コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「毛利広鎮」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
20行目: 20行目:
|兄弟=[[福原房純]]、'''広鎮'''、[[毛利馴仁|馴仁]]、豊子([[吉川経礼]]継室)
|兄弟=[[福原房純]]、'''広鎮'''、[[毛利馴仁|馴仁]]、豊子([[吉川経礼]]継室)
|妻=正室:'''[[伊達村賢]]の娘'''<br>継室:'''[[秋元永朝]]の娘'''<br>側室:[[三宅博賞]]の娘ほか多数
|妻=正室:'''[[伊達村賢]]の娘'''<br>継室:'''[[秋元永朝]]の娘'''<br>側室:[[三宅博賞]]の娘ほか多数
|子=雅太郎(早世)、[[毛利広衷|広衷]](寛之進、早世)、鋭三郎(早世)、[[毛利寿粛|寿粛]](雍五郎、早世)、[[堅田元琦]](寿俶、[[堅田就正]]養子)、寧子([[福原熙賢]]室)、[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|}}]](寿祉、[[佐世親長]]養子のち[[福原親俊]]養子)、'''[[毛利元蕃|元蕃]]'''、[[毛利勅子|勅子]]([[毛利元美]]室)、[[秋元志朝]](八男、[[秋元久朝]]養子)、[[毛利元徳|元徳]](十男)、娘([[京極高聡]]正室のち[[山崎義柄]]正室)、娘([[松野助永]]室)など多数
|子=雅太郎(早世)、[[毛利広衷|広衷]](寛之進、早世)、鋭三郎(早世)、[[毛利寿粛|寿粛]](雍五郎、早世)、[[堅田元琦]](寿俶、[[堅田就正]]養子)、寧子([[福原熙賢]]室)、[[福原元僴]](寿祉、[[佐世親長]]養子のち[[福原親俊]]養子)、'''[[毛利元蕃|元蕃]]'''、[[毛利勅子|勅子]]([[毛利元美]]室)、[[秋元志朝]](八男、[[秋元久朝]]養子)、[[毛利元徳|元徳]](十男)、娘([[京極高聡]]正室のち[[山崎義柄]]正室)、娘([[松野助永]]室)など多数
|特記事項=
|特記事項=
}}
}}
30行目: 30行目:
天保8年([[1837年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]、[[還暦]]を迎えた広鎮は、七男の[[毛利元蕃|元蕃]]に家督を譲って隠居した。慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって[[徳山市|徳山]]にて死去した。
天保8年([[1837年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]、[[還暦]]を迎えた広鎮は、七男の[[毛利元蕃|元蕃]]に家督を譲って隠居した。慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって[[徳山市|徳山]]にて死去した。


文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、六男の[[福原元たけ|福原元僴]](福原越後、福原家へ養子入りした)、隠居後にもうけた十男の[[毛利元徳]](広鎮の生前に毛利本家へ養子入りした)など、息子の多くが幕末期の著名人として名を連ねた。
文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、六男の[[福原元僴]](福原越後、福原家へ養子入りした)、隠居後にもうけた十男の[[毛利元徳]](広鎮の生前に毛利本家へ養子入りした)など、息子の多くが幕末期の著名人として名を連ねた。


{{徳山藩主|8代|1796年 - 1837年}}
{{徳山藩主|8代|1796年 - 1837年}}

2020年7月5日 (日) 05:22時点における版

 
毛利広鎮
毛利広鎮肖像
時代 江戸時代中期 - 末期(幕末
生誕 安永6年9月21日1777年10月21日
死没 慶応元年12月16日1866年2月1日
改名 徳太郎(幼名)→就寿(初名)→広鎮
別名 兵庫(通称
戒名 承天院殿広州鎮裔大居士
墓所 山口県周南市舞車町の大成寺
官位 従五位下、大和守、日向
幕府 江戸幕府
周防徳山藩
氏族 毛利氏
父母 父:毛利就馴、母:浄願院(関政富の娘)
兄弟 福原房純広鎮馴仁、豊子(吉川経礼継室)
正室:伊達村賢の娘
継室:秋元永朝の娘
側室:三宅博賞の娘ほか多数
雅太郎(早世)、広衷(寛之進、早世)、鋭三郎(早世)、寿粛(雍五郎、早世)、堅田元琦(寿俶、堅田就正養子)、寧子(福原熙賢室)、福原元僴(寿祉、佐世親長養子のち福原親俊養子)、元蕃勅子毛利元美室)、秋元志朝(八男、秋元久朝養子)、元徳(十男)、娘(京極高聡正室のち山崎義柄正室)、娘(松野助永室)など多数
テンプレートを表示

毛利 広鎮(もうり ひろしげ)は、周防徳山藩の第8代藩主。就隆系毛利家(徳山毛利家)8代。

生涯

第7代藩主・毛利就馴の次男として江戸今井谷の屋敷にて生まれる。天明4年(1784年6月10日、就寿と名乗る。次男であったが正室の子であり、また長兄の福原房純が家老の福原就清の養子となったため、寛政8年(1796年)9月24日、父の隠居により跡を継ぎ、12月18日には従五位下・大和守に叙任した。文政12年(1829年5月15日、名を広鎮と改め、10月11日、日向守に叙任。藩政においては医学館の創設などを行なって文武を奨励し、民政にも尽くした。その藩政における尽力を幕府からも認められて、天保7年(1836年)4月、萩藩主・毛利斉元の内願を入れて城主格に任じられ、所領も4万石に加増された。

天保8年(1837年12月7日還暦を迎えた広鎮は、七男の元蕃に家督を譲って隠居した。慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって徳山にて死去した。

文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、六男の福原元僴(福原越後、福原家へ養子入りした)、隠居後にもうけた十男の毛利元徳(広鎮の生前に毛利本家へ養子入りした)など、息子の多くが幕末期の著名人として名を連ねた。