コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「清水晴風」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Slipcoped (会話 | 投稿記録)
参考文献: clean up using AWB
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:


==生涯==
==生涯==
先祖は[[明暦]]年間に[[駿河国]][[清水市|清水]]から[[江戸]]に来て運送業を営み、その11代目として神田旅籠町1丁目(現[[東京都]][[千代田区]][[外神田]]1-1)に生まれる。明治6年([[1873年]])頃から[[俳諧]]を学び、雅号を芳華堂晴風とする。父の友人である[[竹内田蝶]]に書画を習い、明治7年([[1874年]])頃から各地の郷土玩具に興味を持つようになる。明治12年([[1879年]])に[[仮名垣魯文]]・[[内田魯庵]]・[[坪井正五郎]]・[[大槻如電]]・[[谷小波]]・[[尾佐竹猛]]などと「竹馬の会」を結成し、玩具研究・蒐集を本格的に始める。明治26年([[1893年]])から玩具図録『うなゐの友』を発刊し10集まで続く。明治29年([[1896年]])から[[三村竹清]]・[[林若樹]]・[[奥村繁次郎]]らが主催していた「集古会」に参加し、世話人をつとめる。明治42年([[1909年]])に[[西澤仙湖]]の「大供会」に参加。大正2年([[1913年]])の2月に卒倒し、病床からふたたび立てず遺言で蒐集物をすべて分配することを遺言し逝去する。辞世は「今の世の玩具博士の晴風も 死ねば子供に帰る故郷」。墓は[[本妙寺 (豊島区)|本妙寺]]にある。
先祖は[[明暦]]年間に[[駿河国]][[清水市|清水]]から[[江戸]]に来て運送業を営み、その11代目として神田旅籠町1丁目(現[[東京都]][[千代田区]][[外神田]]1-1)に生まれる。明治6年([[1873年]])頃から[[俳諧]]を学び、雅号を芳華堂晴風とする。父の友人である[[竹内田蝶]]に書画を習い、明治7年([[1874年]])頃から各地の郷土玩具に興味を持つようになる。明治12年([[1879年]])に[[仮名垣魯文]]・[[内田魯庵]]・[[坪井正五郎]]・[[大槻如電]]・[[谷小波]]・[[尾佐竹猛]]などと「竹馬の会」を結成し、玩具研究・蒐集を本格的に始める。明治26年([[1893年]])から玩具図録『うなゐの友』を発刊し10集まで続く。明治29年([[1896年]])から[[三村竹清]]・[[林若樹]]・[[奥村繁次郎]]らが主催していた「集古会」に参加し、世話人をつとめる。明治42年([[1909年]])に[[西澤仙湖]]の「大供会」に参加。大正2年([[1913年]])の2月に卒倒し、病床からふたたび立てず遺言で蒐集物をすべて分配することを遺言し逝去する。辞世は「今の世の玩具博士の晴風も 死ねば子供に帰る故郷」。墓は[[本妙寺 (豊島区)|本妙寺]]にある。


{{quotation|「'''集古會'''」
{{quotation|「'''集古會'''」

2020年7月3日 (金) 06:20時点における版

清水 晴風(しみず せいふう、嘉永4年1月10日1851年2月10日) - 大正2年(1913年7月16日)は、明治時代の郷土玩具研究者。幼名は半七、通称は仁兵衛。「おもちゃ博士」の名で呼ばれる。

生涯

先祖は明暦年間に駿河国清水から江戸に来て運送業を営み、その11代目として神田旅籠町1丁目(現東京都千代田区外神田1-1)に生まれる。明治6年(1873年)頃から俳諧を学び、雅号を芳華堂晴風とする。父の友人である竹内田蝶に書画を習い、明治7年(1874年)頃から各地の郷土玩具に興味を持つようになる。明治12年(1879年)に仮名垣魯文内田魯庵坪井正五郎大槻如電巖谷小波尾佐竹猛などと「竹馬の会」を結成し、玩具研究・蒐集を本格的に始める。明治26年(1893年)から玩具図録『うなゐの友』を発刊し10集まで続く。明治29年(1896年)から三村竹清林若樹奥村繁次郎らが主催していた「集古会」に参加し、世話人をつとめる。明治42年(1909年)に西澤仙湖の「大供会」に参加。大正2年(1913年)の2月に卒倒し、病床からふたたび立てず遺言で蒐集物をすべて分配することを遺言し逝去する。辞世は「今の世の玩具博士の晴風も 死ねば子供に帰る故郷」。墓は本妙寺にある。

集古會」 明治29年(1896)に創立された在野の骨董品、古書画の研究会。坪井正五郎(1863 - 1913)、林若吉(1875 - 1938)、山中共古(1850 - 1928)、清水晴風(1851 - 1913)ら官民の当 時の代表的な文化人が参加した。「集古會は好古家の集合会にて創立より本年まて11ヵ年をつゝけし名物の集會なり」と記載があり、「蒐集展覧し談笑娯樂の間に互に其智識を交換するを以て目的としたる會合にして會員は會費として1か可ヵ年金壹圓二十錢(地方會員同金六拾錢)を納むれは毎會に出席し並に本會發行集古會誌(年5回發行)の頒布を得べし 東京市麹町區下2番町40番地林方 集古會事務所」と記された、集古會の案内の一部が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「集古會」より抜粋[1]

著書

脚注

  1. ^ 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「集古會」国立国会図書館蔵書、2018年2月9日閲覧

参考文献