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'''小大君'''(こおおきみ、[[天慶]]3年([[940年]])から[[天暦]]4年([[950年]]) - [[寛弘]]2年([[1005年]])もしくは寛弘8年([[1011年]])頃<ref>藤原朝光と恋愛関係にあったのは、『小大君集』の詞書から、朝光が[[近衛府|右少将]]だった[[天禄]]元年([[970年]])12月10日から、[[蔵人]]に転ずる天禄4年([[973年]])正月8日までに限定される。当時、小大君は20代から30歳頃だったと推測できることから、生年を逆算。また、[[源頼光]]が[[美濃守]]任官期([[長保]]3年([[1001年]])から寛弘2年(1005年))に小大君は歌を贈っている。更に三条天皇が東宮だったのは、[[寛和]]2年([[986年]])から寛弘8年(1011年)までで、この頃まで生きていたのは確実である。</ref>)は、[[平安時代]]中期の女流[[歌人]]。系譜が伝わらず父母については不明である<ref>陽明文庫本『後拾遺和歌集』勘物によると、父を[[重明親王]]・母を[[藤原忠平]]の娘とするが、確証はない(『新編 日本古典文学全集 栄花物語1』小学館、1995年、224頁)</ref>。[[三十六歌仙]]、および[[女房三十六歌仙]]の一人。 |
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はじめ[[円融天皇]]の中宮[[藤原媓子]]に女房として仕え、のち[[三条天皇]](居貞親王)の[[東宮]]時代に下級の女房である女蔵人(にょくろうど)として仕え、'''東宮左近'''とも称された。[[藤原朝光]]と恋愛関係があったほか、[[平兼盛]]・[[藤原実方]]・[[藤原公任]]などとの贈答歌がある。 |
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『[[拾遺和歌集]]』(3首)以下の[[勅撰和歌集]]に20首が入集し<ref>『勅撰作者部類』</ref>、特に『[[後拾遺和歌集]]』では巻頭歌として採られている。家集に『小大君集』がある。散逸家集『麗華集』の断簡「[[香紙切]]」や、三十六人集の断簡「御蔵切」の筆者に擬せられているものの、研究の進展でこれらは[[院政期]]の筆跡と考えられている。 |
『[[拾遺和歌集]]』(3首)以下の[[勅撰和歌集]]に20首が入集し<ref>『勅撰作者部類』</ref>、特に『[[後拾遺和歌集]]』では巻頭歌として採られている。家集に『小大君集』がある。散逸家集『麗華集』の断簡「[[香紙切]]」や、三十六人集の断簡「御蔵切」の筆者に擬せられているものの、研究の進展でこれらは[[院政期]]の筆跡と考えられている。 |
2020年7月3日 (金) 06:19時点における版


小大君(こおおきみ、天慶3年(940年)から天暦4年(950年) - 寛弘2年(1005年)もしくは寛弘8年(1011年)頃[1])は、平安時代中期の女流歌人。系譜が伝わらず父母については不明である[2]。三十六歌仙、および女房三十六歌仙の一人。
はじめ円融天皇の中宮藤原媓子に女房として仕え、のち三条天皇(居貞親王)の東宮時代に下級の女房である女蔵人(にょくろうど)として仕え、東宮左近とも称された。藤原朝光と恋愛関係があったほか、平兼盛・藤原実方・藤原公任などとの贈答歌がある。
『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に20首が入集し[3]、特に『後拾遺和歌集』では巻頭歌として採られている。家集に『小大君集』がある。散逸家集『麗華集』の断簡「香紙切」や、三十六人集の断簡「御蔵切」の筆者に擬せられているものの、研究の進展でこれらは院政期の筆跡と考えられている。
脚注
- ^ 藤原朝光と恋愛関係にあったのは、『小大君集』の詞書から、朝光が右少将だった天禄元年(970年)12月10日から、蔵人に転ずる天禄4年(973年)正月8日までに限定される。当時、小大君は20代から30歳頃だったと推測できることから、生年を逆算。また、源頼光が美濃守任官期(長保3年(1001年)から寛弘2年(1005年))に小大君は歌を贈っている。更に三条天皇が東宮だったのは、寛和2年(986年)から寛弘8年(1011年)までで、この頃まで生きていたのは確実である。
- ^ 陽明文庫本『後拾遺和歌集』勘物によると、父を重明親王・母を藤原忠平の娘とするが、確証はない(『新編 日本古典文学全集 栄花物語1』小学館、1995年、224頁)
- ^ 『勅撰作者部類』