「ダヴィド・イーゴレヴィチ」の版間の差分
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誕生は1050年代後半と推定されている。父イーゴリは早くに死去したため、[[イズゴイ|イズゴイ・クニャージ]]となり、[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の下で過ごしていたことが判明している。[[1081年]]、同じくイズゴイ・クニャージとなっていた[[ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ|ヴォロダリ]](トムタラカニ公であった父[[ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (トムタラカニ公)|ロスチスラフ]]の死亡後、トムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]を追われていた)と共に、トムタラカニへ向かった。トムタラカニでは[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]の[[ポサードニク]](代官)を追放したが、2年後には自身が[[オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)|オレグ]]に追放された。ダヴィドは[[ドルジーナ]](従士隊)を集め、[[ドニエプル川]]河口で[[ビザンツ帝国]]への交易路(:[[ヴァリャーグからギリシアへの道]])を封鎖した。[[1084年]]にはキエフ大公フセヴォロドから、[[ヴォルィーニ公国]]の都市[[ドロホブージ (リウネ州)|ドロゴブージュ]]を[[分領公国|分領地]]として受領している。[[1086年]]、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ヴォルィーニ]]のヤロポルクが死んだ後に、ダヴィドは[[ヴォルィーニ公国]]を得た。また[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]と協定を結び、[[ガーリチ公国|ガーリチ]]地方の[[ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ|ヴォロダリ]]領[[ペレムィシュリ公国 (プシェムィシル)|ペレムィシュリ公国]]、[[ヴァシリコ・ロスチスラヴィチ|ヴァシリコ]]領[[テレボヴリ公国]](2人の公は兄弟)の奪取を試みていた。[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]では、ダヴィドの[[ヴォルィーニ公国]]領有が承認された。 |
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リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかし[[ブシク|ブジスク]]において、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]にヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。 |
リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかし[[ブシク|ブジスク]]において、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]にヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。 |
2020年6月26日 (金) 23:13時点における最新版
ダヴィド・イーゴレヴィチ Давыд Игоревич | |
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ヴォルィーニ公 | |
ダヴィドの印章 | |
在位 | 1084年 - 1086年、1086年 - 1099年、1099年 - 1100年 |
出生 |
1050年代後半 |
死去 |
1112年5月25日 ドロゴブージュ |
埋葬 | ダヴィド・ハラドク? |
子女 | フセヴォロドコ (ru) |
家名 | リューリク家 |
父親 | スモレンスク公イーゴリ・ヤロスラヴィチ |
ダヴィド・イーゴレヴィチ(ロシア語: Давыд Игоревич、1050年代後半 - 1112年5月25日)は、イーゴリ・ヤロスラヴィチの子、ヤロスラフ・ウラジミロヴィチの孫である。トムタラカニ公(在位:1081年 - 1082年)、ヴォルィーニ公、ルーツク公、ドロゴブージ公。11世紀末のルーシ諸公の内紛に果敢に介入した。
生涯
[編集]誕生は1050年代後半と推定されている。父イーゴリは早くに死去したため、イズゴイ・クニャージとなり、ヤロポルクの下で過ごしていたことが判明している。1081年、同じくイズゴイ・クニャージとなっていたヴォロダリ(トムタラカニ公であった父ロスチスラフの死亡後、トムタラカニ(ru)を追われていた)と共に、トムタラカニへ向かった。トムタラカニではキエフ大公フセヴォロドのポサードニク(代官)を追放したが、2年後には自身がオレグに追放された。ダヴィドはドルジーナ(従士隊)を集め、ドニエプル川河口でビザンツ帝国への交易路(:ヴァリャーグからギリシアへの道)を封鎖した。1084年にはキエフ大公フセヴォロドから、ヴォルィーニ公国の都市ドロゴブージュを分領地として受領している。1086年、ヴォルィーニのヤロポルクが死んだ後に、ダヴィドはヴォルィーニ公国を得た。またスヴャトポルクと協定を結び、ガーリチ地方のヴォロダリ領ペレムィシュリ公国、ヴァシリコ領テレボヴリ公国(2人の公は兄弟)の奪取を試みていた。1097年のリューベチ諸公会議では、ダヴィドのヴォルィーニ公国領有が承認された。
リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかしブジスクにおいて、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公スヴャトポルクにヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。
その後もダヴィドはヴォルィーニをめぐる闘争を続けた。1099年にはポロヴェツ族のハン・ボニャークを味方に引き入れると、ヴャグル川の戦いで勝利し、ヴォルィーニとルーツクを手に入れた。しかし1100年、ウヴェティチ諸公会議(ru)で、ヴァシリコの目をえぐったことを理由にその所有権を剥奪された。ヴォルィーニの代替地として、ヴォルィーニ地方の都市であるブジスク、オストログ、ヅブノ、チャルトルィンスク、後にはさらにドロゴブージュを得た。所領の首都はブジスクに置かれた[1]。
ダヴィドは1112年5月25日にドロゴブージュで死亡した。1937年から翌年にかけての、ダヴィド・ハラドク(ベラルーシ南部の市)の都市基盤の発掘調査中に発見されたクニャージ(公)の墓の遺骨は、ダヴィドのものであると考えられている。
出典
[編集]参考文献
[編集]- Гайдай Л. Історія України в особах, термінах, назвах і поняттях.- Луцьк: Вежа, 2000.
- Довідник з історії України. За ред. І. Підкови та Р. Шуста.- К.: Генеза, 1993.
- А. В. Экземплярский Давид Игоревич // ブロックハウス・エフロン百科事典 - СПб., 1890—1907.
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