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2020年6月26日 (金) 23:21時点における版
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 元永元年(1118年) |
死没 | 承安5年2月27日(1175年3月21日) |
別名 | 久我内大臣 |
墓所 | 京都府京都市伏見区久我本町の久我家墓所御墓山 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 村上源氏久我流 |
父母 |
父:源顕通、母:源能俊の娘 養父:源雅定 |
兄弟 | 明雲、雅通、藤原親隆室 |
妻 |
藤原家保の娘 妾:美福門院女房(藤原行兼または藤原長信の娘) |
子 | 雅縁、明雅、通親、雅平、通望、通資、藤原実守室、三条殿 |
源 雅通(みなもと の まさみち)は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏久我流、権大納言・源顕通の次男。官位は正二位・内大臣。久我家3代。
経歴
幼少時に父を失い、叔父の右大臣源雅定の養嗣子となる。兵部権大輔・近江権介・皇后宮権亮・備後権守などを歴任し、久寿2年(1155年)大嘗会国司賞として従三位となる。また、奨学院別当・検非違使別当なども務めた。正二位・内大臣まで昇進したが、嘉応元年(1169年)以降は病気になり、承安5年(1175年)に久我別荘にて薨御。享年58。
歌人としては、『千載和歌集』以下の勅撰集に10首入集する他、『続詞花集』などの私撰集にも入集がある。
年譜
※月日は旧暦。
和暦 | 西暦 | 月日 | 事柄 |
---|---|---|---|
元永元年 | 1118年 | 生誕。 | |
大治4年 | 1129年 | 1月7日 | 叙爵。 |
長承3年 | 1134年 | 4月2日 | 兵部権大輔に任官。 |
保延2年 | 1136年 | 10月29日 | 昇殿。 |
保延4年 | 1138年 | 1月5日 | 従五位上に昇叙。 |
10月17日 | 正五位下に昇叙。 | ||
保延6年 | 1140年 | 4月20日 | 左近衛少将に遷任。 |
永治元年 | 1141年 | 1月29日 | 近江権介を兼任。 |
12月27日 | 皇后宮権亮を兼任(皇后宮は藤原得子)。 | ||
康治元年 | 1142年 | 1月5日 | 従四位下に昇叙。 |
2月 | 従四位上に昇叙。 | ||
4月8日 | 還昇し、禁色を聴される。 | ||
11月14日 | 正四位下に昇叙。 | ||
天養元年 | 1144年 | 1月24日 | 左近衛権中将に転任。 |
久安2年 | 1146年 | 1月22日 | 近江権介を兼任。 |
久安5年 | 1149年 | 6月 | 服解(母の死没) |
8月3日 | 皇后宮権亮を停任。 | ||
久安6年 | 1150年 | 1月29日 | 中将を去って参議に転任。 |
12月12日 | 侍従を兼任。 | ||
仁平元年 | 1151年 | 2月2日 | 備後権守を兼任。 |
仁平2年 | 1152年 | 1月28日 | 右兵衛督を兼任し、侍従を停任。 |
久寿元年 | 1154年 | 9月11日 | 奨学院別当に補任。 |
久寿2年 | 1155年 | 11月20日 | 近江権守に遷任。 |
11月22日 | 従三位に昇叙。 | ||
保元元年 | 1156年 | 9月13日 | 権中納言に転任。 |
9月17日 | 左兵衛督に転任。 | ||
保元2年 | 1157年 | 8月21日 | 正三位に昇叙。 |
保元3年 | 1158年 | 2月21日 | 右衛門督に転任し、検非違使別当に補任。 |
5月21日 | 左衛門督に転任。 | ||
11月8日 | 左衛門督・検非違使別当を辞任。 | ||
永暦元年 | 1160年 | 1月21日 | 中宮権大夫を兼任(中宮は姝子内親王)。 |
3月2日 | 勅授帯剣を聴される。 | ||
8月11日 | 権大納言に転任し、中宮権大夫如元。 | ||
10月11日 | 従二位に昇叙。 | ||
応保元年 | 1161年 | 2月28日 | 正二位に昇叙。 |
6月1日 | 淳和院別当に補任。 | ||
8月17日 | 中宮大夫に転任。 | ||
9月13日 | 大納言に転任し、中宮大夫如元。 | ||
応保2年 | 1162年 | 2月5日 | 中宮大夫を停任。 |
5月27日 | 服解(養父の薨去)。 | ||
9月13日 | 復任。 | ||
仁安2年 | 1167年 | 8月10日 | 伊勢大神宮奉行に補任。 |
仁安3年 | 1168年 | 3月20日 | 皇太后宮大夫を兼任(皇太后宮は平滋子)。 |
8月4日 | 任大臣兼宣旨を蒙る。 | ||
8月10日 | 内大臣に転任。 | ||
8月12日 | 右近衛大将を兼任。 | ||
11月21日 | 右近衛大将を停任(五節帳台試に不参のため)。 | ||
12月16日 | 右近衛大将に還任。 | ||
嘉応元年 | 1169年 | 1月2日 | 右馬寮御監を兼任。 |
承安2年 | 1172年 | 6月7日 | 公卿勅使として伊勢国に下向。 |
承安4年 | 1174年 | 7月8日 | 右近衛大将を辞任。 |
承安5年 | 1175年 | 2月27日 | 薨去。享年58。 |
系譜
参考文献
- 国史大辞典編集委員会(編) 『国史大辞典 第13巻』 吉川弘文館、1992年、ISBN 4642005137