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寛治8年([[1094年]])正月10日に[[糖尿病|飲水病]]により[[崩御#卒去|卒去]]<ref name="a">『[[尊卑分脈]]』道隆流</ref><ref name="b">『中右記』寛治8年正月10日条</ref>。[[享年]]54。最終官位は正四位上行修理権大夫播磨守。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
2020年6月26日 (金) 23:29時点における版
時代 | 平安時代中期-後期 |
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生誕 | 長久2年(1041年) |
死没 | 寛治8年正月10日(1094年1月28日) |
官位 | 正四位下、播磨守 |
主君 | 後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家道隆流 |
父母 | 父:藤原経輔、母:藤原資業の娘 |
兄弟 | 師家、長房、師基、師信、家平、増誉、文時、他 |
妻 |
藤原頼宗の娘、藤原良綱の娘 増守の娘 |
子 | 公衡、基信、経忠、春円 |
藤原 師信(ふじわら の もろのぶ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。権大納言・藤原経輔の四男。官位は正四位下・播磨守。
経歴
寛治2年(1088年)行幸によって勧賞されて正四位下に叙され[1]同年、丹後守に任ぜられる[2]。寛治3年(1089年)内蔵頭として賀茂臨時祭の記事に名がある[3]。寛治5年(1091年)播磨守を兼ねる。寛治6年(1092年)公卿議の間、東方に赤雲が有った際、師信が夢想があったと告げている[4]。寛治7年(1093年)殿上人となり、同年2月に郁芳門院院別当に任ぜられる[5]。その後、正四位上に昇り、修理権大夫を務める。
寛治8年(1094年)正月10日に飲水病により卒去[6][7]。享年54。最終官位は正四位上行修理権大夫播磨守。
媞子内親王の院別当を務めた際、『執行万事』と評されている[7]。
系譜
- 父:藤原経輔
- 母:藤原資業の娘[8]
- 妻:藤原頼宗の娘
- 男子:藤原公衡(?-?)
- 妻:藤原良綱の娘
- 男子:藤原基信(?-?)
- 妻:安楽寺別当増守の娘[9](または増秀[10][11])
- 男子:藤原経忠(1075-1138)
- 妻:不詳
- 男子:春円(または春国[6])
師信自身は正四位上に留まり公卿に昇っていないが、子の経忠や孫の忠能を始め、多くの公卿が出ている。また、坊門家や羽林家の水無瀬家、さらに支流として七条家、町尻家、桜井家、山井家など、多くの堂上家を輩出した。