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*[[田代基徳]] 軍医監:1892年3月14日 - 1893年7月6日 |
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*森林太郎 一等軍医正:1893年11月14日 - |
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*(事務取扱)森林太郎 軍医監:1895年9月2日 - 1895年10月31日 |
*(事務取扱)森林太郎 軍医監:1895年9月2日 - 1895年10月31日 |
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中央官衙 |
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主要兵力 |
歴史・伝統 |
その他 |
陸軍軍医学校 (りくぐんぐんいがっこう) は、かつて東京都新宿区戸山町に存在した旧帝国陸軍の医学系の教育機関のひとつである。当時の敷地には、現在、厚生労働省戸山研究庁舎(国立感染症研究所および独立行政法人国立健康・栄養研究所)、新宿区立障害者福祉センター、戸山サンライズ(全国障害者総合福祉センター)が設置されている。
沿革
- 1886年(明治19年)5月21日 - 陸軍軍医学舎概則制定(陸軍省令甲第21号)。陸軍省内に設置され、6月21日始業式を行う。
- 1888年(明治21年)1月23日 - 麹町区富士見町4丁目25番地(現・東京逓信病院)へ移転。
- 1888年(明治21年)12月27日 - 陸軍軍医学校条例制定(勅令第97号)。
- 1913年(大正2年)2月 - 恩賜財団済生会麹町診療所開設(1915年10月に済生会病院麹町分院と改称)。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により本館建物の崩壊。ほかに毒ガスが漏出するなど被害甚大であったが、幸い死傷者はなかった。
- 1929年(昭和4年)3月30日 - 牛込区戸山町41番地(現・厚生労働省戸山研究庁舎ほか)へ移転。[1]
- 1945年(昭和20年)5月25日 - 山の手大空襲により標本館と衛生学教室を除き全焼。
- 1945年(昭和20年)11月26日 - 陸軍軍医学校令の廃止(陸軍省令第56号)。
歴代校長
陸軍軍医学舎長
- 緒方惟準 軍医監:1886年6月20日 - 1887年2月2日[2]
- (兼)足立寛 一等軍医正:1887年2月2日 - 1887年5月17日
- 石阪惟寛 軍医監:1887年5月18日 - 1888年11月30日
- (兼)石黒忠悳 軍医監:1888年11月30日 - 12月28日
陸軍軍医学校長
- (兼)石黒忠悳 軍医監:1888年12月28日 - 1890年10月7日
- (兼・心得)足立寛 一等軍医正:1890年10月20日 - 1891年3月16日
- (心得)足立寛 一等軍医正:1891年3月16日 - 1891年6月12日
- 足立寛 軍医監:1891年6月12日 - 1892年3月14日
- 田代基徳 軍医監:1892年3月14日 - 1893年7月6日
- (心得)森林太郎 二等軍医正:1893年7月7日 -
- 森林太郎 一等軍医正:1893年11月14日 -
- (事務取扱)森林太郎 軍医監:1895年9月2日 - 1895年10月31日
- 森林太郎 軍医監:1895年10月31日 - 1898年10月1日
- (兼)森林太郎 一等軍医正:1898年10月1日 - 1899年6月8日
- (兼)谷口謙 一等軍医正:1899年6月8日 - 1901年3月9日
- (事務取扱)小池正直 軍医監:1901年3月9日 - 1903年6月25日
- 西郷吉義 一等軍医正:1903年6月25日 -
- (事務取扱)西郷吉義 軍医監:1905年12月28日 - 1906年5月7日
- 柴田勝央 一等軍医正:1906年5月16日 - 1906年8月10日
- (事務取扱)森林太郎 軍医監:1906年8月10日 -
- 芳賀栄次郎 一等軍医正:1907年12月8日 - 1910年10月13日
- 宇山道硯 一等軍医正:1910年10月13日 - 1911年1月27日[2]
- 保利眞直 一等軍医正:1911年1月27日 - 1912年9月28日
- 本堂恒次郎 一等軍医正:1912年9月28日 - 1913年7月21日
- 中川十全 一等軍医正:1913年8月7日 - 1914年8月8日
- 下瀬謙太郎 一等軍医正:1914年8月10日 - 1920年4月9日[2]
- 岩田一 軍医監:1920年4月9日 - 1922年5月10日[2]
- 山田弘倫 軍医総監:1922年5月10日 - 1923年3月17日[2]
- 岩田一 軍医監:1923年3月17日 - 1925年5月1日[2]
- 飯島茂 軍医総監:1925年5月1日 - 1926年3月2日[2]
- 秋山錬造 軍医総監:1926年3月2日 - 1928年3月8日[2]
- 合田平 軍医監:1928年3月8日 - 1928年12月21日[2]
- 一木儀一 軍医監:1928年12月21日 - 1932年4月11日[2]
- 小山憲佐 軍医監:1932年4月11日 - 1933年8月1日[2]
- 小泉親彦 軍医監:1933年8月1日 - 1934年3月5日[3]
- 出井淳三 軍医監:1934年3月5日 - 1936年8月1日[2]
- 寺師義信 軍医監:1936年8月1日 - 1939年8月1日[2]
- 桃井直幹 軍医少将:1939年8月1日 - 1943年3月1日[2]
- 三木良英 予備役軍医中将:1943年3月1日 - 1944年12月13日[2]
- 井深健次 軍医中将:1944年12月13日 - 1945年9月
- (代)渡辺甲一 軍医中将:1945年10月8日 -
人骨騒動
1989年(平成元年)7月、この軍医学校跡地において、厚生省国立予防衛生研究所 (現在の国立感染症研究所) 建設工事の際、同地から約100体に上るモンゴロイド系人骨が発掘された。人骨には、銃の傷跡のある遺体や切り傷のある遺体が複数あったため、「細菌戦のための731部隊による生体実験の犠牲者ではないか」などの疑惑が出た。
このため1993年(平成5年)9月に、遺骨の調査・研究を目的に、火葬・納骨の費用を支出しないよう求めた住民訴訟が提訴された[注 1]。2000年(平成12年)12月に、住民敗訴の最高裁判決が確定し、これを受け2001年(平成13年)6月、厚生労働省は「大量人骨は、戦場に遺棄された戦死体からの研究用標本」と結論付け、新たに作る納骨堂に納める方針を固めた。
2011年(平成23年)2月、厚生労働省は初めて人骨の発掘作業を開始した。発掘対象地は旧厚生労働省宿舎跡地であり、1989年に人骨の発見された場所に近い。標本を隠すために厚生労働省宿舎に人が住んでいるという証言があったため、宿舎の入居者が退去するのを待ち、建物を解体した[4]。
脚注
注釈
- ^ もっとも、遺骨を分析すれば人種の違い等は判明するが、中国人と断定したり遺骨の傷が生前に受けたものかどうかの判別は、極めて難しいとされる。
出典
参考文献
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
関連項目