「風雅和歌集」の版間の差分
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学芸諸般に優れた[[花園天皇|花園院]]の監修のもと、[[光厳天皇|光厳院]]が親撰。[[正親町公蔭]]([[京極為兼]]の養子)・[[藤原為基]]・[[冷泉為秀]]らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、[[二十一代集]]の中でも特異な集。『[[園太暦]]』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 |
学芸諸般に優れた[[花園天皇|花園院]]の監修のもと、[[光厳天皇|光厳院]]が親撰。[[正親町公蔭]]([[京極為兼]]の養子)・[[藤原為基]]・[[冷泉為秀]]らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、[[二十一代集]]の中でも特異な集。『[[園太暦]]』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。 |
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[[持明院統]]の天皇による勅撰集では『玉葉集』に次ぎ、完成された京極派の歌風を継承する。前期京極派の庇護者兼主将、[[伏見天皇|伏見院]](85首)と[[西園寺 |
[[持明院統]]の天皇による勅撰集では『玉葉集』に次ぎ、完成された京極派の歌風を継承する。前期京極派の庇護者兼主将、[[伏見天皇|伏見院]](85首)と[[西園寺鏱子|永福門院]](68首)を筆頭に、上位入集歌人は花園院(54首)・京極為兼(52首)・[[京極為子|藤原為子]](39首)の順に並ぶ。花園院のほか、[[後伏見天皇|後伏見院]]・光厳院・[[徽安門院]]ら後期京極派の代表歌人も30首以上の入集を果たした。なお前代歌人では[[紀貫之]]・[[藤原俊成|俊成]]・[[藤原定家|定家]]・[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]らが勅撰集の慣例に沿って尊重されている。 |
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玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 |
玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。 |
2020年7月3日 (金) 06:17時点における版
『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各三巻に増大した代わり、雑歌を玉葉の五巻から三巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各三巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。
貞和2年(1346年)頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。
学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・藤原為基・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。
持明院統の天皇による勅撰集では『玉葉集』に次ぎ、完成された京極派の歌風を継承する。前期京極派の庇護者兼主将、伏見院(85首)と永福門院(68首)を筆頭に、上位入集歌人は花園院(54首)・京極為兼(52首)・藤原為子(39首)の順に並ぶ。花園院のほか、後伏見院・光厳院・徽安門院ら後期京極派の代表歌人も30首以上の入集を果たした。なお前代歌人では紀貫之・俊成・定家・後鳥羽院らが勅撰集の慣例に沿って尊重されている。
玉葉・風雅は共に清新自然な風体を特色とするが、風雅集においてその純度は一層高く、繊細な自然観照と深沈な心境の描写を本領とし、南北朝の乱世に生きる人々の感慨を映している。閑寂な境界を現出した冬歌や、内省的な述懐歌に秀歌が多く、恋歌にさえ孤独な哀感が漂う。
玉葉集同様に笠間書院に、国文学者岩佐美代子による全注釈(上中下巻)と、岩佐編で次田香澄『玉葉集風雅集攷』がある。また井上宗雄校注・訳で、小学館の『新編日本古典文学全集49 中世和歌集』に抄録されている。