「源有仁」の版間の差分
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**女子:西御方(?-1202) - [[姝子内親王|高松院]]女房 |
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**男子:応仁 - 法印 |
**男子:応仁 - 法印 |
2020年6月26日 (金) 23:21時点における版
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康和5年(1103年) |
死没 | 久安3年2月13日(1147年3月16日) |
改名 | 有仁王→源有仁→成覚(法名) |
別名 | 花園左大臣 |
官位 | 従一位・左大臣 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 後三条源氏 |
父母 | 父:輔仁親王、母:源師忠娘 |
兄弟 |
信証、有仁、守子女王、仁子女王、 怡子女王、行恵、仁操 |
妻 | 藤原公実娘、源雅綱娘 |
子 |
西御方、応仁、有子 養子:懿子 |
源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公卿。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。官位は従一位・左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。
経歴
永久3年(1115年)元服。始め白河院の養子となり皇嗣と目されたが、元永2年(1119年)5月に白河院の孫である鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから、同年8月源朝臣姓を与えられて臣籍降下し、直ちに従三位・権右中将に叙任され公卿となる。無位からいきなり三位に叙せられるのは極めて異例であり、嵯峨源氏の源定以来約290年ぶりのことであった。また、この昇進については白河院による有仁の父輔仁親王への配慮であったことが窺われる[1]。同年、堀河・鳥羽両天皇の乳母藤原光子の希望により、藤原公実と光子の間の娘(源有仁室)と結婚した[2]。なお、同年11月には父・輔仁親王が没しているが、その直前に有仁は権中納言に任ぜられている。
早くも翌保安元年(1120年)には上﨟の中納言7名を越えて権大納言に任ぜられると、保安2年(1121年)従二位・右近衛大将、保安3年(1122年)正二位・内大臣に叙任されるなど急速に昇進を果たす。鳥羽院政期に入っても、天承元年(1131年)従一位・右大臣に昇進し、保延2年(1136年)34歳で左大臣に至り、関白・藤原忠通に次ぐ太政官の次席にまで昇った。また、花園離宮を賜って居住したことから花園左大臣と呼ばれた。
晩年は病気により朝廷への出仕が困難な状況であったといい[3]、久安3年(1147年)2月3日に出家して成覚と号するが、同月13日に薨去。享年45。
人物
詩歌・管絃(琵琶・笙)・書に秀で、勅撰歌人として『金葉和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に和歌作品21首が採録されている[4]。また、儀式や故実を集大成し、儀式書『春玉秘抄』『秋玉秘抄』を著している。一方で洒落好みであり、公家の化粧・鉄漿・引眉の風習は、この人より始まると言われる[要出典]。
日記『花園左府記』は80巻にも及ぶものとされる。その逸文は『御産部類記』に天治元年(1124年)3月、5月、6月、天治2年(1125年)4月、5月、6月条が、『園太暦』に大治3年(1128年)正月、永治2年(1142年)4月、康治3年(1144年)4月条が伝わる。
官歴
『公卿補任』による。
- 元永2年(1119年) 8月14日:賜姓源氏列人臣、従三位、右近衛権中将。10月21日:昇殿。11月27日:権中納言兼右近衛中将
- 保安元年(1120年) 12月14日:権大納言(超越上﨟7人)
- 保安2年(1121年) 3月12日:右近衛大将(即饗士卒)。2月29日:正三位(朝観行幸賞、院御給)。12月1日:従二位(行事上卿)
- 保安3年(1122年) 2月10日:正二位。12月5日:蒙任大臣兼宣旨。12月17日:内大臣、右大将如元
- 天承元年(1131年) 12月22日:右大臣、従一位(本階依為内大臣下﨟也)。12月24日:右大将如元
- 長承3年(1134年) 閏12月21日:辞大将、即返給。閏12月27日:又辞之、不許
- 長承4年(1135年) 2月8日:左近衛大将
- 保延2年(1136年) 12月9日:左大臣(宣命)、左大将如元
- 保延5年(1139年) 12月14日:辞幕下(近衛大将)
- 久安3年(1147年) 5月30日:依病辞職。2月3日:出家(前左大臣従一位)。2月13日:薨(法名成覚)
系図
71 後三条天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
72 白河天皇 | 実仁親王 | 輔仁親王 | 篤子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
73 堀河天皇 | 覚行法親王 | 覚法法親王 | 媞子内親王 (郁芳門院) | 源有仁 (有仁王) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
74 鳥羽天皇 | 最雲法親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
75 崇徳天皇 | 77 後白河天皇 | 76 近衛天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜
脚注
参考文献
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年