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[[天治]]2年([[1125年]])[[叙爵]]。[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]])に[[阿波国#国司|阿波守]]に任ぜられて以降、[[能登国]]・[[因幡国]]・[[武蔵国]]・[[土佐国]]・[[讃岐国]]等の[[国司]]や大宰大弐といった地方官を歴任する。[[保元]]元年([[1156年]])には讃岐守の職にあり、同年の[[保元の乱]]の後讃岐へと[[流罪]]になった[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の護送を担当した。
[[天治]]2年([[1125年]])[[叙爵]]。[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]])に[[阿波国#国司|阿波守]]に任ぜられて以降、[[能登国]]・[[因幡国]]・[[武蔵国]]・[[土佐国]]・[[讃岐国]]等の[[国司]]や大宰大弐といった地方官を歴任する。[[保元]]元年([[1156年]])には讃岐守の職にあり、同年の[[保元の乱]]の後讃岐へと[[流罪]]になった[[崇徳天皇|崇徳上皇]]の護送を担当した。


保元4年([[1159年]])正月[[従三位]]に叙せられて公卿に列し、2月には室が[[乳母]]を務めていた[[しゅ子内親王|姝子内親王]](高松院)が[[二条天皇]]の[[中宮]]に冊立されると、[[中宮職|中宮亮]]に任ぜられる。[[応保]]2年([[1162年]])8月2日出家、8月23日薨去。享年49。
保元4年([[1159年]])正月[[従三位]]に叙せられて公卿に列し、2月には室が[[乳母]]を務めていた[[姝子内親王]](高松院)が[[二条天皇]]の[[中宮]]に冊立されると、[[中宮職|中宮亮]]に任ぜられる。[[応保]]2年([[1162年]])8月2日出家、8月23日薨去。享年49。


娘・兼子が[[九条兼実]]の室となり、[[九条良通|良通]]・[[九条良経|良経]]を生み、[[摂家|摂関家]]とも良好な関係を築いた(この縁により良経は高松院の[[猶子]]となっている)。歌舞音曲に通じ、父・敦兼と同様に[[篳篥]]をよくしたことが伝えられている。また[[和歌]]にも秀で、[[千載和歌集]]に1首が入集している。
娘・兼子が[[九条兼実]]の室となり、[[九条良通|良通]]・[[九条良経|良経]]を生み、[[摂家|摂関家]]とも良好な関係を築いた(この縁により良経は高松院の[[猶子]]となっている)。歌舞音曲に通じ、父・敦兼と同様に[[篳篥]]をよくしたことが伝えられている。また[[和歌]]にも秀で、[[千載和歌集]]に1首が入集している。

2020年6月26日 (金) 23:21時点における版

 
藤原季行
時代 平安時代後期 - 末期
生誕 永久2年(1114年
死没 応保2年8月23日1162年10月3日
別名 讃岐三位
官位 従三位大宰大弐
主君 崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家道綱流
父母 父:藤原敦兼、母:藤原顕季の娘
兄弟 実家季兼藤原成通室、季行季家、兼円、仁顕、玄操、藤原顕盛
源重子(源行遠の娘)、藤原宗能の娘
重季定能能季定行、覚乗、玄李、兼子
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藤原 季行(ふじわら の すえゆき)は、平安時代後期から末期にかけての公卿藤原北家道綱流、刑部卿藤原敦兼の三男。官位従三位大宰大弐

経歴

天治2年(1125年叙爵大治5年(1130年)に阿波守に任ぜられて以降、能登国因幡国武蔵国土佐国讃岐国等の国司や大宰大弐といった地方官を歴任する。保元元年(1156年)には讃岐守の職にあり、同年の保元の乱の後讃岐へと流罪になった崇徳上皇の護送を担当した。

保元4年(1159年)正月従三位に叙せられて公卿に列し、2月には室が乳母を務めていた姝子内親王(高松院)が二条天皇中宮に冊立されると、中宮亮に任ぜられる。応保2年(1162年)8月2日出家、8月23日薨去。享年49。

娘・兼子が九条兼実の室となり、良通良経を生み、摂関家とも良好な関係を築いた(この縁により良経は高松院の猶子となっている)。歌舞音曲に通じ、父・敦兼と同様に篳篥をよくしたことが伝えられている。また和歌にも秀で、千載和歌集に1首が入集している。

系譜

後世、その子孫から楊梅家・二条家・平松家の3堂上家を出したが、いずれも室町時代に断絶している。しかし、兼実に嫁いだ兼子を通して女系では現在も子孫が多数存在している。