「橋健行」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 森鷗外への記事名変更に伴う変更 - log |
|||
52行目: | 52行目: | ||
== 関連人物 == |
== 関連人物 == |
||
* [[呉秀三]] - 健行と茂吉の師であり、[[松沢病院]](東京府巣鴨病院)の院長であった<ref>斎藤茂吉『呉秀三先生』</ref><ref name="saitou"/>。[[箕作阮甫]]の外孫にあたる呉秀三は、日本の[[精神医学]]の先駆者で、[[森 |
* [[呉秀三]] - 健行と茂吉の師であり、[[松沢病院]](東京府巣鴨病院)の院長であった<ref>斎藤茂吉『呉秀三先生』</ref><ref name="saitou"/>。[[箕作阮甫]]の外孫にあたる呉秀三は、日本の[[精神医学]]の先駆者で、[[森鷗外]]に[[親灸]]し『[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]先生』や『[[華岡青洲]]先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。秀三の長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・[[呉茂一]]である。三島由紀夫は、[[ロンゴス]]作『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』(訳・呉茂一)を藍本とした『[[潮騒 (小説)|潮騒]]』(1954年)の執筆を機に、1955年(昭和30年)頃に[[呉茂一]]から[[ギリシア語]]を学ぶ。1949年(昭和24年)にも東大教授時代の呉茂一の講義を聴講しに行ったという。 |
||
* [[内村祐之]] - [[内村鑑三]]の長男で、[[医学]]を志し、健行や茂吉の後輩にあたる。著書に、自伝『わが歩みし精神医学の道』([[みすず書房]]、1968年)がある。 |
* [[内村祐之]] - [[内村鑑三]]の長男で、[[医学]]を志し、健行や茂吉の後輩にあたる。著書に、自伝『わが歩みし精神医学の道』([[みすず書房]]、1968年)がある。 |
||
* [[蘆原金次郎]](蘆原将軍) - [[東京府]][[巣鴨病院]]([[松沢病院]])に入院していた患者。[[高岡]]出身の元[[櫛職人]]で、将軍を自称して、当時、[[ジャーナリズム]]を大いに賑わしていた。「蘆原将軍」をモデルにした小説に、[[筒井康隆]]の『将軍が目醒めた時』がある。 |
* [[蘆原金次郎]](蘆原将軍) - [[東京府]][[巣鴨病院]]([[松沢病院]])に入院していた患者。[[高岡]]出身の元[[櫛職人]]で、将軍を自称して、当時、[[ジャーナリズム]]を大いに賑わしていた。「蘆原将軍」をモデルにした小説に、[[筒井康隆]]の『将軍が目醒めた時』がある。 |
2020年6月18日 (木) 11:37時点における版
橋 健行(はし けんこう、1884年(明治17年)2月6日 - 1936年(昭和11年)4月18日)は日本の精神科医。医学博士。正五位。
経歴
1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢市で、父・橋健三(漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間に生まれる。生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(橋健堂の五女)に育てられる。 やがて、妹、弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる。
1901年(明治34年)、開成中学校を卒業。同級生に斎藤茂吉がいた。同年、第一高等学校に進学。1904年(明治37年)、第一高等学校を卒業。東京帝国大学医科に進んで精神医学を専攻する。1925年(大正14年)6月、東大精神科付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の講師から副院長に就任[1]。
1926年(大正15年)、学位を授与され、医学博士となる。
1927年(昭和2年)、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)助教授に就任。
1931年(昭和6年)7月から1933年(昭和8年)9月まで、文部省在外研究員として留学。欧米の碩学を歴訪。
1933年(昭和8年)11月、千葉医科大学助教授から教授に就任。1935年(昭和10年)3月、付属医院長を兼任[2]。
1936年(昭和11年)4月18日、肺炎をこじらせ、「ルンゲンガングレン」(肺化膿症のことと思われる)で急逝。 享年52。健行の墓は、故郷・石川県の野田山山頂の「平成墓地乙」にあり、曽祖父・橋一巴、父・橋健三の墓と並んで建っている。そこには、「正五位橋健行墓 正五位醫學博士橋健行」と記されている[3]。
人物
- 三島由紀夫の小説『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、橋健行である[4][5]。
- 歌人・斎藤茂吉とは開成中学校、第一高等学校、東大精神科、松沢病院時代を通じての親友同士であった。斎藤茂吉は健行より2年遅れて医師となった。一高入試に失敗し、東大在学中にチフスで卒業延期となったためである。茂吉によると、健行は秀才であったという。開成中学、一高、東大医科精神病学部と進むが、常に首席であった。斎藤茂吉は『回顧』の中で、「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた」[6]と記している。
- 健行は開成中学3年頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(のちの、日本思想史研究などの歴史学者)をリーダー格とした、吹田順助(のちの、独文学者)ら9名で、「桂蔭会」と称し、廻覧雑誌を作る。彼らの住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、「竹林の七賢」とも称され、周囲に大きな刺激と影響を与える。触発された生徒のなかに斎藤茂吉や辻潤がいたという[7]。
- 開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の協力の下、健行が開成中学の「校友会雑誌」に掲載した文章が明らかとなった。
- 「貴兄も男子の一度決心せられし所に候へば今更彼此申すも反りて兄が前途にも関係を及ぼす事に御座候故不肖は敢へて此の事に就きてはもはや一言をも述べずひたすら兄が奮励刻苦あらせられん事を希期致し候 (『転校したる友人に与ふる文』三級三組 橋健行)」(「校友会雑誌」17号 1899年(明治32年)7月に掲載)
- 「汝が肩には国家あり、汝が頭脳には必世界なかるべからず、且繽粉錯雑せむとする汝が思想はこれをして劃一たらしめざるべからず健々霊妙なる汝が手腕はこれをして発揮せしめざるべらざるなり、盖国家なければ独立を失ひ、世界なければ固陋に流る (『少年は再来せず』二級一組 橋健行)」(「校友会雑誌」20号 1900年(明治33年)3月に掲載)
- 「一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを文士の筆となす ( 『筆』五年生 橋健行)」(「校友会雑誌」22号 1900年(明治33年)12月に掲載)といったものがある。ちなみに、三島由紀夫の小説『花ざかりの森』の一文には、「美は秀麗な奔馬である」というものがある。また、最後の長編小説『豊饒の海』第2巻『奔馬』には、奔馬のように行動に突き進む「勲」という青年が主人公として登場する。
- 健行は、優秀作が掲載される『校友会雑誌』の常連であった。そして、この40年後に『学習院輔仁会雑誌』のスターとなる学習院の文学少年・公威(三島)が出現した。健行の顔は、自負心の強そうな面構えで甥の三島と似ていたという[8][7][9]。
- 健行の死から5年ほど後の1941年(昭和16年)5月、健行の父・橋健三(81歳)が斎藤茂吉の家を訪ね、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼したことが、斎藤茂吉の日記に記されている[6]。墓碑銘には、「橋健行君墓碑 亡き友の 墓碑銘かくと 夜ふけて あぶら汗いづ わが額より 手ふるひつつ 書きをはりたる 墓碑銘を われ一人のみ 見るは悲しも」(斎藤茂吉『霜』に収録)[6]と記されている[10]。
- 斎藤茂吉は健行の死を悼み、のちに健行への挽歌「弔橋健行君 うつせみの わが身も老いてまぼろしに 立ちくる君と手携はらむ」を詠み、これを歌集『暁紅』[6]に収めた。
系譜
- 橋家系図
往来 | 船次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋一巴 | つね | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
健堂 | ふさ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
こう | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋健行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瀬川健三 | 雪子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋正男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トミ | 橋健雄 | 平岡公威(三島由紀夫) | 紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
より | 橋行蔵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ひな | 倭文重 | 杉山瑤子 | 平岡威一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美津子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡梓 | 平岡千之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
関連人物
- 呉秀三 - 健行と茂吉の師であり、松沢病院(東京府巣鴨病院)の院長であった[11][6]。箕作阮甫の外孫にあたる呉秀三は、日本の精神医学の先駆者で、森鷗外に親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。秀三の長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島由紀夫は、ロンゴス作『ダフニスとクロエ』(訳・呉茂一)を藍本とした『潮騒』(1954年)の執筆を機に、1955年(昭和30年)頃に呉茂一からギリシア語を学ぶ。1949年(昭和24年)にも東大教授時代の呉茂一の講義を聴講しに行ったという。
- 内村祐之 - 内村鑑三の長男で、医学を志し、健行や茂吉の後輩にあたる。著書に、自伝『わが歩みし精神医学の道』(みすず書房、1968年)がある。
- 蘆原金次郎(蘆原将軍) - 東京府巣鴨病院(松沢病院)に入院していた患者。高岡出身の元櫛職人で、将軍を自称して、当時、ジャーナリズムを大いに賑わしていた。「蘆原将軍」をモデルにした小説に、筒井康隆の『将軍が目醒めた時』がある。
- 大槻憲二 - 早稲田大学英文科を卒業して、文芸評論のかたわら心理学を研究し、東京精神分析学研究所を創設した。大槻は、フロイトの翻訳と、江戸川乱歩や高橋鐡が参加した「精神分析研究会」を主宰したことで知られる。1941年(昭和16年)9月、三島は東文彦に宛てた書簡に、「大槻憲吉(母の亡兄の友だちださうですが)といふ人の『精神分析読本』をよみ」[12]とある(「憲吉」は三島の誤記で、正しくは「憲二」である)。
脚注
- ^ 宮内充『松沢病院を支えた人たち』(私家版、1985年)
- ^ 『千葉大学医学部八十五年史』(千葉大学医学部創立85周年記念会、1964年)
- ^ 松田章一『精神科医 橋健行』(金沢商工会議所、かなざわ 667号 2010年)
- ^ 三島由紀夫『仮面の告白』(新潮文庫、1950年)、『決定版 三島由紀夫全集第1巻・長編1』(新潮社、2000年)にも収む。
- ^ 〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時間ほどして小水が出た。母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。 『仮面の告白』より)
- ^ a b c d e 『斎藤茂吉全集』)(岩波書店、1974年)に収む。
- ^ a b 吹田順助『旅人の夜の歌』(講談社、1959年)
- ^ 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- ^ 橋健行の文章の詳細は、http://melma.com/backnumber_149567_5335353/にある。
- ^ 「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」(北國新聞、2006年4月15日に掲載)
- ^ 斎藤茂吉『呉秀三先生』
- ^ 『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)
参考文献
- 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- 『千葉大学医学部八十五年史』(千葉大学医学部創立85周年記念会、1964年)
- 宮内充『松沢病院を支えた人たち』(私家版、1985年)
- 吹田順助『旅人の夜の歌 自伝』(講談社、1959年)
- 松本徹・佐藤秀明・井上隆史編『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年)
- 『斎藤茂吉全集』(岩波書店、1974年)
- 本林勝夫『二人の友 橋健行と菅原教造』(雑誌・短歌研究 1971年7 - 8月号)
- 本林勝夫『斎藤茂吉』(桜楓社、1980年)
- 北杜夫『人間とマンボウ』(中央公論新社、1975年)
- 小池光『橋健行の墓』(図書 2004年5月)
- 松田章一『精神科医 橋健行』(金沢商工会議所、かなざわ 667号 2010年)
- 「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」(北國新聞、2006年4月15日に掲載)
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)