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「九条彦子」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
「彦子」の名前はかつて彼女の叔母で四条天皇の生母である[[九条しゅん子|九条竴子]]が入内した際に、父の九条道家がこの名前を与えようとしたところ[[藤原定家]]の諫言などで取りやめた経緯があった。道家は亡き竴子の忘れ形見である四条天皇の后となる同じく亡き教実の忘れ形見である孫娘に自分が希望した名前を与えることになったのである(なお、諫言をした藤原定家は彦子の入内直前に死去している)<ref>高松百香「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P178-183・185-186</ref>。
「彦子」の名前はかつて彼女の叔母で四条天皇の生母である[[九条竴子]]が入内した際に、父の九条道家がこの名前を与えようとしたところ[[藤原定家]]の諫言などで取りやめた経緯があった。道家は亡き竴子の忘れ形見である四条天皇の后となる同じく亡き教実の忘れ形見である孫娘に自分が希望した名前を与えることになったのである(なお、諫言をした藤原定家は彦子の入内直前に死去している)<ref>高松百香「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P178-183・185-186</ref>。


1241年([[仁治]]2年)1月3日に[[従三位]]に叙任。同年に入内し12月13日[[四条天皇]]の女御となる。しかし翌1242年(仁治3年)1月9日四条天皇が急死。同年12月[[准三宮]]、1243年([[寛元]]元年)2月院号宣下、10月出家。1262年(弘長2年)1月5日に薨去。享年36。
1241年([[仁治]]2年)1月3日に[[従三位]]に叙任。同年に入内し12月13日[[四条天皇]]の女御となる。しかし翌1242年(仁治3年)1月9日四条天皇が急死。同年12月[[准三宮]]、1243年([[寛元]]元年)2月院号宣下、10月出家。1262年(弘長2年)1月5日に薨去。享年36。

2020年7月3日 (金) 22:38時点における版

九条 彦子

称号 宣仁門院
身位 従三位女御准三宮女院
出生 1227年安貞元年)
死去 1262年1月26日弘長2年1月5日)(享年36)
配偶者 四条天皇
父親 九条教実
母親 西園寺嘉子
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九条 彦子(くじょう げんし/ひろこ、1227年安貞元年) - 1262年1月26日弘長2年1月5日))は、鎌倉時代女院である。四条天皇女御で、九条道家の孫娘で光明峰寺入道九条教実の娘。母は西園寺嘉子女院号は宣仁門院

生涯

「彦子」の名前はかつて彼女の叔母で四条天皇の生母である九条竴子が入内した際に、父の九条道家がこの名前を与えようとしたところ藤原定家の諫言などで取りやめた経緯があった。道家は亡き竴子の忘れ形見である四条天皇の后となる同じく亡き教実の忘れ形見である孫娘に自分が希望した名前を与えることになったのである(なお、諫言をした藤原定家は彦子の入内直前に死去している)[1]

1241年(仁治2年)1月3日に従三位に叙任。同年に入内し12月13日四条天皇の女御となる。しかし翌1242年(仁治3年)1月9日四条天皇が急死。同年12月准三宮、1243年(寛元元年)2月院号宣下、10月出家。1262年(弘長2年)1月5日に薨去。享年36。

脚注

  1. ^ 高松百香「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P178-183・185-186

関連項目