コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ダヴィド・イーゴレヴィチ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
31行目: 31行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
誕生は1050年代後半と推定されている。父イーゴリは早くに死去したため、[[イズゴイ|イズゴイ・クニャージ]]となり、[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の下で過ごしていたことが判明している。[[1081年]]、同じくイズゴイ・クニャージとなっていた[[ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ|ヴォロダリ]](トムタラカニ公であった父[[ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (トムタラカニ公)|ロスチスラフ]]の死亡後、トムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]を追われていた)と共に、トムタラカニへ向かった。トムタラカニでは[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]の[[ポサードニク]](代官)を追放したが、2年後には自身が[[オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)|オレグ]]に追放された。ダヴィドは[[ドルジーナ]](従士隊)を集め、[[ドニエプル川]]河口で[[ビザンツ帝国]]への交易路(:[[ヴァリャーグからギリシへの道]])を封鎖した。[[1084年]]にはキエフ大公フセヴォロドから、[[ヴォルィーニ公国]]の都市[[ドロホブージ (リウネ州)|ドロゴブージュ]]を[[分領公国|分領地]]として受領している。[[1086年]]、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ヴォルィーニ]]のヤロポルクが死んだ後に、ダヴィドは[[ヴォルィーニ公国]]を得た。また[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]と協定を結び、[[ガーリチ公国|ガーリチ]]地方の[[ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ|ヴォロダリ]]領[[ペレムィシュリ公国 (プシェムィシル)|ペレムィシュリ公国]]、[[ヴァシリコ・ロスチスラヴィチ|ヴァシリコ]]領[[テレボヴリ公国]](2人の公は兄弟)の奪取を試みていた。[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]では、ダヴィドの[[ヴォルィーニ公国]]領有が承認された。
誕生は1050年代後半と推定されている。父イーゴリは早くに死去したため、[[イズゴイ|イズゴイ・クニャージ]]となり、[[ヤロポルク・イジャスラヴィチ|ヤロポルク]]の下で過ごしていたことが判明している。[[1081年]]、同じくイズゴイ・クニャージとなっていた[[ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ|ヴォロダリ]](トムタラカニ公であった父[[ロスチスラフ・ウラジミロヴィチ (トムタラカニ公)|ロスチスラフ]]の死亡後、トムタラカニ[[:ru:Тмутаракань|(ru)]]を追われていた)と共に、トムタラカニへ向かった。トムタラカニでは[[キエフ大公]][[フセヴォロド1世|フセヴォロド]]の[[ポサードニク]](代官)を追放したが、2年後には自身が[[オレグ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)|オレグ]]に追放された。ダヴィドは[[ドルジーナ]](従士隊)を集め、[[ドニエプル川]]河口で[[ビザンツ帝国]]への交易路(:[[ヴァリャーグからギリシへの道]])を封鎖した。[[1084年]]にはキエフ大公フセヴォロドから、[[ヴォルィーニ公国]]の都市[[ドロホブージ (リウネ州)|ドロゴブージュ]]を[[分領公国|分領地]]として受領している。[[1086年]]、[[ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー|ヴォルィーニ]]のヤロポルクが死んだ後に、ダヴィドは[[ヴォルィーニ公国]]を得た。また[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]と協定を結び、[[ガーリチ公国|ガーリチ]]地方の[[ヴォロダリ・ロスチスラヴィチ|ヴォロダリ]]領[[ペレムィシュリ公国 (プシェムィシル)|ペレムィシュリ公国]]、[[ヴァシリコ・ロスチスラヴィチ|ヴァシリコ]]領[[テレボヴリ公国]](2人の公は兄弟)の奪取を試みていた。[[1097年]]の[[リューベチ諸公会議]]では、ダヴィドの[[ヴォルィーニ公国]]領有が承認された。


リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかし[[ブシク|ブジスク]]において、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]にヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。
リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかし[[ブシク|ブジスク]]において、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公[[スヴャトポルク2世|スヴャトポルク]]にヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。

2020年6月26日 (金) 23:13時点における最新版

ダヴィド・イーゴレヴィチ
Давыд Игоревич
ヴォルィーニ公
ダヴィドの印章
在位 1084年 - 1086年、1086年 - 1099年、1099年 - 1100年

出生 1050年代後半
死去 1112年5月25日
ドロゴブージュ
埋葬 ダヴィド・ハラドク?
子女 フセヴォロドコ (ru)
家名 リューリク家
父親 スモレンスク公イーゴリ・ヤロスラヴィチ
テンプレートを表示

ダヴィド・イーゴレヴィチロシア語: Давыд Игоревич1050年代後半 - 1112年5月25日)は、イーゴリ・ヤロスラヴィチの子、ヤロスラフ・ウラジミロヴィチの孫である。トムタラカニ公(在位:1081年 - 1082年)、ヴォルィーニ公ルーツク公ドロゴブージ公11世紀末のルーシ諸公の内紛に果敢に介入した。

生涯

[編集]

誕生は1050年代後半と推定されている。父イーゴリは早くに死去したため、イズゴイ・クニャージとなり、ヤロポルクの下で過ごしていたことが判明している。1081年、同じくイズゴイ・クニャージとなっていたヴォロダリ(トムタラカニ公であった父ロスチスラフの死亡後、トムタラカニ(ru)を追われていた)と共に、トムタラカニへ向かった。トムタラカニではキエフ大公フセヴォロドポサードニク(代官)を追放したが、2年後には自身がオレグに追放された。ダヴィドはドルジーナ(従士隊)を集め、ドニエプル川河口でビザンツ帝国への交易路(:ヴァリャーグからギリシアへの道)を封鎖した。1084年にはキエフ大公フセヴォロドから、ヴォルィーニ公国の都市ドロゴブージュ分領地として受領している。1086年ヴォルィーニのヤロポルクが死んだ後に、ダヴィドはヴォルィーニ公国を得た。またスヴャトポルクと協定を結び、ガーリチ地方のヴォロダリペレムィシュリ公国ヴァシリコテレボヴリ公国(2人の公は兄弟)の奪取を試みていた。1097年リューベチ諸公会議では、ダヴィドのヴォルィーニ公国領有が承認された。

リューベチ諸公会議では、ヴァシリコのテレボヴリ公国領有も承認されていたが、ダヴィドは会議の決定事項に反し、ヴァシリコを捕らえて目をえぐった。しかしブジスクにおいて、ヴァシリコの兄弟ヴォロダリの軍勢に包囲され、ヴァシリコの解放を余儀なくされた。ダヴィドは一時ポーランドへ逃走したのちヴォルィーニへ帰還したが、キエフ大公スヴャトポルクにヴォルィーニを包囲され、ヴォルィーニの譲渡を余儀なくされた。

その後もダヴィドはヴォルィーニをめぐる闘争を続けた。1099年にはポロヴェツ族ハンボニャークを味方に引き入れると、ヴャグル川の戦いで勝利し、ヴォルィーニとルーツクを手に入れた。しかし1100年、ウヴェティチ諸公会議(ru)で、ヴァシリコの目をえぐったことを理由にその所有権を剥奪された。ヴォルィーニの代替地として、ヴォルィーニ地方の都市であるブジスク、オストログヅブノチャルトルィンスク、後にはさらにドロゴブージュを得た。所領の首都はブジスクに置かれた[1]

ダヴィドは1112年5月25日にドロゴブージュで死亡した。1937年から翌年にかけての、ダヴィド・ハラドク(ベラルーシ南部の市)の都市基盤の発掘調査中に発見されたクニャージ(公)の墓の遺骨は、ダヴィドのものであると考えられている。

出典

[編集]
  1. ^ Історія міста. Буськ.

参考文献

[編集]
  • Гайдай Л. Історія України в особах, термінах, назвах і поняттях.- Луцьк: Вежа, 2000.
  • Довідник з історії України. За ред. І. Підкови та Р. Шуста.- К.: Генеза, 1993.
  • А. В. Экземплярский Давид Игоревич // ブロックハウス・エフロン百科事典 - СПб., 1890—1907.
先代
ロマン
トムタラカニ公
1081年 - 1082年
ヴォロダリと共治)
次代
オレグ
先代
ドロゴブージ公
1084年 - 1086年
次代
先代
ヤロポルク
ヴォルィーニ公
1084年 - 1086年
次代
ヤロポルク
先代
ヤロポルク
ヴォルィーニ公
1086年 - 1099年
次代
ムスチスラフ
先代
ムスチスラフ
ヴォルィーニ公
1099年 - 1100年
次代
ヤロスラフ
先代
ヤロポルク
ルーツク公
1097/9年 - 1100年
次代
ヤロポルク
先代
ドロゴブージ公
1100年 - 1112年
次代