「毛利広鎮」の版間の差分
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天保8年([[1837年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]、[[還暦]]を迎えた広鎮は、七男の[[毛利元蕃|元蕃]]に家督を譲って隠居した。慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって[[徳山市|徳山]]にて死去した。 |
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文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、六男の[[ |
文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、六男の[[福原元僴]](福原越後、福原家へ養子入りした)、隠居後にもうけた十男の[[毛利元徳]](広鎮の生前に毛利本家へ養子入りした)など、息子の多くが幕末期の著名人として名を連ねた。 |
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{{徳山藩主|8代|1796年 - 1837年}} |
{{徳山藩主|8代|1796年 - 1837年}} |
2020年7月5日 (日) 05:22時点における版
毛利広鎮肖像 | |
時代 | 江戸時代中期 - 末期(幕末) |
生誕 | 安永6年9月21日(1777年10月21日) |
死没 | 慶応元年12月16日(1866年2月1日) |
改名 | 徳太郎(幼名)→就寿(初名)→広鎮 |
別名 | 兵庫(通称) |
戒名 | 承天院殿広州鎮裔大居士 |
墓所 | 山口県周南市舞車町の大成寺 |
官位 | 従五位下、大和守、日向守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 周防徳山藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 父:毛利就馴、母:浄願院(関政富の娘) |
兄弟 | 福原房純、広鎮、馴仁、豊子(吉川経礼継室) |
妻 |
正室:伊達村賢の娘 継室:秋元永朝の娘 側室:三宅博賞の娘ほか多数 |
子 | 雅太郎(早世)、広衷(寛之進、早世)、鋭三郎(早世)、寿粛(雍五郎、早世)、堅田元琦(寿俶、堅田就正養子)、寧子(福原熙賢室)、福原元僴(寿祉、佐世親長養子のち福原親俊養子)、元蕃、勅子(毛利元美室)、秋元志朝(八男、秋元久朝養子)、元徳(十男)、娘(京極高聡正室のち山崎義柄正室)、娘(松野助永室)など多数 |
毛利 広鎮(もうり ひろしげ)は、周防徳山藩の第8代藩主。就隆系毛利家(徳山毛利家)8代。
生涯
第7代藩主・毛利就馴の次男として江戸今井谷の屋敷にて生まれる。天明4年(1784年)6月10日、就寿と名乗る。次男であったが正室の子であり、また長兄の福原房純が家老の福原就清の養子となったため、寛政8年(1796年)9月24日、父の隠居により跡を継ぎ、12月18日には従五位下・大和守に叙任した。文政12年(1829年)5月15日、名を広鎮と改め、10月11日、日向守に叙任。藩政においては医学館の創設などを行なって文武を奨励し、民政にも尽くした。その藩政における尽力を幕府からも認められて、天保7年(1836年)4月、萩藩主・毛利斉元の内願を入れて城主格に任じられ、所領も4万石に加増された。
天保8年(1837年)12月7日、還暦を迎えた広鎮は、七男の元蕃に家督を譲って隠居した。慶応元年(1865年)12月16日、89歳という長寿をもって徳山にて死去した。
文化人としても優れており、歌集に『類題玉函集』がある。また、六男の福原元僴(福原越後、福原家へ養子入りした)、隠居後にもうけた十男の毛利元徳(広鎮の生前に毛利本家へ養子入りした)など、息子の多くが幕末期の著名人として名を連ねた。