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[[嘉禄]]元年([[1225年]])1月5日、[[従三位]]に叙される<ref>安嘉門院御給。</ref>。同月7日、左中将は元の如し。嘉禄2年([[1226年]])1月23日、周防権守を兼ねる。[[安貞]]元年([[1227年]])4月20日、正三位に昇叙。[[寛喜]]3年([[1229年]])4月26日、[[参議]]に任ぜられる。左中将は元の如し。同月29日、[[衛門府|右衛門督]]を兼ね[[検非違使|検非違使別当]]に補される。また同日に[[中宮職|中宮権大夫]]を兼ねる。[[貞永]]元年([[1232年]])1月5日、従二位に昇叙。同月30日、[[権中納言]]に転任。同年2月7日、右衛門督、検非違使別当、中宮権大夫は元の如し。5月13日、検非違使別当を辞す。6月29日、右衛門督を辞す。9月7日、勅授。[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])4月1日、中宮権大夫を止める(中宮が女院([[九条しゅん子|藻璧門院]])となったため。)。[[嘉禎]]元年([[1235年]])6月17日、正二位に昇叙。[[暦仁]]元年([[1238年]])2月24日、権大納言に転任。[[仁治]]2年([[1241年]])11月10日、左近衛大将を兼ねる。同月11日、[[馬寮|左馬寮御監]]の宣下あり。仁治3年([[1242年]])4月9日、権大納言と左大将を辞した<ref>息男従三位左中将[[清水谷公持|公持]]を権中納言に挙任のため。</ref>。[[寛元]]4年([[1246年]])7月15日、母の喪に服す。[[文応]]元年([[1260年]])2月15日、出家。同年4月17日、薨去。
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==系譜==
==系譜==

2020年7月3日 (金) 22:38時点における版

 
一条実有
時代 鎌倉時代前期
生誕 建仁3年(1203年[1]
死没 文応元年4月17日1260年5月28日
官位 正二位権大納言左近衛大将
主君 順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 清水谷家
父母 父:西園寺公経、母:権少僧都範雅の娘[2]
兄弟 西園寺倫子西園寺実氏実有洞院実雄、道融、四辻実藤西園寺実材三条実親室、女子、西園寺成子、実意、実助、尊恵、実顕、行安、慈助、実勝、西園寺嘉子、西園寺公子
北条義時の娘
公持[3]公藤近衛基平室、鷹司兼平室、四辻実藤室、公什、滋野井公光
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一条 実有(いちじょう さねあり)は、鎌倉時代前期の公卿太政大臣西園寺公経の子。一条を号す。官位正二位権大納言左近衛大将清水谷家の祖。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

建保2年(1214年)3月28日、叙爵。建保3年(1215年)1月13日、侍従に任ぜられる。建保4年(1216年)1月5日、従五位上に昇叙。建保7年(1219年)1月22日、左少将に任ぜられ讃岐権介を兼ねる。承久2年(1220年)1月22日、上野権介を兼ねる。承久3年(1221年1月5日、正五位下に昇叙[4]。同年閏10月29日、禁色を許される。11月29日、従四位下に昇叙。12月1日、皇后宮権亮を兼ねる。承久4年(1222年)1月12日、従四位上に昇叙。同月24日、左中将に転任。貞応元年(1222年)11月22日、正四位下に昇叙。貞応3年(1224年)8月4日、皇后宮権亮を止める[5]

嘉禄元年(1225年)1月5日、従三位に叙される[6]。同月7日、左中将は元の如し。嘉禄2年(1226年)1月23日、周防権守を兼ねる。安貞元年(1227年)4月20日、正三位に昇叙。寛喜3年(1229年)4月26日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。同月29日、右衛門督を兼ね検非違使別当に補される。また同日に中宮権大夫を兼ねる。貞永元年(1232年)1月5日、従二位に昇叙。同月30日、権中納言に転任。同年2月7日、右衛門督、検非違使別当、中宮権大夫は元の如し。5月13日、検非違使別当を辞す。6月29日、右衛門督を辞す。9月7日、勅授。天福元年(1233年)4月1日、中宮権大夫を止める(中宮が女院(藻璧門院)となったため。)。嘉禎元年(1235年)6月17日、正二位に昇叙。暦仁元年(1238年)2月24日、権大納言に転任。仁治2年(1241年)11月10日、左近衛大将を兼ねる。同月11日、左馬寮御監の宣下あり。仁治3年(1242年)4月9日、権大納言と左大将を辞した[7]寛元4年(1246年)7月15日、母の喪に服す。文応元年(1260年)2月15日、出家。同年4月17日、薨去。

系譜

脚注

  1. ^ 『公卿補任』による。『尊卑分脈』記載の没年齢56歳から逆算すれば元久2年(1205年)生となる。
  2. ^ 実有の母については諸書に異同がある。『公卿補任』には異説として安芸権守仲経の娘との注記がある。『尊卑分脈』では源雅頼の娘とする。
  3. ^ 公持は後述のように参議を経ず従三位左中将から権中納言に直任されている。
  4. ^ 春宮御給。
  5. ^ 皇后が女院(安嘉門院)となったため。
  6. ^ 安嘉門院御給。
  7. ^ 息男従三位左中将公持を権中納言に挙任のため。

参考文献