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[[1921年]](28歳)、4月、[[文部科学省|文部省]]在外研究員としてフランスに留学し、[[パリ]]の[[モンマルトル]]に逗留。[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]で心理学を学び、ついでフランス小説を研究し、宿望の[[スタンダール]]の文献を集めた。ヨーロッパ諸都市を巡り、[[1923年]]8月帰国。 |
2020年6月18日 (木) 10:45時点における版
山田 珠樹(やまだ たまき、1893年2月26日 - 1943年11月24日)は、日本のフランス文学者。東京帝国大学の助教授および司書官を務めた。フランス文学者として、辰野隆、鈴木信太郎らと東大仏文科を興し、司書官として、関東大震災後の東大図書館の復興に力を尽くした。また、森茉莉の最初の夫としても知られる。
略歴
1893年(明治26年)、東京市芝区(現在の港区)に生まれる。父の山田暘朔は商館の小僧から一代で身代を築いた人物で[1][2]、輸入商会の経営者。
1911年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1917年(大正6年、24歳)、東大文学部哲学科を卒業。この年、東京高師附属中時代からの2歳後輩である鈴木信太郎らと同人誌『ろざりよ』創刊。
1919年、森鷗外の長女茉莉と結婚し、爵と亨の二子を得るも、1927年(昭和2年)、茉莉の意思で離婚。その理由の一つは山田の芸者遊びであり[3]、離婚したとき、山田は茉莉に「お前たち(茉莉と杏奴と類)が社会へ出られないようにしてやる」[4]と脅迫したという。茉莉はまた「夜の夫が十分健康でなかった」とも述べている[5]。
1921年(28歳)、4月、文部省在外研究員としてフランスに留学し、パリのモンマルトルに逗留。ソルボンヌ大学で心理学を学び、ついでフランス小説を研究し、宿望のスタンダールの文献を集めた。ヨーロッパ諸都市を巡り、1923年8月帰国。
1924年(30歳)、1月、東京帝国大学附属図書館事務取扱を嘱託され、4月(31歳)、同助教授文学部勤務を命じられ、さらに1925年6月兼任司書官となり、姉崎正治館長の片腕として、関東大震災罹災後の東大図書館の復興に務め、10年間に80万冊の図書を整理した。その傍ら、仏文科でフランス小説史を講じた。1930年(昭和5年)仏文科専任となり、辰野隆、鈴木信太郎らとともに教室を支えた。学位論文として「スタンダール研究」を執筆したが、思うところあって筐底に蔵し、それは没後、嗣子により出版された。
1934年(昭和9年、39歳)、肺結核のため東大を休職し、1936年3月退官。鎌倉西御門の自邸を離れ、七里ヶ浜小坪のサナトリウムで養生する。 1943年11月24日、50歳にて死去。
著書
単著
- 現代仏文学研究(1926年)
- 流派の歴史写実主義(岩波講座世界文学1)、岩波書店(1932年)
- ゾラ(岩波講座世界文学1)、岩波書店(1932年)
- 東門雑筆、白水社(1939年)
- フランス文学覚書、白水社(1940年)
- 小展望 六興商会出版部(1942年)
- 中世佛蘭西文學、六興出版部(1943年)
- ゾラの生涯と作品、六興出版社(1949年1月)
- スタンダール研究、河出書房(1948年11月)
訳書
- 赤毛(ルナール)(フランス文学の叢書・劇の部・第九篇)博文館(1926年)(「赤毛」は「にんじん」のこと)
- 商船テナシチィ(ヴィルドラック)(「近代劇全集18 佛蘭西篇」の中)、第一書房 (1927年)
- ツンベルグ日本紀行(異国叢書10)駿南社(1928年)(フランス訳からの重訳)
- ヴァニナ・ヴァニニ(スタンダール)(「世界文学全集36 近代短篇小説集」の中)、新潮社(1929年)
- キメの歌唄い(アナトール・フランス)(「アナトオル・フランス短篇小説全集5」の中)、白水社(1930年1月)
- 人になりたい望(リラダン)(「辰野隆選リイルアダン短篇集 下」の中)岩波文庫(1952年1月)