「小倉公雄」の版間の差分
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| 子 = '''[[小倉実教|実教]]'''、證季、実覚、季子、[[惟雲親王]]母、権中納言冬良室 |
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公雄は生没年が不詳であるが兄弟姉妹の生年を見ると、兄公宗は[[仁治]]2年([[1241年]])生まれ、[[洞院佶子|佶子]]は寛元3年([[1245年]])生まれ、[[洞院愔子|愔子]]は寛元4年([[1246年]])生まれ、弟の[[洞院公守|公守]]は建長元年([[1249年]])生まれである。公宗、佶子と同母兄弟である公守が5歳で叙爵されていることから、公雄も4〜6歳で叙爵されたと仮定すると公雄の生年は1242〜44年頃なのではないだろうか。出家したのが文永9年(1272年)であるから、昇進速度はかなり早い方である。 |
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没年については正中百首に詠進しているらしく、[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])までの存在が確認できるという<ref>ウェブサイト、『千人万首』、小倉公雄の項。</ref>。 |
没年については正中百首に詠進しているらしく、[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])までの存在が確認できるという<ref>ウェブサイト、『千人万首』、小倉公雄の項。</ref>。 |
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2020年7月3日 (金) 22:36時点における版
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 公雄→顕覚(法名) |
別名 | 号:小倉 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後嵯峨上皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 小倉家 |
父母 | 父:洞院実雄、母:一条頼氏の娘 |
兄弟 |
洞院公宗、公雄、守恵、洞院佶子、洞院愔子、洞院公守、洞院季子、禖子、慈順、洞院公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、 鷹司基忠室、西園寺公蔭室、三条公親室、実子 |
妻 | 姉小路実世の娘、九条良平の娘 |
子 | 実教、證季、実覚、季子、惟雲親王母、権中納言冬良室 |
小倉 公雄(おぐら きんお)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。小倉と号する。左大臣・洞院実雄の二男。官位は正二位・権中納言。小倉家の始祖とみなされている。
経歴
以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
宝治3年(1248年)2月8日叙爵。建長2年(1250年)5月20日、侍従に任ぜられる。建長3年(1251年)4月3日、従五位上に昇叙。建長4年(1252年)1月5日、正五位下に昇叙[1]。同年12月4日、右少将に任ぜられる。建長5年(1253年)1月13日、遠江権介を兼ねる。建長6年(1254年)1月6日、従四位下に昇叙。同月7日、叙留。建長7年(1255年)4月12日、右中将に転任。建長8年(1256年)1月6日、従四位上に昇叙。同年7月2日、左中将に転任。同年11月22日、中宮権亮を兼ねる。康元2年(1257年)1月22日、美濃権介を兼ねる。正嘉2年(1258年)2月26日、禁色を許される。同年5月14日、正四位下に昇叙。正元元年(1259年)12月19日、中宮権亮を兼ねる。
弘長元年(1261年)5月25日、従三位に叙される。同日、左中将は元の如し。弘長2年(1262年)1月19日、尾張権守を兼ねる。同年3月29日、正三位に昇叙[2]。同年10月13日、皇后宮権大夫を兼ねる。文永元年(1264年)12月24日、皇后宮権大夫を止める。
文永3年(1266年)10月24日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。同年11月2日、左兵衛督を兼ね検非違使別当に補される。文永4年(1267年)2月1日、備前権守を兼ねる。同月23日、権中納言に任ぜられる。同月27日、左兵衛督に改めて任ぜられ検非違使別当も元の如し。同年6月21日、左兵衛督と検非違使別当を辞す。文永5年(1268年)2月20日、従二位に昇叙。文永6年(1269年)6月7日、帯剣を許される。文永7年(1270年)1月5日、正二位に昇叙。文永9年(1272年)2月22日、出家[3]。法名は顕覚。
突然の出家
『増鏡』[4]によれば、後嵯峨院に目をかけられていた公雄は、後嵯峨院の崩御を悲しんで文永9年(1272年)に出家してしまった。父・実雄にとっては長男公宗が弘長3年(1263年)に早世したことに続いて二男の公雄が出家してしまったために、大変悲しんだと記されている。
生没年について
公雄は生没年が不詳であるが兄弟姉妹の生年を見ると、兄公宗は仁治2年(1241年)生まれ、佶子は寛元3年(1245年)生まれ、愔子は寛元4年(1246年)生まれ、弟の公守は建長元年(1249年)生まれである。公宗、佶子と同母兄弟である公守が5歳で叙爵されていることから、公雄も4〜6歳で叙爵されたと仮定すると公雄の生年は1242〜44年頃なのではないだろうか。出家したのが文永9年(1272年)であるから、昇進速度はかなり早い方である。 没年については正中百首に詠進しているらしく、正中2年(1325年)までの存在が確認できるという[5]。