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「常盤井宮恒明親王」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[乾元 (日本)|乾元]]2年([[1303年]])[[親王宣下]]。幼い頃は年上の甥にあたる尊治親王(後の[[後醍醐天皇]])とともに、父・亀山法皇の寵愛を受けて育てられる。[[嘉元]]3年([[1305年]])亀山法皇が病死するが、遺詔でその財産の多くを恒明親王に与えた上に、自分の孫に当たる[[後二条天皇]]に対しては次の[[大覚寺統]]の皇位は天皇の嫡男・[[邦良親王]]ではなく、恒明親王を立てるように命じた。恒明親王の母・[[昭訓門院]]の兄で[[関東申次]]であった[[西園寺公衡]]は直ちに[[鎌倉幕府]]にこの旨を伝え、もう一人の妹である[[西園寺しょう子|永福門院]]の夫である[[持明院統]]の[[伏見天皇|伏見上皇]]の協力を求めた。伏見上皇も自分の息子である[[後伏見天皇]]を無理やり皇位から降ろさせた[[後宇多天皇|後宇多上皇]](亀山法皇の子で[[後二条天皇]]・尊治親王の父、当時[[院政]]を行っていた)への反感から、これに同意する姿勢を幕府に伝えた。だが、幕府は[[大覚寺統]]の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には同意しなかった。
[[乾元 (日本)|乾元]]2年([[1303年]])[[親王宣下]]。幼い頃は年上の甥にあたる尊治親王(後の[[後醍醐天皇]])とともに、父・亀山法皇の寵愛を受けて育てられる。[[嘉元]]3年([[1305年]])亀山法皇が病死するが、遺詔でその財産の多くを恒明親王に与えた上に、自分の孫に当たる[[後二条天皇]]に対しては次の[[大覚寺統]]の皇位は天皇の嫡男・[[邦良親王]]ではなく、恒明親王を立てるように命じた。恒明親王の母・[[昭訓門院]]の兄で[[関東申次]]であった[[西園寺公衡]]は直ちに[[鎌倉幕府]]にこの旨を伝え、もう一人の妹である[[西園寺子|永福門院]]の夫である[[持明院統]]の[[伏見天皇|伏見上皇]]の協力を求めた。伏見上皇も自分の息子である[[後伏見天皇]]を無理やり皇位から降ろさせた[[後宇多天皇|後宇多上皇]](亀山法皇の子で[[後二条天皇]]・尊治親王の父、当時[[院政]]を行っていた)への反感から、これに同意する姿勢を幕府に伝えた。だが、幕府は[[大覚寺統]]の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には同意しなかった。


[[徳治]]3年([[1308年]])に後二条天皇が急死すると、幕府は邦良親王の成長までの中継ぎの天皇になるべき親王を大覚寺統から選ぶ事を認めたが、それは恒明ではなく当時の[[院政]]執行者であった後宇多上皇が推した[[後醍醐天皇|尊治親王]]であり、この時点で恒明親王の皇位継承の可能性は絶たれた。なお、この件で後宇多上皇と完全に対立関係に陥った[[西園寺公衡]]は、上皇から出仕停止の扱いを受けてしまった。同時に大覚寺統側からその政治的立場に疑いを持たれるに至り、関東申次職を背景に[[朝廷]]内で隠然たる力を振るっていた[[西園寺家]]はその政治的求心力を大きく損なう事になった。
[[徳治]]3年([[1308年]])に後二条天皇が急死すると、幕府は邦良親王の成長までの中継ぎの天皇になるべき親王を大覚寺統から選ぶ事を認めたが、それは恒明ではなく当時の[[院政]]執行者であった後宇多上皇が推した[[後醍醐天皇|尊治親王]]であり、この時点で恒明親王の皇位継承の可能性は絶たれた。なお、この件で後宇多上皇と完全に対立関係に陥った[[西園寺公衡]]は、上皇から出仕停止の扱いを受けてしまった。同時に大覚寺統側からその政治的立場に疑いを持たれるに至り、関東申次職を背景に[[朝廷]]内で隠然たる力を振るっていた[[西園寺家]]はその政治的求心力を大きく損なう事になった。

2020年7月3日 (金) 06:17時点における版

常盤井宮恒明親王
続柄 亀山天皇皇子

全名 恒明(つねあき/つねあきら)
身位 一品・親王
敬称 殿下
出生 嘉元元年旧5月9日1303年6月24日
死去 正平6年旧9月6日1351年9月26日)(享年49)
子女 常盤井宮全仁親王
尊守法親王
深勝
聖珍
尊信法親王
慈明
恒鎮法親王
恒助法親王
乗朝法親王
恒守法親王
仁誉法親王
桑朝法親王
尊観法親王
父親 亀山天皇
母親 西園寺瑛子
役職 中務卿
式部卿
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常盤井宮 恒明親王(ときわいのみや つねあきしんのう/-つねあきらしんのう、嘉元元年旧5月9日1303年6月24日) - 正平6年旧9月6日1351年9月26日))は、南北朝時代皇族亀山法皇の末子(七男)。官位一品式部卿常磐井宮/常盤井宮初代。宮号は亀山法皇から譲られた邸宅の常磐井殿の名称に由来する。

生涯

乾元2年(1303年親王宣下。幼い頃は年上の甥にあたる尊治親王(後の後醍醐天皇)とともに、父・亀山法皇の寵愛を受けて育てられる。嘉元3年(1305年)亀山法皇が病死するが、遺詔でその財産の多くを恒明親王に与えた上に、自分の孫に当たる後二条天皇に対しては次の大覚寺統の皇位は天皇の嫡男・邦良親王ではなく、恒明親王を立てるように命じた。恒明親王の母・昭訓門院の兄で関東申次であった西園寺公衡は直ちに鎌倉幕府にこの旨を伝え、もう一人の妹である永福門院の夫である持明院統伏見上皇の協力を求めた。伏見上皇も自分の息子である後伏見天皇を無理やり皇位から降ろさせた後宇多上皇(亀山法皇の子で後二条天皇・尊治親王の父、当時院政を行っていた)への反感から、これに同意する姿勢を幕府に伝えた。だが、幕府は大覚寺統の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には同意しなかった。

徳治3年(1308年)に後二条天皇が急死すると、幕府は邦良親王の成長までの中継ぎの天皇になるべき親王を大覚寺統から選ぶ事を認めたが、それは恒明ではなく当時の院政執行者であった後宇多上皇が推した尊治親王であり、この時点で恒明親王の皇位継承の可能性は絶たれた。なお、この件で後宇多上皇と完全に対立関係に陥った西園寺公衡は、上皇から出仕停止の扱いを受けてしまった。同時に大覚寺統側からその政治的立場に疑いを持たれるに至り、関東申次職を背景に朝廷内で隠然たる力を振るっていた西園寺家はその政治的求心力を大きく損なう事になった。

文保2年(1318年元服。文保3年(1319年中務卿に任ぜられたのち、式部卿を経て、嘉暦2年(1327年)二品に叙される。その後、後醍醐天皇(かつての尊治親王)の側近として、建武の新政でも元弘4年(1334年一品中務卿、建武2年(1335年式部卿に叙任される一方で、持明院統皇族とも親密な関係を保った。後醍醐天皇が吉野に移った後も、持明院統側の説得を受けてそのまま平安京に留まったまま、正平6年(1351年)9月6日薨去享年49。

系譜

  • 父:亀山天皇
  • 母:西園寺瑛子(昭訓門院) - 西園寺実兼の娘
  • 妻:不詳
    • 男子:全仁親王(1320-1367)
    • 男子:尊守法親王
    • 男子:深勝(?-1400)
    • 男子:聖珍
    • 男子:尊信法親王
    • 男子:慈明
    • 男子:恒鎮法親王(?-1372)
    • 男子:恒助法親王
    • 男子:乗朝法親王
    • 男子:恒守法親王
    • 男子:仁誉法親王
    • 男子:桑朝法親王
    • 男子:尊観法親王?(1349-1400) - 時宗第12代遊行上人

関連項目

外部リンク