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「井上和雄 (政治家)」の版間の差分

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叔父は、我が国のホリスティック医学の草分けで日本ホリスティック医学協会の初代会長である東京医科大学名誉教授藤波襄二である。
叔父は、我が国のホリスティック医学の草分けで日本ホリスティック医学協会の初代会長である東京医科大学名誉教授藤波襄二である。


また、曾祖父である藤波磯吉の妻フサ(曾祖母)は、江戸時代から千住の接骨医として高名であった名倉家の四代目名倉与一の二女フサである。初代名倉弥次兵衛直賢([[1750年]]-[[1827年]])は、[[森外]]の小説「寿阿弥の手紙」、「[[渋江抽斎]]」に名医として登場する。フサの甥にあたる六代目の名倉重雄([[地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター|東京厚生年金病院]]初代院長)は、名古屋帝国大学教授として[[汪兆銘]]の治療にあたり、また、夫人は[[高橋是清]]の孫娘恭である。現在でも多くの接骨院は名倉の名称を継承している。[[名倉家]]の親戚には、[[加瀬英明]]、[[ヨーコ・オノ]]がいる。
また、曾祖父である藤波磯吉の妻フサ(曾祖母)は、江戸時代から千住の接骨医として高名であった名倉家の四代目名倉与一の二女フサである。初代名倉弥次兵衛直賢([[1750年]]-[[1827年]])は、[[森外]]の小説「寿阿弥の手紙」、「[[渋江抽斎]]」に名医として登場する。フサの甥にあたる六代目の名倉重雄([[地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター|東京厚生年金病院]]初代院長)は、名古屋帝国大学教授として[[汪兆銘]]の治療にあたり、また、夫人は[[高橋是清]]の孫娘恭である。現在でも多くの接骨院は名倉の名称を継承している。[[名倉家]]の親戚には、[[加瀬英明]]、[[ヨーコ・オノ]]がいる。


妻の[[井上ノエミ]]は墨田区議会議員。[[ボリビア]]出身で、1993年にニューヨークで結婚。2010年に日本へ帰化し、翌年の墨田区議会議員選挙で当選している。
妻の[[井上ノエミ]]は墨田区議会議員。[[ボリビア]]出身で、1993年にニューヨークで結婚。2010年に日本へ帰化し、翌年の墨田区議会議員選挙で当選している。

2020年6月18日 (木) 11:18時点における版

井上 和雄(いのうえ かずお、1952年4月24日 - )は、日本の元政治家、国際開発コンサルタント。地域政党「自由を守る会」政策担当幹事。衆議院議員を2期務めた(民主党)。

人物・来歴

東京都文京区生まれ。1965年東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1971年に東京教育大学附属中学校・高等学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。小学校からの同期には、故佐野一彦(イラストレーター)、児玉宏(指揮者)、中村春木(大阪大学教授)、村上誠一郎(衆議院議員)、高校の同期には、、石田徹(元資源エネルギー庁長官)、川又雄二郎(数学者)、越澤明(都市工学者)、津田真男モスクワオリンピックシングルスカル日本代表)、林己知夫(建築家)、1年後輩には杉山晋輔(外務次官・駐米大使)がいる。

東京大学卒業。東京大学院修士課程修了後、渡米しアメリカのオレゴン大学教育学修士修了、コロンビア大学大学院国際教育博士課程留学。その後、国際連合に奉職。ユニセフ職員としてインドやニューヨーク本部など各地で勤務。

帰国後、新党さきがけに所属して政治家を目指す。当時の新党さきがけのメンバーには、武村正義、田中秀征、菅直人、鳩山由紀夫、枝野幸男、前原誠司、安住淳などがいた。国会議員の政策秘書を経て1995年におこなわれた第17回参議院議員通常選挙新党さきがけ公認で比例区より出馬。しかし、比例順位が7位と下位だったこともあり落選。

その後、民主党の結成に伴って、さきがけのメンバーと共に民主党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙東京都第16区に民主党から出馬するも3位で落選。その後、民政党などとの合併に伴い自らの選挙区を東京都第14区へ国替えした。2000年に行われた第42回衆議院議員総選挙では保守党から出馬した西川太一郎に小選挙区で敗れたものの比例東京ブロックで復活し初当選を果たす。この時に当選した民主党の同期には、細野豪志、長妻昭などがいる。以後2期連続当選。   2005年の第44回衆議院議員総選挙では自由民主党から出馬した松島みどりに再び敗れ、比例復活もできず落選。民主党の内規により公認が下りなかったため、政治活動を停止した。

衆議院では、予算委員会、内閣委員会、財務委員会、国土交通委員会の各委員、及び、政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会理事を歴任し、在職5年で国会質問を52回おこなう。また、超党派議員連盟である交通事故問題を考える国会議員の会の事務局長を当選直後の平成12年から平成17年まで務め、飲酒運転の厳罰化などの交通事故対策に尽力し、交通事故による死亡者数を大きく減らす契機を作った。危険運転致死傷罪の民主党の法案提案者でもある。 また、自民党の女性議員らと共に人身取引に関する勉強会を立ち上げ人身売買罪の成立に関わった。当時興業ビザの名目で年間10万人のフィリピン人女性が入国し一部の女性は売春等に従事させられていることもあり、諸外国からも非難を受けていた。現在ではその数は年間1万人以下になっており、我が国で働く外国人女性の人権は著しく向上した。また、ユニセフ議員連盟事務局長として、国連・ユニセフに対する我が国の支援を強化した。

2015年2月には晴山陽一らと一般社団法人使える英語普及協会を設立して、2016年12月まで代表理事を務める。英語能力は、英検1級、TOEIC 990点(満点)。

上田令子東京都議が2015年に立ち上げた地域政党「自由を守る会」では政策担当幹事を務める[1]

家族・親族

曾叔父に、明治大学の創設者である岸本辰雄がいる。明治大学の前身である明治法律学校の駿河台校舎は、岸本の義父である高祖父(母親の曾祖父)が、資金集めに苦労していた自分の婿のために当時の三千円を寄付して明治16年に建設された。このエピソードは、日本テレビ「午後は○○おもいッきりテレビ」で紹介された[2]。高祖父は埼玉県の草加市・安行市の庄屋の藤波家の本家であった。「そうか煎餅」という言葉が文献に初めてあらわれたのは藤波家文書からと言われている[3]。また、観世流謡曲の愛好家であった高祖父は、親類の関根家と共に明治維新により徳川家の後ろ盾を失った観世宗家を支援した。そのため現在でも観世流の能楽師には、関根祥六を筆頭として一族の者が多い。

祖父小川孝(旧姓藤波)は、大蔵省保険部顧問、埼玉県医師会理事、草加市医師会長を務めた。

祖父の兄、藤波寿は、旧粕壁中学校(現春日部高校)から一高、東京帝国大学医学部を卒業後、東京帝国大学駒込病院入沢内科に入局し、入沢達吉教授のもとで指導をうける。[4]。当時、入沢内科の秀英と言われた。

叔父は、我が国のホリスティック医学の草分けで日本ホリスティック医学協会の初代会長である東京医科大学名誉教授藤波襄二である。

また、曾祖父である藤波磯吉の妻フサ(曾祖母)は、江戸時代から千住の接骨医として高名であった名倉家の四代目名倉与一の二女フサである。初代名倉弥次兵衛直賢(1750年-1827年)は、森鷗外の小説「寿阿弥の手紙」、「渋江抽斎」に名医として登場する。フサの甥にあたる六代目の名倉重雄(東京厚生年金病院初代院長)は、名古屋帝国大学教授として汪兆銘の治療にあたり、また、夫人は高橋是清の孫娘恭である。現在でも多くの接骨院は名倉の名称を継承している。名倉家の親戚には、加瀬英明ヨーコ・オノがいる。

妻の井上ノエミは墨田区議会議員。ボリビア出身で、1993年にニューヨークで結婚。2010年に日本へ帰化し、翌年の墨田区議会議員選挙で当選している。

また、縁戚につながる者としては、理論物理学者として世界的に著名であったカリフォルニア大学教授の桜井純、昭和天皇の侍医長であった高木顕がいる。

議員連盟

脚注

注釈

出典

関連項目