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札幌農学校長「非職(諭旨免職)」を経て、[[根本正]]、[[藤田敏郎 (外交官)|藤田敏郎]]等の、墨国([[メキシコ]])の太平洋沿岸視察が始まると、これに参加し、明治27年([[1894年]])にメキシコを探検。[[森 |
札幌農学校長「非職(諭旨免職)」を経て、[[根本正]]、[[藤田敏郎 (外交官)|藤田敏郎]]等の、墨国([[メキシコ]])の太平洋沿岸視察が始まると、これに参加し、明治27年([[1894年]])にメキシコを探検。[[森鷗外]]から「大胆そのものの人物」と称された。帰国後に[[台湾総督府殖産局]]入局。更に明治29年([[1896年]])には[[台北県知事]]となる。 |
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明治28(1895)年に北海道[[伊達市 (北海道)|伊達市]]大滝区の優徳および北湯沢に農場を拓いたのが旧・大滝村の開拓の始まりと伝えられる。<ref>{{Cite news|title=伊達市の概況|newspaper=北海道伊達市|date=2016-7-7|url=http://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/files/00001300/00001323/20160707162133.pdf}}</ref> |
明治28(1895)年に北海道[[伊達市 (北海道)|伊達市]]大滝区の優徳および北湯沢に農場を拓いたのが旧・大滝村の開拓の始まりと伝えられる。<ref>{{Cite news|title=伊達市の概況|newspaper=北海道伊達市|date=2016-7-7|url=http://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/files/00001300/00001323/20160707162133.pdf}}</ref> |
2020年6月18日 (木) 11:35時点における版
橋口 文蔵(はしぐち ぶんぞう、嘉永6年(1853年) - 明治36年(1903年)8月10日)は、明治期の官吏、実業家。札幌農学校長等を歴任。
経歴
薩摩国で薩摩藩士・橋口兼三の長男として生まれる。叔父に樺山資紀、橋口伝蔵、いとこに樺山愛輔がいる。
明治5年(1872年)に慶應義塾に入り、卒業後に開拓使に勤務していたが、官費留学生となり明治12年(1879年)にマサチューセッツ農業大学に留学。明治14年(1881年)に帰国したのち農商務省奏任掛から、少書記となる。その後、北海道庁理事官となると、現地で各種の製糖研究と技術普及を行う。更に農場開発にも着手した。
1891年アイヌ民族共有財産を別会社の株券に替えたスキャンダルにて、北海道庁第二部長ならびに札幌農学校校長ともに「非職(諭旨免職)」になる。
札幌農学校長「非職(諭旨免職)」を経て、根本正、藤田敏郎等の、墨国(メキシコ)の太平洋沿岸視察が始まると、これに参加し、明治27年(1894年)にメキシコを探検。森鷗外から「大胆そのものの人物」と称された。帰国後に台湾総督府殖産局入局。更に明治29年(1896年)には台北県知事となる。
明治28(1895)年に北海道伊達市大滝区の優徳および北湯沢に農場を拓いたのが旧・大滝村の開拓の始まりと伝えられる。[1]
親族
栄典・授章・授賞
脚注
- ^ “伊達市の概況”. 北海道伊達市. (2016年7月7日)
- ^ 『官報』第3861号「叙任及辞令」1896年5月15日。
関連項目
参考文献
- 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、ISBN 4816912843
関連文献
- 『立身致富信用公録. 第11編』国鏡社、1903年5月、「橋口文蔵」の項。