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*「[[山水画]]屏風絵」天保14年(1843年) [[東京国立博物館]]([[森鷗外]]所蔵品) |
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*「赤城大明神尊像」[[嘉永]]元年(1848年) |
*「赤城大明神尊像」[[嘉永]]元年(1848年) |
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2020年6月18日 (木) 11:40時点における版
斉藤 巻石[1](さいとう けんせき、寛政10年(1798年) - 明治7年(1874年)5月)は、江戸時代後期の南画家・大網元。
名は源作。号に巻石・南乙・挙石・白湾漁長・兎山清農・大洋庵主人・拱寿庵主など。上総国山辺郡四天木村(現・千葉県大網白里市)の生まれ。
略歴
九十九里浜の大網元・斉藤四郎右衛門の次男として生まれる。当時、鰯漁が盛んで多くは干鰯に加工され関西方面で農産物の肥料として需要が高かった。このため大網元・斉藤家には巨万の富がもたらされていた。
14歳の時に一宮の中村家の養子となる。このときの様子は「白馬銀鞍に跨がり。供の物数百人を従えた行列」と語り継がれるほどだった。しかし、兄が早世したため、養家を辞して実家の家督を継ぐ。兄の遺児滄海の養父となり、28歳でこの滄海に家督を譲り隠居。本家のある四天木宮脇から離れた海岸に「大洋庵」を建て書画三昧に暮らす。
九十九里浜には多くの文人墨客が遊歴。巻石の大洋庵にも梁川星巌・紅蘭夫妻が滞在している。その他にも椿椿山・高久靄厓・福田半香・高隆古・岡本秋暉・山本梅逸・木下逸雲・瀧和亭・栗本鴻堂など著名な画人が訪れている。
巻石は自らを遊歴人と称して諸国を旅した。天保13年(1842年)、44歳の時に足利を遊歴しその足で椿椿山に入門。64歳から2年あまり越後で過ごし、上野付近に家を構えたが幕末の騒然とした時局だったことで四天木村に戻っている。
晩年、拱寿庵を結び文雅に暮らした。享年77。書状「書置之事」を遺す。瀧和亭の描いた巻石唯一の肖像画は関東大震災で焼失した。
作品
参考文献
- 図録「町史を彩る巨匠たち」大網白里町教育委員会 平成12年(2000年)
脚註
- ^ 斎藤拳石と記述された文献があるが、巻石を読み誤ったためと思われる。