[1938年]](昭和13年)[[7月29日]]まで在任した<ref name="rekidai" />。

2020年7月5日 (日) 05:24時点における版

紀藤 閑之介
きとう かんのすけ
1912年撮影
生年月日 1869年11月7日
出生地 山口県長門市
没年月日 (1961-09-28) 1961年9月28日(91歳没)
出身校 第三高等中学校

在任期間 1928年7月1日 - 1929年4月20日

第6代 山口県宇部市長
在任期間 1935年12月17日 - 1938年7月29日
テンプレートを表示

紀藤 閑之介(きとう かんのすけ、1869年〈明治2年〉11月7日 - 1961年昭和36年〉9月28日 [1])は、日本政治家実業家。第3・6代山口県宇部市[2]。族籍は山口県士族[3]農業[3]。山口県多額納税者[3]

略歴

紀藤家は萩藩主毛利氏の永代家老福原氏の家老の家柄である[4]。閑之介は1869年(明治2年)11月7日、紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長[5])の長男として山口県長門市に生まれた[1][6]

第三高等中学校(現・京都大学教養部)を卒業[1]した後、宇部村に戻った閑之介は「村内の情報を村民に伝えることが村人の民度を向上させ、ひいては国の繁栄に通じる」と考え、1912年(明治45年)、宇部時報(現・宇部日報)を発刊した[6][7]

その後宇部市会議員となった閑之介は宇部市会副議長、同議長を経て、1928年(昭和3年)7月1日、宇部市長(第3代)に就任した[1][2]。就任後まもなく執り行われた昭和天皇即位の礼の記念事業として、同市内の神原公園に福原越後の像を建立した[4][注 1]

翌年の1929年(昭和4年)4月20日に市長職から一度退任したものの、1935年(昭和10年)12月7日には再び同市長(第6代)に就任し、1938年(昭和13年)7月29日まで在任した[2]

人物

宇部市長在任中を通して、宇部村立宇部中学校(現・山口県立宇部高等学校)の創立[1]、宇部時報(現・宇部日報)の創刊[6]に携わったほか、宇部市立図書館附設資料館の建設費用を提供する[8]など、宇部市の教育・文化水準の向上に努めた。

宇部時報は発刊当初、紀藤の個人負担によって発行される月刊紙で、今日のフリーペーパーのように購読料・送料などは全て無料であった[6]。美濃判(B5版)4頁の第一号は宇部市西新川(真締川の西岸。現在の中央町)で印刷されたのち発行所となっていた紀藤の自宅に送られ、家族総出で発送作業を行ったという[7]。発行部数の700部の地方紙が無料で毎月配られ、これが1914年(大正3年)の法人設立に伴う有料化まで続けられた[6]

紀藤がデザインした宇部市章

宇部市章の作者は紀藤である[9]。市章は1922年(大正11年)4月に匿名で公募され、245点の応募から選ばれたものであるが、当時宇部市会副議長であった紀藤が応募していたことが後に判明した[9]

また、宇部興産の社名に含まれる「興産」には「地域社会に有用な産業を次々に興す」という意味が込められているが、これは当時宇部共同義会の長老であった紀藤の発案によるものである[10]

主な役職

家族・親族

宇部市出身の弁護士紀藤正樹は、紀藤閑之助の子孫である[11]

紀藤家

山口県宇部市宇部町[3]

  • 父・宗介(山口県士族)[3]
  • 弟・直四郎(山口士族・白木フサの家督を継ぐ)[3]
1880年 -
  • 妹・ミエ(山口士族・山崎峻蔵の長男淳一に嫁す)[3]
1886年 -
  • 妻・マキ(山口士族・入谷清の長女)[3]
1880年 -
  • 男・常亮[3]
1899年 -
  • 男・松夫[3]
1907年 -
1910年 -

脚注

注釈

  1. ^ このとき建立された像は、第二次世界大戦中に金属供出の対象となっており現存しない[4]

出典

  1. ^ a b c d e f 「紀藤閑之介」『日本人名大辞典』講談社、東京、2009年。 
  2. ^ a b c 歴代宇部市長”. 宇部市総合政策部秘書課秘書管理係 (2011年3月18日). 2012年3月31日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第11版(昭和12年)上』人事興信所、キ53頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年2月18日閲覧。
  4. ^ a b c 越後公像、原型が完成」『宇部日報』宇部日報社、宇部、2010年9月3日。2012年3月31日閲覧。
  5. ^ 堀和也 2011, p. 65.
  6. ^ a b c d e 堀和也 2011, p. 84.
  7. ^ a b c 宇部時報社 1993, p. 557.
  8. ^ 図書館附設資料館”. 宇部市教育委員会事務局文化財活用推進室文化財係 (2011年8月24日). 2012年3月31日閲覧。
  9. ^ a b 宇部市ってどんなとこ? 市章”. 宇部市 (2011年8月24日). 2012年3月31日閲覧。
  10. ^ a b 宇部興産 1984, p. 167.
  11. ^ 『若者よ怒れ、変革に先人は手助けを』宇部日報2012年6月15日[要ページ番号]

参考文献

  • 宇部興産『中安閑一伝』宇部興産、1984年10月。ASIN B000J6VW70 
  • 堀和也『うべ歴史読本』NPO法人うべ未来100プロジェクト、宇部、2011年11月21日。 
  • 宇部市史編纂委員会『宇部市史』 通史篇 下巻、宇部市、宇部、1993年5月1日。 
  • 宇部時報社『報道八十年』宇部時報社、宇部、1993年3月。NCID BA62794971 
公職
先代
林仙輔
宇部市長
第3代:1928年 - 1929年
次代
国吉信義
先代
国吉信義
宇部市長
第6代:1935年 - 1938年
次代
伊藤勘助
議会
先代
-
宇部市会議長 次代
-