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在英中木戸孝允、杉孫七郎他宛てに大攘夷を勧める書簡を書き、その後『英国政体覚え書き』を明治政府に、『全権大使岩倉閣下に呈する書』を岩倉使節団に奏上した。1874(明治7)年6月、[[大英帝国]][[リンカーン法曹院]]で、日本人として初めて[[法廷弁護士]](バリスター)の資格を得た。法曹院のバリスター資格記録簿にはGoronosuke Yoshiyamaとサインしている。同年8月帰国し、司法省に奉職したが、この時姓名を福原芳山と届出た。旧領宇部においては、元長州藩石炭局主任の[[福井忠次郎|福井忠次郎ら]]が設立した石炭会社により独占されていた、旧宇部村の借区権(採鉱権)を8ヵ年の年賦払いで買い戻す交渉を成功させ、今日の工業都市宇部市発展の礎を築いた。 |
在英中木戸孝允、杉孫七郎他宛てに大攘夷を勧める書簡を書き、その後『英国政体覚え書き』を明治政府に、『全権大使岩倉閣下に呈する書』を岩倉使節団に奏上した。1874(明治7)年6月、[[大英帝国]][[リンカーン法曹院]]で、日本人として初めて[[法廷弁護士]](バリスター)の資格を得た。法曹院のバリスター資格記録簿にはGoronosuke Yoshiyamaとサインしている。同年8月帰国し、司法省に奉職したが、この時姓名を福原芳山と届出た。旧領宇部においては、元長州藩石炭局主任の[[福井忠次郎|福井忠次郎ら]]が設立した石炭会社により独占されていた、旧宇部村の借区権(採鉱権)を8ヵ年の年賦払いで買い戻す交渉を成功させ、今日の工業都市宇部市発展の礎を築いた。 |
2020年7月5日 (日) 05:23時点における版
福原 芳山(ふくばら よしやま 弘化4年(1847年) - 明治15年(1882年)は、日本の裁判官、宇部領主福原家当主。別名駒之進、親徳。号は東洋。子に福原俊丸。
生涯
長州藩の上級藩士粟屋親睦の次男として生まれるが、宇部領主福原元僴の養嗣子となった。元治元年11月12日(1864年12月10日)に養父の元僴が禁門の変の責任を取り自害すると、家名は断絶となった。福原姓を憚り(明治元年に復姓)、福原氏発祥の城である鈴尾城から名字を取り、鈴尾五郎と名乗った。後に藩主毛利敬親より一字を与えられ鈴尾親徳(すずお ちかのり)と称する。1865(慶応元)年干城隊の総督および加判役(家老格)となり、薩摩名義による武器戦艦購入では重要な職責を果たし、四境戦争では宇部兵を率いて闘い、1867(慶応3)年渡英した。
在英中木戸孝允、杉孫七郎他宛てに大攘夷を勧める書簡を書き、その後『英国政体覚え書き』を明治政府に、『全権大使岩倉閣下に呈する書』を岩倉使節団に奏上した。1874(明治7)年6月、大英帝国リンカーン法曹院で、日本人として初めて法廷弁護士(バリスター)の資格を得た。法曹院のバリスター資格記録簿にはGoronosuke Yoshiyamaとサインしている。同年8月帰国し、司法省に奉職したが、この時姓名を福原芳山と届出た。旧領宇部においては、元長州藩石炭局主任の福井忠次郎らが設立した石炭会社により独占されていた、旧宇部村の借区権(採鉱権)を8ヵ年の年賦払いで買い戻す交渉を成功させ、今日の工業都市宇部市発展の礎を築いた。
1876(明治9)年司法小丞、1878(明治11)年には大坂裁判所判事。1881(明治14)年、大審院詰となる。しかし、翌1882(明治15)年に35歳で死去した。墓所は東京都台東区谷中霊園乙12号4側にあったが、2002年(平成14)年、山口県宇部市小串の宗隣寺に改葬された。法名は瑞芳院感応道雄。
子孫
子の福原俊丸は父祖の功績により男爵となり、東京帝国大学や早稲田大学講師、大蔵省臨時建築部技師などを歴任。後に貴族院議員となった。