コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「来島又兵衛」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
内容変更
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
34行目: 34行目:
[[文久]]3年([[1863年]])、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。[[八月十八日の政変]]で[[尊王攘夷]]派が追放されると萩に戻り、[[高杉晋作]]が[[奇兵隊]]を創設したのに触発されて、又兵衛も[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]を組織して自ら総督となり、互いに連携して国事にあたった。
[[文久]]3年([[1863年]])、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。[[八月十八日の政変]]で[[尊王攘夷]]派が追放されると萩に戻り、[[高杉晋作]]が[[奇兵隊]]を創設したのに触発されて、又兵衛も[[遊撃隊 (長州藩)|遊撃隊]]を組織して自ら総督となり、互いに連携して国事にあたった。


翌元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、[[禁門の変]]の前に家老[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|}}]]らと共に上洛、[[薩摩藩]]国父[[島津久光]]の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主[[毛利敬親]]に改めて出兵を促した。
翌元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、[[禁門の変]]の前に家老[[福原元僴]]らと共に上洛、[[薩摩藩]]国父[[島津久光]]の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主[[毛利敬親]]に改めて出兵を促した。


6月に福原・[[益田親施]]・[[国司親相]]・[[久坂玄瑞]]らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の[[甲冑]]を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの[[禁裏]]内の[[禁門の変|蛤御門の戦い]]で、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した[[川路利良]]の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に[[介錯]]を命じ、自ら[[槍]]で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。[[享年]]48(満47歳没)。
6月に福原・[[益田親施]]・[[国司親相]]・[[久坂玄瑞]]らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の[[甲冑]]を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの[[禁裏]]内の[[禁門の変|蛤御門の戦い]]で、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した[[川路利良]]の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に[[介錯]]を命じ、自ら[[槍]]で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。[[享年]]48(満47歳没)。

2020年7月5日 (日) 05:20時点における版

 
来島又兵衛
『高名像伝 : 近世遺勲. 地』
時代 江戸時代後期
生誕 文化14年1月8日1817年2月23日
死没 元治元年7月19日1864年8月20日))
改名 喜多村亀之進→喜多村光次郎→来島光次郎→来島又兵衛
別名 亀之進、光次郎、政久
雅号:蓮城、草山、夢庵道人、辟堂
変名:森鬼太郎、森喜太郎など
戒名 三術院賢徳義道居士
墓所 京都霊山護国神社
主君 毛利敬親
長州藩(萩藩)
氏族 喜多村氏→来島氏
父母 喜多村政倫(実父)、来島又兵衛政常(養父)、来島清三郎(義父)
たけ(清三郎の子、政常の養女)
森清蔵(来島亀之助)
テンプレートを表示

来島 又兵衛(きじま またべえ)は、幕末長州藩士である。尊皇攘夷派。遊撃隊総督。幼名は亀之進。初名は光次郎。諱は政久。

生涯

文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村大組(八組)の上士・来島政常(又兵衛)の婿養子となった。天保12年(1841年)、柳川藩大石神影流の創始者大石進に剣術を学んだ。弘化3年(1846年)、江戸に出て剣術修行に励み、武芸の達人となった。

嘉永元年(1848年)に帰国、家督を継ぐ。同年10月に手廻組に入隊後、藩世子の駕籠奉行などの要職を歴任した。翌嘉永2年(1851年)、養父の政常が病死したため、来島家累代の名前を継承し、来島又兵衛政久と改名した。

文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変尊王攘夷派が追放されると萩に戻り、高杉晋作奇兵隊を創設したのに触発されて、又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となり、互いに連携して国事にあたった。

翌元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原元僴らと共に上洛、薩摩藩国父島津久光の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵を促した。

6月に福原・益田親施国司親相久坂玄瑞らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自らで喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。享年48(満47歳没)。

長男の亀之助は藩主の命により又兵衛の変名の1つであった森姓に替えて森清蔵と改名、井上馨の末妹の厚子と結婚した。また、厚子の甥(厚子と馨の兄井上光遠の三男)祐三郎を養子に迎え、祐三郎は後に三井銀行下関支店長、三井物産門司支店長を歴任した[1]

現在、山口県美祢市にある美祢市立厚保(あつ)小学校には彼の銅像が建てられているが、これは近くに来島又兵衛の自邸(旧:美禰郡厚保村)があったためである。又兵衛は靖国神社や護国神社に祀られているが、厚保にも墓石が現存する。

関連作品

テレビドラマ

脚注

参考文献

  • 三原清尭『来嶋又兵衛傳(再版)』小野田市歴史民俗資料館、1992年。 

関連項目