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『[[阿部茶事談]]』は[[正徳 (日本)|正徳]]~[[享保]]年間に成立した、阿部一族討ち入りの顛末を、創作も交えて書いた書物である。同書では、通次の屋敷は阿部一族の隣家であったことから「討ち入り無用」と言い渡されるが(史実では正式な討ち手の一員である)、独断で討ち入りに加わり、勲功第一と称された。その後、「[[元亀]][[天正]]のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討ち取りなぞは茶の子の茶の子の[[朝飯前|朝茶の子]]じゃ」と自慢したという記述があり、これが『阿部茶事談』という表題の元になっている。
『[[阿部茶事談]]』は[[正徳 (日本)|正徳]]~[[享保]]年間に成立した、阿部一族討ち入りの顛末を、創作も交えて書いた書物である。同書では、通次の屋敷は阿部一族の隣家であったことから「討ち入り無用」と言い渡されるが(史実では正式な討ち手の一員である)、独断で討ち入りに加わり、勲功第一と称された。その後、「[[元亀]][[天正]]のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討ち取りなぞは茶の子の茶の子の[[朝飯前|朝茶の子]]じゃ」と自慢したという記述があり、これが『阿部茶事談』という表題の元になっている。


[[森鴎外|森鷗外]]の『[[阿部一族]]』では、誤って「柄本又七郎」と表記されている。『阿部茶事談』を脚色し、阿部一族と親交のある理解者として書かれている。阿部一族に同情しつつも、武士として手を出さないわけには行かない心情を書いているが、討ち取ったあと「茶の子の茶の子の朝茶の子」と自慢する下りは変わっていない。
[[森鷗外]]の『[[阿部一族]]』では、誤って「柄本又七郎」と表記されている。『阿部茶事談』を脚色し、阿部一族と親交のある理解者として書かれている。阿部一族に同情しつつも、武士として手を出さないわけには行かない心情を書いているが、討ち取ったあと「茶の子の茶の子の朝茶の子」と自慢する下りは変わっていない。


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2020年6月18日 (木) 11:21時点における版

栖本 通次(すもと みちつぐ、生没年不詳)は17世紀江戸時代初期に活動した武将。熊本藩士。通称は又七郎。柄本又七郎とするのは誤り。栖本親高の甥・又七郎鎮弘(しげひろ)の子。

経歴

栖本氏戦国時代天草五人衆の一つに数えられた土豪であった。父の鎮広の代に加藤清正に仕えたが、清正の子・忠広改易されると、新領主となった細川忠利に仕えた。

忠利の子・光尚が藩主となった翌年の1643年阿部権兵衛が、先代・忠利の法事で髻を切る行為に出て投獄された。阿部一族は屋敷に立てこもり、通次は上意討ちの討ち手として2月17日の討ち入りに加わった。阿部一族はことごとく討ち取られ、権兵衛も処刑された。

『阿部茶事談』と『阿部一族』

阿部茶事談』は正徳享保年間に成立した、阿部一族討ち入りの顛末を、創作も交えて書いた書物である。同書では、通次の屋敷は阿部一族の隣家であったことから「討ち入り無用」と言い渡されるが(史実では正式な討ち手の一員である)、独断で討ち入りに加わり、勲功第一と称された。その後、「元亀天正のころは、城攻め野合せが朝夕の飯同様であった、阿部一族討ち取りなぞは茶の子の茶の子の朝茶の子じゃ」と自慢したという記述があり、これが『阿部茶事談』という表題の元になっている。

森鷗外の『阿部一族』では、誤って「柄本又七郎」と表記されている。『阿部茶事談』を脚色し、阿部一族と親交のある理解者として書かれている。阿部一族に同情しつつも、武士として手を出さないわけには行かない心情を書いているが、討ち取ったあと「茶の子の茶の子の朝茶の子」と自慢する下りは変わっていない。