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[[東京市]][[麹町区]][[隼町]]に、[[佐賀藩]]士・蒲原忠蔵、石川ツネ(1879年入籍、のち離婚)の子として生れた。地名にちなみ隼雄と名付けられた。生まれつき体が弱かった。平河小学校(現・[[千代田区立麹町小学校]])、東京府尋常中学校(現・[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]])を卒業し、第一高等中学校(のちの[[第一高等学校 (旧制)|一高]])を受験したが失敗。[[国民英学会]]で学び、卒業後[[小林存]]や[[山岸荷葉]]らと同人雑誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。
[[東京市]][[麹町区]][[隼町]]に、[[佐賀藩]]士・蒲原忠蔵、石川ツネ(1879年入籍、のち離婚)の子として生れた。地名にちなみ隼雄と名付けられた。生まれつき体が弱かった。平河小学校(現・[[千代田区立麹町小学校]])、東京府尋常中学校(現・[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]])を卒業し、第一高等中学校(のちの[[第一高等学校 (旧制)|一高]])を受験したが失敗。[[国民英学会]]で学び、卒業後[[小林存]]や[[山岸荷葉]]らと同人雑誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。


[[読売新聞]]の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する。[[谷小波]]の木曜会に顔を出すようになり、[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ|D.G.ロセッティ]]の訳詩や、新体詩集『草わかば』を出版した。さらに[[上田敏]]の訳詩に強く影響を受け、『独絃哀歌』『春鳥集』を刊行し[[象徴主義]]を謳歌。このころ[[青木繁]]と親交を結ぶ。
[[読売新聞]]の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する。[[谷小波]]の木曜会に顔を出すようになり、[[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ|D.G.ロセッティ]]の訳詩や、新体詩集『草わかば』を出版した。さらに[[上田敏]]の訳詩に強く影響を受け、『独絃哀歌』『春鳥集』を刊行し[[象徴主義]]を謳歌。このころ[[青木繁]]と親交を結ぶ。


1908年に刊行した『[[有明集]]』で象徴詩手法を確立し、[[薄田泣菫]]と併称された。だがすでに時代は[[自然主義文学|自然主義]]の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正以後は文壇を離れ、詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や[[散文詩]]の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。
1908年に刊行した『[[有明集]]』で象徴詩手法を確立し、[[薄田泣菫]]と併称された。だがすでに時代は[[自然主義文学|自然主義]]の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正以後は文壇を離れ、詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や[[散文詩]]の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。

2020年7月3日 (金) 06:14時点における版

蒲原有明

蒲原 有明(かんばら ありあけ、1875年明治8年)3月15日 - 1952年昭和27年)2月3日)は、日本詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生まれ。

D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として『独絃哀歌』 『春鳥集』有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋三木露風らに影響を与えた。

生涯

東京市麹町区隼町に、佐賀藩士・蒲原忠蔵、石川ツネ(1879年入籍、のち離婚)の子として生れた。地名にちなみ隼雄と名付けられた。生まれつき体が弱かった。平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府尋常中学校(現・都立日比谷高校)を卒業し、第一高等中学校(のちの一高)を受験したが失敗。国民英学会で学び、卒業後小林存山岸荷葉らと同人雑誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。

読売新聞の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する。巖谷小波の木曜会に顔を出すようになり、D.G.ロセッティの訳詩や、新体詩集『草わかば』を出版した。さらに上田敏の訳詩に強く影響を受け、『独絃哀歌』『春鳥集』を刊行し象徴主義を謳歌。このころ青木繁と親交を結ぶ。

1908年に刊行した『有明集』で象徴詩手法を確立し、薄田泣菫と併称された。だがすでに時代は自然主義の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正以後は文壇を離れ、詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や散文詩の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。

1919年に鎌倉に移り、関東大震災後は静岡へ移転。この際改修した自宅は貸家とし、1945年から1年間川端康成が泊まっていた。敗戦後は鎌倉に戻った。自伝『夢は呼び交わす』を刊行後の1948年、日本芸術院会員に選ばれる。1952年2月3日、急性肺炎のため鎌倉の自宅で死去した。77歳没。戒名は龍徳院宏文有明居士[1]。墓は港区元麻布・賢宗寺にある[1]

著作

  • 草わかば(1902年1月、新声社)。オンデマンド版、平凡社、2009年3月
  • 独絃哀歌(1903年5月、白鳩社)。オンデマンド版、平凡社、2009年3月
  • 春鳥集(1905年7月、本郷書院)
  • 有明集(1908年1月、易風社)。「名著複刻全集近代文学館」、ほるぷ、1983年ほか
  • 有明詩集 アルス 1922
  • 有明詩抄 岩波文庫 1928、新装復刊1994・2010ほか
  • 随筆 飛雲抄 書物展望社 1938。復刻版「近代作家研究叢書」日本図書センター 1989
  • 野ざらしの夢 生活社〈日本叢書〉1946
  • 夢は呼び交す-黙子覚書 東京出版 1947
  • 有明全詩抄 酣燈社〈詩人全書〉1950
  • 蒲原有明全詩集 創元社〈創元選書〉 1952
  • 蒲原有明詩集 新潮文庫1952。矢野峰人
  • 蒲原有明詩集 角川文庫1953。野田宇太郎編
  • 定本 蒲原有明全詩集 河出書房1957。同刊行会編
  • 蒲原有明詩集 思潮社〈現代詩文庫〉1976
  • 夢は呼び交す 岩波文庫1984、新装復刊2000。竹盛天雄注・野田宇太郎解説
  • 近代浪漫派文庫15 蒲原有明/薄田泣菫新学社 2007
    • 蒲原有明詩抄・ロセッティ訳詩・飛雲抄

脚注

  1. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)112頁

関連項目

外部リンク