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夫の飯塚友一郎は弁護士であったが、家を省みず演劇研究に没頭し、後に[[日本大学]]芸術学部の事実上の創設者となったが、くににとっては苦労が絶えなかったという。息子は、建築構造学の権威、[[横浜国立大学]]教授の[[飯塚五郎蔵]](1921年 - 1993年)。近い縁戚に邦楽家・[[桃山晴衣]](鹿島晴江)が、遠い姻戚に女優[[河内桃子]]がいる。
夫の飯塚友一郎は弁護士であったが、家を省みず演劇研究に没頭し、後に[[日本大学]]芸術学部の事実上の創設者となったが、くににとっては苦労が絶えなかったという。息子は、建築構造学の権威、[[横浜国立大学]]教授の[[飯塚五郎蔵]](1921年 - 1993年)。近い縁戚に邦楽家・[[桃山晴衣]](鹿島晴江)が、遠い姻戚に女優[[河内桃子]]がいる。


くにの両親は、[[長谷川時雨]]著『[[近代美人論]]』(鹿島恵津子)、[[長谷川伸]]著『明治の女』『明治の男』に詳しい。また、[[森鴎外|森鷗外]]の小説『百物語』の主人公・飾磨屋勝兵衛と芸者太郎のモデルとなったことでも知られる。
くにの両親は、[[長谷川時雨]]著『[[近代美人論]]』(鹿島恵津子)、[[長谷川伸]]著『明治の女』『明治の男』に詳しい。また、[[森鷗外]]の小説『百物語』の主人公・飾磨屋勝兵衛と芸者太郎のモデルとなったことでも知られる。


== 回想録 ==
== 回想録 ==

2020年6月18日 (木) 11:22時点における版

飯塚 くに(いいづか くに、明治33年(1900年2月10日 - 平成6年(1994年10月27日)は、日本舞踊家。英文学者・坪内逍遥の養女。夫は演劇研究家の飯塚友一郎。成女学校卒業。

人物

写真家・能笛家として知られた鹿嶋清兵衛と、その妻で元芸者新橋玉ノ屋ぽん太こと鹿嶋ゑつとの間に生まれた三女で、6歳のとき坪内逍遥の養女として迎えられる[1]。逍遥は、くにを先に養子にしていた坪内士行(坪内ミキ子の父)の嫁にしようと考えていたが、士行がアメリカ留学から戻った際、アメリカ人女性と結婚したいと申し出たため、くにとの結婚を諦め、士行との養子縁組を解消した。

夫の飯塚友一郎は弁護士であったが、家を省みず演劇研究に没頭し、後に日本大学芸術学部の事実上の創設者となったが、くににとっては苦労が絶えなかったという。息子は、建築構造学の権威、横浜国立大学教授の飯塚五郎蔵(1921年 - 1993年)。近い縁戚に邦楽家・桃山晴衣(鹿島晴江)が、遠い姻戚に女優河内桃子がいる。

くにの両親は、長谷川時雨著『近代美人論』(鹿島恵津子)、長谷川伸著『明治の女』『明治の男』に詳しい。また、森鷗外の小説『百物語』の主人公・飾磨屋勝兵衛と芸者太郎のモデルとなったことでも知られる。

回想録

  • 『父・逍遥の背中』 飯塚くに 述、小西聖一 編、中央公論社、1994年(中公文庫、1997年) - 晩年の坪内逍遥に詳しい。

脚注

  1. ^ 『女、女、女』 小野賢一郎著 (興成館, 1915)

参考文献・外部リンク