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「たけくらべ」の版間の差分

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1893年(明治26年)、一葉は[[吉原 (東京都)|吉原]]にも近い[[下谷区]][[下谷]]龍泉寺町において荒物雑貨駄菓子屋を経営しており、このころの実体験で得た題材が「たけくらべ」はじめ作品へ繋がっていると考えられている。翌1894年には下谷から[[本郷区]]丸山福山町へ転居し、「暗夜」、「[[大つごもり (小説)|大つごもり]]」に続き「たけくらべ」を連載した。一葉は「裏紫」に至るまで作品を次々と発表しており、後に「奇蹟の14ヶ月」と評される期間にあたる。
1893年(明治26年)、一葉は[[吉原 (東京都)|吉原]]にも近い[[下谷区]][[下谷]]龍泉寺町において荒物雑貨駄菓子屋を経営しており、このころの実体験で得た題材が「たけくらべ」はじめ作品へ繋がっていると考えられている。翌1894年には下谷から[[本郷区]]丸山福山町へ転居し、「暗夜」、「[[大つごもり (小説)|大つごもり]]」に続き「たけくらべ」を連載した。一葉は「裏紫」に至るまで作品を次々と発表しており、後に「奇蹟の14ヶ月」と評される期間にあたる。


1895年(明治28年)1月22日の[[星野天知]]一葉宛書簡([[日本近代文学館]]所蔵)によれば、星野は文学界1月号の原稿が集まらないために一葉に作品を依頼し、一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したという。翌1896年(明治29年)、『文芸倶楽部』に一括掲載されると、[[森外]]や[[幸田露伴]]らに着目され、鴎外の主宰する「めさまし草」誌上での鴎外、露伴、[[斎藤緑雨]]の3人による匿名合評「三人冗語」において高い評価で迎えられたが、一葉はこの頃[[結核]]が悪化し、同年11月には死去している。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されている(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなった。
1895年(明治28年)1月22日の[[星野天知]]一葉宛書簡([[日本近代文学館]]所蔵)によれば、星野は文学界1月号の原稿が集まらないために一葉に作品を依頼し、一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したという。翌1896年(明治29年)、『文芸倶楽部』に一括掲載されると、[[森外]]や[[幸田露伴]]らに着目され、鴎外の主宰する「めさまし草」誌上での鴎外、露伴、[[斎藤緑雨]]の3人による匿名合評「三人冗語」において高い評価で迎えられたが、一葉はこの頃[[結核]]が悪化し、同年11月には死去している。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されている(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなった。


1918年([[大正]]7年)に刊行された真筆版「たけくらべ」では、[[鏑木清方]]が[[口絵]]を手がけており、鏑木は1940年(昭和15年)にも「たけくらべ美登利」([[京都国立近代美術館]]所蔵)を制作している。また1925年(大正14年)には、[[木村荘八]]が[[吉原遊廓]]の賑わいを描いた「たけくらべ絵巻」を制作している。
1918年([[大正]]7年)に刊行された真筆版「たけくらべ」では、[[鏑木清方]]が[[口絵]]を手がけており、鏑木は1940年(昭和15年)にも「たけくらべ美登利」([[京都国立近代美術館]]所蔵)を制作している。また1925年(大正14年)には、[[木村荘八]]が[[吉原遊廓]]の賑わいを描いた「たけくらべ絵巻」を制作している。

2020年6月18日 (木) 10:36時点における版

たけくらべ』とは、明治の小説家、樋口一葉短編小説。1895年(明治28年)から翌年まで「文学界」に断続的に連載(文学界雑誌社、第25 - 27号、32号、35号 - 37号)。1896年(明治29年)4月10日、「文芸倶楽部」(博文館、第二巻第5号)に一括掲載された。題名は伊勢物語23段の和歌に因む。

吉原の廓に住む14歳の少女美登利 (みどり) と僧侶の息子藤本信如 (ふじもとのぶゆき、しんにょ) との淡い恋を中心に、東京の子供たちの生活を吉原を背景に描き出した作品。

概要

1893年(明治26年)、一葉は吉原にも近い下谷区下谷龍泉寺町において荒物雑貨駄菓子屋を経営しており、このころの実体験で得た題材が「たけくらべ」はじめ作品へ繋がっていると考えられている。翌1894年には下谷から本郷区丸山福山町へ転居し、「暗夜」、「大つごもり」に続き「たけくらべ」を連載した。一葉は「裏紫」に至るまで作品を次々と発表しており、後に「奇蹟の14ヶ月」と評される期間にあたる。

1895年(明治28年)1月22日の星野天知一葉宛書簡(日本近代文学館所蔵)によれば、星野は文学界1月号の原稿が集まらないために一葉に作品を依頼し、一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したという。翌1896年(明治29年)、『文芸倶楽部』に一括掲載されると、森鷗外幸田露伴らに着目され、鴎外の主宰する「めさまし草」誌上での鴎外、露伴、斎藤緑雨の3人による匿名合評「三人冗語」において高い評価で迎えられたが、一葉はこの頃結核が悪化し、同年11月には死去している。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されている(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなった。

1918年(大正7年)に刊行された真筆版「たけくらべ」では、鏑木清方口絵を手がけており、鏑木は1940年(昭和15年)にも「たけくらべ美登利」(京都国立近代美術館所蔵)を制作している。また1925年(大正14年)には、木村荘八吉原遊廓の賑わいを描いた「たけくらべ絵巻」を制作している。

作中に登場する龍華寺のモデルは、浄土宗寺院の大音寺であると考えられている。また、東京都台東区竜泉の一葉記念公園内には、佐佐木信綱による記念碑がある。未定稿などの肉筆原稿日本近代文学館山梨県立文学館早稲田大学図書館天理大学附属天理図書館駒澤大学図書館などに所蔵されている。

あらすじ

吉原遊女を姉に持つ勝気な少女美登利は、豊富な小遣いで子供たちの女王様のような存在だった。対して龍華寺僧侶の息子信如は、俗物的な父を恥じる内向的な少年である。二人は同じ学校に通っているが、運動会の日、美登利が信如にハンカチを差し出したことで皆から囃し立てられる。信如は美登利に邪険な態度をとるようになり、美登利も信如を嫌うようになった。

吉原の子供たちは、鳶の頭の子長吉を中心とした横町組と、金貸しの子正太郎を中心とした表町組に分かれ対立していた。千束神社(千束稲荷神社)の夏祭りの日、美登利ら表町組は幻灯会のため「筆や」に集まる。だが正太郎が帰宅した隙に、横町組は横町に住みながら表町組に入っている三五郎を暴行する。美登利はこれに怒るが、長吉に罵倒され屈辱を受ける。

ある雨の日、用事に出た信如は美登利の家の前で突然下駄の鼻緒が切れて困っていた。美登利は鼻緒をすげる端切れを差し出そうと外に出るが、相手が信如とわかるととっさに身を隠す。信如も美登利に気づくが恥ずかしさから無視する。美登利は恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げるが、信如は通りかかった長吉の下駄を借りて去ってしまう。

大鳥神社の三の酉の市の日、正太郎は髪を島田に結い美しく着飾った美登利に声をかける。しかし美登利は悲しげな様子で正太郎を拒絶、以後、他の子供とも遊ばなくなってしまう。ある朝、誰かが家の門に差し入れた水仙造花を美登利はなぜか懐かしく思い、一輪ざしに飾る。それは信如が僧侶の学校に入った日のことだった。

たけくらべ論争

物語の最後で、主人公の美登利が急に元気をなくすのはなぜか、という疑問に、それまでの文学研究者の間では「初潮説」が定説であったところへ、1985年昭和60年)に作家の佐多稲子が「初店説」を提示し、『娼妓として正式なものではないが、店奥で秘密裏に水揚げが行なわれたのではないか』とした。この佐多説に対し、初潮説を支持してきた学者の前田愛が反論したことから始まった文学論争。この論争には瀬戸内晴美野口冨士男吉行淳之介などの小説家も加わり、侃々諤々の論争を繰り広げた。現在、両論とも支持されている[1][2]

直筆草稿

樋口一葉の『たけくらべ』の草稿が日本近代文学館に現存する。まだ草稿段階であるがゆえに自在な運筆をみせ、一葉の息づかいが感じられる。連綿で書きながら原稿用紙のます目に一字ずつを入れており、その流麗な筆は絶妙といえる。書においても天賦の才を窺い知ることのできる貴重な真跡である[3]

映像化作品

舞台化

宝塚歌劇団によって、ミュージカル化。

参考文献

  • 『樋口一葉展I われは女なりけるものを』(山梨県立文学館)

脚注

  1. ^ 「彼女(たち)に何が起こったか?」新潮社yomyom Archived 2014年7月28日, at the Wayback Machine.
  2. ^ 小谷野敦『現代文学論争』(筑摩書房〈筑摩選書〉)ISBN 978-4-480-01501-3
  3. ^ 永由徳夫 「『たけくらべ』草稿」(『書道の知識百科』、主婦と生活社、1996年)ISBN 4-391-11937-4 P.81

外部リンク