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{{政治家 |
{{政治家 |
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|人名 = 初代グレンヴィル男爵<br />ウィリアム・グレンヴィル |
|人名 = 初代グレンヴィル男爵<br />ウィリアム・グレンヴィル |
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|各国語表記 = William Grenville<br />1st Baron Grenville |
|各国語表記 = {{lang|en|William Grenville<br />1st Baron Grenville}} |
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|画像 = 1st Baron Grenville-cropped.jpg |
|画像 = 1st Baron Grenville-cropped.jpg |
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|画像説明 = [[ジョン・ホプナー]]画のグレンヴィル卿 |
|画像説明 = [[ジョン・ホプナー]]画のグレンヴィル卿 |
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|出身校 =[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]] |
|出身校 =[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]] |
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|前職 = |
|前職 = |
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|所属政党 = [[小ピット]]派[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]→[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] |
|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]→[[小ピット]]派[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]→[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]] |
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|称号・勲章 = 初代[[グレンヴィル男爵]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
|称号・勲章 = 初代[[グレンヴィル男爵]]、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC) |
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|親族(政治家) = <small>[[ジョージ・グレンヴィル]](父)、[[ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵)|ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル]](長兄)、{{仮リンク|トマス・グレンヴィル|en|Thomas Grenville}}(次兄)、[[小ピット]](従兄)</small> |
|親族(政治家) = <small>[[ジョージ・グレンヴィル]](父)、[[ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵)|ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル]](長兄)、{{仮リンク|トマス・グレンヴィル|en|Thomas Grenville}}(次兄)、[[小ピット]](従兄)</small> |
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|配偶者 = アン |
|配偶者 = アン(旧姓ピット) |
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|サイン = William Grenville, 1st Baron Grenville Signature.svg |
|サイン = William Grenville, 1st Baron Grenville Signature.svg |
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|ウェブサイト = |
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|退任日5 = [[1834年]] |
|退任日5 = [[1834年]] |
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初代[[グレンヴィル男爵]]'''ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル'''({{lang-en| |
初代[[グレンヴィル男爵]]'''ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル'''({{lang-en|William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville}}, {{Post-nominals|country=GBR|PC|PCi}}、[[1759年]][[10月25日]] - [[1834年]][[1月12日]])は、[[イギリス]]の政治家、貴族。 |
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[[イギリスの首相|首相]][[ジョージ・グレンヴィル]]の三男であり、[[1782年]]に[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選して政界入り。はじめ従兄にあたる[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]に近い立場を取り、その第1次内閣で閣僚職を歴任した。特に[[外務大臣 (イギリス)|外務大臣]]を[[1791年]]から[[1801年]]までの長期間にわたって務め、対仏強硬外交を主導した。[[1801年]]に小ピットが辞職した際には一緒に辞職したが、この下野時に小ピットと疎遠になり、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]に接近、[[1806年]]にはフォックスたちとともに「{{仮リンク| |
[[イギリスの首相|首相]][[ジョージ・グレンヴィル]]の三男であり、[[1782年]]に[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選して政界入り。はじめ従兄にあたる[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]に近い立場を取り、その[[第1次小ピット内閣|第1次内閣]]で閣僚職を歴任した。特に[[外務大臣 (イギリス)|外務大臣]]を[[1791年]]から[[1801年]]までの長期間にわたって務め、対仏強硬外交を主導した。[[1801年]]に小ピットが辞職した際には一緒に辞職したが、この下野時に小ピットと疎遠になり、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]に接近、[[1806年]]にはフォックスたちとともに「{{仮リンク|挙国人材内閣|en|Ministry of All the Talents}}」を成立させ、その首相(在職:[[1806年]][[2月11日]] – [[1807年]][[3月31日]])となった。イギリス本国における奴隷貿易廃止を実現した。しかしフォックスの急死や、[[カトリック解放]]問題をめぐって国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]と対立を深めたことで辞職に追い込まれた。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[1759年]][[10月25日]]、後に[[イギリスの首相|首相]]を務める政治家[[ジョージ・グレンヴィル]]とその妻エリザベス |
[[1759年]][[10月25日]]、後に[[イギリスの首相|首相]]を務める政治家[[ジョージ・グレンヴィル]](1712年 – 1770年11月)とその妻{{仮リンク|エリザベス・グレンヴィル|en|Elizabeth Grenville|label=エリザベス}}(1769年12月5日没、第3代[[ウィンダム準男爵|準男爵]][[ウィリアム・ウィンダム (第3代準男爵)|サー・ウィリアム・ウィンダム]]の娘)の間の三男として[[バッキンガムシャー]]に生まれる。長兄に後に初代[[バッキンガム侯爵]]に叙される[[ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル (初代バッキンガム侯爵)|ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル]]、次兄に{{仮リンク|トマス・グレンヴィル|en|Thomas Grenville}}がいる<ref name="CP ET">{{Cite web2 |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/temple1749.htm|title=Temple, Earl (GB, 1749 - 1889)|accessdate= 2015-11-20 |last= Heraldic Media Limited |work=Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage |language=en }}</ref>。 |
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1770年から1776年まで[[イートン・カレッジ]]で教育を受けた後<ref name="HOP2">{{HistoryofParliament|1790|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1790-1820/member/grenville-william-wyndham-1759-1834|title=GRENVILLE, William Wyndham (1759-1834), of Dropmore Lodge, Bucks.|last=Fisher|first=David R.|access-date=19 May 2020}}</ref>、1776年12月14日に[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学、1780年に[[学士(教養)|B.A.]]の学位を修得した<ref name="Oxon">{{Cite book2|language=en|editor-last=Foster|editor-first=Joseph|editor-link=ジョセフ・フォスター (系図学者)|location=Oxford|publisher=University of Oxford|year=1891|title=Alumni Oxonienses 1715-1886|volume=2|page=563|url=https://archive.org/details/alumnioxonienses02univuoft/page/563 }}</ref>。1780年4月6日に[[リンカーン法曹院]]に入学<ref name="Oxon" /><ref name="DNB" />、1782年まで在学したが、弁護士資格免許は取得しなかった<ref name="ODNB" />。 |
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[[イートン校]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ・カレッジ]]へ進学した<ref name="thepeerage.com2">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p1250.htm#i12498 |title=William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville|accessdate= 2015-11-20 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。 |
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イートン・カレッジへの入学に前後して両親が死去、さらにオックスフォード大学在学中の1779年には後見人で伯父にあたる第2代[[テンプル伯爵]][[リチャード・グレンヴィル=テンプル (第2代テンプル伯爵)|リチャード・グレンヴィル=テンプル]]も死去したため、両親の末男であるグレンヴィルは兄ジョージからの援助に頼ることになった<ref name="ODNB">{{Cite ODNB|title=Grenville, William Wyndham, Baron Grenville|id=11501|origyear=2004|date=21 May 2009|last=Jupp|first=P. J.}}</ref>。そのため、政界入り直後は兄と共同歩調をとることが多かったが、兄は1783年末に[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]の東インド法案を否決させるにあたり国王への影響力を濫用した{{Refnest|group=注釈|name=TempleEastIndia|テンプル伯爵はジョージ3世の許可を受けて、「東インド法案に賛成票を投じた人は国王の友ではないばかりか、国王により敵として扱われる」({{lang|en|whoever voted for the India Bill was not only not his friend, but would be considered by him as an enemy}})と発言した<ref>{{Cite EB1911|wstitle=Buckingham, Earls, Marquesses and Dukes of|volume=4|pages=721–722}}</ref>。}}として批判され、官職辞任を余儀なくされた<ref name="ODNB" />。 |
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リンカーン法曹院在学中にグースツリーズ({{lang|en|Goosetree's}})という、新米議員や選挙出馬を検討している人物が集まるクラブに加入、そこで後に首相となる[[従兄]]の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]とも会ったが、2人は1782年末まではそれほど親しくなかったという<ref name="ODNB" />。 |
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=== 政界入りし、小ピット内閣で閣僚歴任 === |
=== 政界入りし、小ピット内閣で閣僚歴任 === |
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1782年2月に{{仮リンク|バッキンガム選挙区|en|Buckingham (UK Parliament constituency)}}から選出され<ref name="HOP">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/grenville-william-wyndham-1759-1834|title=GRENVILLE, William Wyndham (1759-1834).|last=Drummond|first=Mary M.|access-date=19 May 2020}}</ref>{{Refnest|group=注釈|バッキンガム選挙区はグレンヴィル家の[[懐中選挙区]]であり<ref>{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/buckingham|title=Buckingham|last=Brooke|first=John|access-date=19 May 2020}}</ref>、1782年の補欠選挙においてもウィリアムが兄の支持を受けた結果としての当選である<ref name="HOP" />。}}、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]所属の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となった<ref name="CP BG" />。1784年からは{{仮リンク|バッキンガムシャー選挙区|en|Buckinghamshire (UK Parliament constituency)}}から選出される。以降1790年に[[グレンヴィル男爵]]に叙されて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に転じるまでこの議席を維持した<ref name="CP BG">{{Cite web2|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/grenville1790.htm|title=Grenville, Baron (GB, 1790 - 1834)|accessdate= 2015-11-20 |last= Heraldic Media Limited |work= Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage |language=en }}</ref>。 |
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政界入りした1782年2月は[[ノース内閣]]の末期にあたり(首相[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]は1782年3月に辞任<ref>{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/member/north-frederick-1732-92|title=NORTH, Frederick, Lord North (1732-92).|last=Brooke|first=John|access-date=19 May 2020}}</ref>)、グレンヴィルは庶民院議員に就任してすぐに採決で野党の一員として投票した<ref name="HOP" />。続く[[第2次ロッキンガム侯爵内閣]]では政権を支持、同年7月に[[シェルバーン伯爵内閣]]が成立すると、9月に{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}に就任する{{Refnest|group=注釈|長兄ジョージが[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]に就任したことも関係したとされる<ref name="HOP" />。}}とともに{{仮リンク|アイルランド枢密顧問官|en|Privy Council of Ireland}}(PC(Ire)、1782年9月15日就任)に列した<ref name="CP BG" />。 |
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1783年3月に兄ジョージがアイルランド総督を辞任、4月に[[フォックス=ノース連立内閣]]が成立すると、ウィリアムも6月にアイルランド担当大臣を辞した<ref name="HOP" />。また、1783年1月から2月にかけて、[[ロンドン]]で{{仮リンク|1783年アイルランド上告法|en|Irish Appeals Act 1783|label=権利放棄法}}({{lang|en|Renunciation Act}})をめぐる交渉を行っていたときに[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]と親しい友人になり、4月には連立内閣の倒閣をめぐり小ピットに協力することに同意した<ref name="ODNB" />。 |
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⚫ | 1783年12月には小ピットが首相となり、彼の長期政権で閣僚職を歴任することになる{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=300}}。同12月31日に[[枢密院 (イギリス)|イギリス枢密顧問官]](PC)に列し、1784年1月に[[陸軍支払長官]]に就任した<ref name="HOP" />。1784年3月に[[商務庁 (イギリス)|商務庁]]委員に就任<ref name="HOP" />、1786年から1789年にかけては{{仮リンク|商務庁副長官 (イギリス)|label=商務庁副長官|en|Vice-President of the Board of Trade}}を務めた<ref name="CP BG" />。1786年末には叙爵の申請を検討するようになったが、このときは[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]を離れることを躊躇し、一旦は諦めた<ref name="HOP" />。 |
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1789年1月に[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]][[チャールズ・ウルフラン・コーンウォール]]が死去すると、グレンヴィルは1月5日にその後任に当選したが、6月には[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]への任命により庶民院議長を辞任した<ref name="HOP" />。その後、1789年から1791年まで[[内務大臣 (イギリス)|内務大臣]]を<ref name="CP BG" />、1790年から1793年まで[[インド庁長官]]を務めた<ref name="CP BG" />。[[1790年イギリス総選挙]]では無投票で再選したが、議会の開会日にグレンヴィル男爵に叙され、貴族院議員に転じた<ref name="HOP2" />。この叙爵は小ピットが手配したものだったが、[[大法官]]の[[エドワード・サーロー (初代サーロー男爵)|初代サーロー男爵エドワード・サーロー]]の抑止力とするという思惑もあった<ref name="HOP2" />{{Refnest|group=注釈|サーローは[[ノース内閣]]期の1778年に[[大法官]]に任命され、[[フォックス=ノース連立内閣]]の成立(1783年)に伴い辞任したが、同年末に小ピットが首相に就任すると大法官に復帰した<ref name="DNBThurlow">{{Cite DNB|wstitle=Thurlow, Edward (1731-1806)|volume=56|pages=344–349|last=Rigg|first=James McMullen}}</ref>。小ピット内閣期では小ピットと共同歩調をとることも多かったが、[[1745年ジャコバイト蜂起]]で財産を没収された人物の子孫に財産を返還する法案に反対(1784年8月16日)、[[ジョージ4世 (イギリス王)#1788年の摂政危機|1788年の摂政法問題]]をめぐり[[ジョージ4世 (イギリス王)|王太子ジョージ]]や野党[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]と秘密交渉を行うなど、小ピットの立場に反する行動も多かった<ref name="DNBThurlow" />。後者についてはホイッグ党の[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]がサーローを信用していないことと、国王ジョージ3世の体調が回復してきたことで王太子ジョージの立場が不利になったことにより、サーローは与党の立場に回帰したが、ホイッグ党との秘密交渉が小ピットに露見したため小ピットから不信感をもたれた<ref name="DNBThurlow" />。そのため、サーローは小ピットの盟友とみられたグレンヴィルの叙爵に憤慨したという<ref name="DNBThurlow" />。}}。グレンヴィルは叙爵に喜んだが、叙爵は同時に責務が増えることと、庶民院で株を上げてきた時点で貴族院に移籍しなければならないことを意味した<ref name="ODNB" />。 |
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政界入りした1782年のうちに{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}に就任するとともに{{仮リンク|アイルランド枢密顧問官|en|Privy Council of Ireland}}(PC(Ire))に列した<ref name="CP BG" />。 |
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1791年から1801年という長期間にわたって[[外務大臣 (イギリス)|外務大臣]]を務めた<ref name="CP BG" />。グレンヴィルは外交について最初は楽観視して、1791年8月の手紙で[[シストヴァ条約]]に喜び、1792年11月の手紙で[[フランス革命戦争|対仏戦争]]の不参戦に賛同したが、イギリスが対仏戦争に巻き込まれた後に書いた手紙(1794年9月)では「[[フランス第一共和政|フランス共和国]]の確立がヨーロッパの全ての政府の転覆を意味する」({{lang|en|in the establishment of the French republic is included the overthrow of all the other governments of Europe}})とし、「2つの政治制度が存在をかけている」({{lang|en|the existence of the two systems of government was fairly at stake}})という意見を述べた<ref name="DNB" />。そのためか、グレンヴィルは閣議で講和交渉が持ち上がるごとに強硬策を主張したという<ref name="DNB" />。このように、[[フランス革命戦争]]から[[ナポレオン戦争]]初期までの対フランス強硬外交を主導した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=300}}。小ピットは外交面に不得手なところがあり、グレンヴィルに頼る部分は大きかったという{{sfn|トレヴェリアン|1975|p=72}}。グレンヴィルの強硬策は貴族院でも支持を受け、1800年初の戦争継続をめぐる動議は賛成92票、反対6票で可決された<ref name="DNB" />。 |
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一方で外務大臣就任以降も内政への関与も続け、1793年5月22日に人身保護法停止法案({{lang|en|Habeas Corpus Suspension Act}})の第一読会を動議、その日のうちに貴族院の第三読会まで通過させたほか、1795年11月に[[1795年反逆法|反逆行為法案]]を、12月に{{仮リンク|1795年扇動集会法|en|Seditious Meetings Act 1795|label=扇動集会法案}}を提出した<ref name="DNB" />。また、1799年3月には[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]の合同を支持して4時間にわたる演説をした<ref name="DNB" />。 |
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そして[[1791年]]から[[1801年]]という長期間にわたって[[外務大臣 (イギリス)|外務大臣]]を務めた<ref name="thepeerage.com2" /><ref name="CP BG" />。小ピット首相の意を汲んで[[フランス革命戦争]]から[[ナポレオン戦争]]初期までの対フランス強硬外交を主導した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=300}}。小ピットは外交面に不得手なところがあり、グレンヴィルに頼る部分は大きかったという{{sfn|トレヴェリアン|1975|p=72}}。 |
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=== 野党として === |
=== 野党として === |
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1801年に小ピットが[[カトリック解放]]問題に躓いて辞職した際には彼も一緒に辞職した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=300}}。その引き金になったのは、[[グレートブリテン王国]]と[[アイルランド王国]]の[[合同法 (1800年)|合同]]に伴い[[イギリスの議会|連合王国議会]]が成立したとき、カトリック信者にも議員就任の権利を与えることをジョージ3世に拒否されたことだった<ref name="ODNB" />。この下野時、[[ヘンリー・アディントン (初代シドマス子爵)|ヘンリー・アディントン]](後の初代[[シドマス子爵]])内閣に対する野党活動を行うことを小ピットに進言したが、小ピットは「党派を形成して陛下の政府に反抗することは罪悪」という価値観を持つ政党政治反対派だったので、明確な反対党領袖にはなりたがらなかった{{sfn|小松春雄|1983|p=370}}。 |
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この件でグレンヴィルは小ピットを見限り、「新しい反対党」と称する反対党派を自ら形成した。「新しい」というのは[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]を「古い反対党」と揶揄したものである。しかし結局1804年1月にはフォックスたちに接近を図った。流れに取り残されることを恐れた小ピットもこれとは別に反対党を形成し、アディントン政権攻撃を開始するようになった。小ピットの閣外協力に期待していたアディントンは1804年5月に辞職を余儀なくされ、小ピットが再び組閣の大命を受けた{{sfn|小松春雄|1983|p=371}}。 |
この件でグレンヴィルは小ピットを見限り、「新しい反対党」と称する反対党派を自ら形成した。「新しい」というのは[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]を「古い反対党」と揶揄したものである。しかし結局1804年1月にはフォックスたちに接近を図った。流れに取り残されることを恐れた小ピットもこれとは別に反対党を形成し、アディントン政権攻撃を開始するようになった。小ピットの閣外協力に期待していたアディントンは1804年5月に辞職を余儀なくされ、小ピットが再び組閣の大命を受けた{{sfn|小松春雄|1983|p=371}}。 |
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小ピットと疎遠になっていたグレンヴィルは入閣せず、フォックスとともに反対党を続けたが、小ピットは首相再任からわずか2年後の1806年1月に病死した。ジョージ3世は後任首相の選定に苦慮したが、結局第3代[[ポートランド公爵]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]から「[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]後の状況を鑑み、反対党に組閣させるのが得策」との助言を受けたことでグレンヴィルに組閣の大命を与えることにした{{sfn|小松春雄|1983|p=371}}。 |
小ピットと疎遠になっていたグレンヴィルは入閣せず{{Refnest|group=注釈|グレンヴィルは入閣の条件にフォックスの入閣を提示したが<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Grenville, William Wyndham Grenville, Baron|volume=12|pages=581–582}}</ref>、ジョージ3世は小ピットに組閣の大命を下したときに「フォックスを入閣させない」「カトリック解放を主張しない」ことを条件にしたため、グレンヴィルは入閣を辞退した<ref name="ODNB" />。グレンヴィルとフォックスの政治観は奴隷貿易廃止とカトリック解放への支持という2点のみ共通点としていたが、グレンヴィルがフォックスの入閣を条件にした目的は小ピットを首班とする大連立を成立させるためだった<ref name="ODNB" />。しかし小ピットはグレンヴィルの入閣拒否に怒り、2人の友情はここに終わったという<ref name="DNB" />。}}、フォックスとともに反対党を続けたが、小ピットは首相再任からわずか2年後の1806年1月に病死した。ジョージ3世は後任首相の選定に苦慮したが、結局第3代[[ポートランド公爵]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク]]から「[[アウステルリッツの戦い|アウステルリッツ]]後の状況を鑑み、反対党に組閣させるのが得策」との助言を受けたことでグレンヴィルに組閣の大命を与えることにした{{sfn|小松春雄|1983|p=371}}。 |
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=== 「 |
=== 「挙国人材内閣」組閣 === |
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[[1806年]]2月に組閣したグレンヴィル内閣は、フォックスたちの入閣でトーリー・ホイッグ横断的な内閣となったので、「{{仮リンク| |
[[1806年]]2月に組閣したグレンヴィル内閣は、フォックスたちの入閣でトーリー・ホイッグ横断的な内閣となったので、「{{仮リンク|挙国人材内閣|en|Ministry of All the Talents}}」と呼ばれた(ただしピット派は参加せず)。同内閣は「ホイッグ党内閣」に分類されることも多いが、グレンヴィル卿自身は正式のホイッグ党員ではなく、またホイッグからの入閣者は5人だけだったため、そう定義できるかは疑問視されている{{sfn|小松春雄|1983|p=372}}。 |
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フォックスらホイッグ領袖が入閣したことによりグレンヴィル内閣の政治改革への機運は高く、イギリス本国における奴隷貿易廃止はこの内閣で取り決められた |
フォックスらホイッグ領袖が入閣したことによりグレンヴィル内閣の政治改革への機運は高く、イギリス本国における奴隷貿易廃止はこの内閣で取り決められた{{sfn|トレヴェリアン|1975|p=76}}。カトリック解放にも取り組もうとしたが<ref name="DNB" />、外交ではフランスとの交渉が決裂した上、海外遠征もことごとく失敗した<ref name="DNB" />。また、内閣の重しであるフォックスが1806年9月に病死したことで閣内の不協和音が高まった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=300}}。その後、カトリック解放をめぐり国王ジョージ3世と対立した結果、1807年3月に辞職に追い込まれた{{sfn|小松春雄|1983|p=372}}。 |
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==== 奴隷貿易廃止 ==== |
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しかし内閣の重しであるフォックスが1806年9月に病死したことで閣内の不協和音が高まった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=300}}。さらにカトリック解放に反対する国王ジョージ3世と対立を深め、1807年3月に辞職に追い込まれた{{sfn|小松春雄|1983|p=372}}。 |
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グレンヴィル自身は1780年代より奴隷貿易廃止を支持しており<ref name="ODNB" />、1789年5月の奴隷貿易に関する決議案の弁論では[[ウィリアム・ウィルバーフォース]]の演説を「庶民院、イングランド人民、ひいては全ヨーロッパの人民、そして後世の人々の感謝に値する」({{lang|en|entitled him to the thanks of the house, of the people of England, of all Europe, and of the latest posterity}})と激賞した<ref name="DNB" />。そして、ウィルバーフォースによる奴隷貿易廃止運動が盛り上がる中、1806年には海外奴隷貿易法({{lang|en|Foreign Slave Trade Act}})を可決させ、イギリスが占領した他国の植民地にイギリス国民が奴隷を輸入することを禁じた<ref name="ODNB" />。 |
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1807年1月2日に{{仮リンク|1807年奴隷貿易法|en|Slave Trade Act 1807|label=奴隷貿易廃止法案}}を提出した後<ref name="DNB" />、グレンヴィルは貴族院で演説して法案への支持を訴え、2月5日に法案を第二読会に提出するときはイギリス本国で奴隷貿易を禁止すれば、他国もイギリスの海上封鎖により奴隷貿易を継続できないと力説した<ref>{{Cite Hansard|jurisdiction=United Kingdom|house=House of Lords|date=5 February 1807|column_start=657|column_end=664|speaker=Lord Grenville|title=SLAVE TRADE ABOLITION BILL.|url=https://api.parliament.uk/historic-hansard/lords/1807/feb/05/slave-trade-abolition-bill}}</ref>。その後、法案は可決され、3月25日に国王の裁可を受けた<ref name="DNB" />(ただし、[[大英帝国]]植民地においては奴隷貿易が合法のままとなった{{sfn|トレヴェリアン|1975|p=76}})。 |
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奴隷貿易廃止の立役者は一般的には全国レベルの[[奴隷制度廃止運動]]の指導者たるウィルバーフォースに帰するが、現代ではグレンヴィルも奴隷貿易廃止を議会立法として推進するという重要な役割を果たしたとして評価されている<ref name="ODNB" />。 |
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==== アイルランド対策 ==== |
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グレンヴィルのアイルランド政策は諸派の和解を試みることであり、その目的はアイルランドから選出された議員を味方につけることだった<ref name="ODNB" />。アイルランド政界のプロテスタントはグレートブリテン王国との[[合同法 (1800年)|合同]]の支持派と反対派とで分裂していたが、グレンヴィルは両派への利益分配を均等割りにし、一方カトリックに対しては少数ながら官職任命を行い、またカトリック解放運動のパトロンとして行動した<ref name="ODNB" />。 |
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しかし、カトリック解放運動のパトロンになることは同時に爆弾を抱え込むことになった。すなわち、アイルランドのカトリックは[[1806年イギリス総選挙]]の後にカトリック解放請願を議会に提出しようとしたが、そうするとグレンヴィルはカトリック解放運動のパトロンとして賛成せざるを得なくなる<ref name="ODNB" />。これは確実にジョージ3世の不興を買うことになり、結果的には内閣の崩壊を招くので、グレンヴィルは代わりにカトリックが陸軍で大将まで昇進できるようにする法案を提出、アイルランドのカトリックをなだめようとした<ref name="ODNB" />。 |
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グレンヴィルはジョージ3世に法案を認めさせようと努力したが、ジョージ3世は裁可を与えないと表明、さらに内閣にカトリック問題を二度と提起しないことへの約束を要求した<ref name="ODNB" />。これによりグレンヴィルは法案を取り下げたが、カトリック問題を提起しない約束は拒否<ref name="ODNB" />、結果的には1807年3月に辞職に追い込まれた{{sfn|小松春雄|1983|p=372}}。 |
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=== 首相退任後 === |
=== 首相退任後 === |
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[[File:Lord Grenville as Chancellor of Oxford by William Owen.jpg|thumb|right|オックスフォード大学学長としての肖像画。{{仮リンク|ウィリアム・オーウェン (画家)|en|William Owen (painter)|label=ウィリアム・オーウェン}}画、[[オリオル・カレッジ (オックスフォード大学)|オリオル・カレッジ]]所蔵。]] |
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代わってポートランド公爵内閣が成立。同内閣はすぐに解散総選挙を行ったが、このときの選挙で曖昧になっていたホイッグとトーリーの色分けが復活し、国王のグレンヴィル解任を支持する者たちが「トーリー」、反対する者たちが「ホイッグ」となった。つまりグレンヴィル卿はホイッグということになった{{sfn|小松春雄|1983|p=372}}。 |
代わってポートランド公爵内閣が成立。同内閣はすぐに解散総選挙を行ったが、このときの選挙で曖昧になっていたホイッグとトーリーの色分けが復活し、国王のグレンヴィル解任を支持する者たちが「トーリー」、反対する者たちが「ホイッグ」となった。つまりグレンヴィル卿はホイッグということになった{{sfn|小松春雄|1983|p=372}}。1809年にポートランド公爵内閣が倒れると、グレンヴィルと[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ]]を政権に就ける動きがあり、1811年初には[[ジョージ4世 (イギリス王)|摂政王太子]]が[[パーシヴァル内閣]]の更迭を検討したが、いずれも実現しなかった<ref name="DNB" />。 |
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ポートランド公爵の死に伴い{{仮リンク|オックスフォード大学学長|en|List of Chancellors of the University of Oxford}}が空位になったが、その後任選挙においてはグレンヴィル、{{仮リンク|ジョン・スコット (初代エルドン伯爵)|en|John Scott, 1st Earl of Eldon|label=初代エルドン男爵ジョン・スコット}}、{{仮リンク|ヘンリー・サマセット (第6代ボーフォート公爵)|en|Henry Somerset, 6th Duke of Beaufort|label=第6代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセット}}の3人が出馬、選挙戦が白熱した<ref name="DNB" />。しかし、エルドン男爵もボーフォート公爵もトーリー党所属だったため票が割れ、結局はグレンヴィル406票、エルドン393票、ボーフォート288票でグレンヴィルが当選した<ref name="DNB" />。これによりグレンヴィルは1809年12月23日に{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law|label=D.C.L.}}の学位を授与され<ref name="Oxon" />、1810年1月10日に学長に就任<ref name="DNB" />、以降1834年まで学長を務めた<ref name="Oxon" />。 |
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首相退任後には再び官職につくことはなかったが、1820年代までは政界に一定の影響力を残していた。晩年はバッキンガムシャーで引退生活を送った{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=300}}。 |
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首相退任後には再び官職につくことはなかったが、政界への関与を続けた<ref name="EB1911" />。また、ホイッグ党の指導者の1人として行動し、貴族院での採決は概ねホイッグ党を支持したが<ref name="EB1911" />、[[オックスフォード英国人名事典]]によればフォックス派との政見の違いが多く{{Refnest|group=注釈|グレンヴィルが[[ナポレオン戦争]]における防衛戦争の継続を支持、カトリック解放を行いつつプロテスタント支配層の優位を維持すべきであると主張、議会改革に反対したが、フォックス派の大半がナポレオン戦争の講和を支持、カトリック解放を「プロテスタント支配層の優位維持」との前提なしに行うべきと主張、議会改革に賛成した<ref name="ODNB" />。}}、1812年に一旦グレンヴィル派とフォックス派の間で妥協がなされたが、1815年には[[ナポレオン戦争]]が終結するなど情勢が変わり、1817年までにホイッグ党の指導者の座を完全にグレイ伯爵に譲った<ref name="ODNB" />。1823年に麻痺を起こした後、バッキンガムシャーのドロップモア({{lang|en|Dropmore}})で引退生活を送ったが<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Grenville, William Wyndham|volume=23|pages=133–138|last=Barker|first=George Fisher Russell}}</ref>{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=300}}、以降も1828年に{{仮リンク|減債基金|en|Sinking fund}}廃止を支持するパンフレットの出版などで一定の影響力を有した<ref name="ODNB" />。 |
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[[1834年]][[1月12日]]に死去<ref name="thepeerage.com2" /><ref name="CP BG" />。 |
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ホイッグ党の指導者から降りた後も一貫してカトリック解放への支持を続け、1819年6月にグレイ伯爵が提出したカトリック解放法案に賛成、1822年6月21日に第4代[[ポートランド公爵]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク (第4代ポートランド公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク]]のカトリック貴族法案の第二読会が行われたときも支持を表明した<ref name="DNB" />。1829年に[[1829年ローマ・カトリック信徒救済法|ローマ・カトリック信徒救済法]]が可決されたときには自身の一生が「無駄」({{lang|en|in vain}})ではなかったと喜んだ<ref name="ODNB" />。 |
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1834年1月12日に{{仮リンク|ドロップモア・パーク|en|Dropmore Park|label=ドロップモア・ロッジ}}で死去、{{仮リンク|バーナム (バッキンガムシャー)|en|Burnham, Buckinghamshire|label=バーナム}}で埋葬された<ref name="Cokayne">{{Cite book2|editor-last=Cokayne|editor-first=George Edward|editor-link=ジョージ・エドワード・コケイン|year=1892|title=Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (G to K)|volume=4|edition=1st|location=London|publisher=George Bell & Sons|language=en|pages=92–93|url=https://archive.org/details/completepeerage02cokagoog/page/n105}}</ref>。後継者がおらず、爵位は廃絶した<ref name="Cokayne" />。 |
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== 爵位 == |
== 爵位 == |
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1790年11月25日に以下の爵位を新規に叙された<ref name="CP BG" />。 |
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*'''バッキンガム州におけるウォトン=アンダー=バーヌウッドの初代[[グレンヴィル男爵]]''' <small>(1st Baron Grenville, of Wotton-under-Bernewood in the County of Buckingham)</small> |
*'''バッキンガム州におけるウォトン=アンダー=バーヌウッドの初代[[グレンヴィル男爵]]''' <small>(1st Baron Grenville, of Wotton-under-Bernewood in the County of Buckingham)</small> |
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*: |
*:([[勅許状]]による[[グレートブリテン貴族]]爵位) |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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[[File:Elisabeth Vigée-Lebrun - Portrait of Anna Pitt as Hebe - WGA25079.jpg|thumb|right|グレンヴィルの妻アン。[[エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン]]画、1792年。]] |
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1792年に初代{{仮リンク|キャメルフォード男爵|en|Baron Camelford}}{{仮リンク|トマス・ピット (初代キャメルフォード男爵)|label=トマス・ピット|en|Thomas Pitt, 1st Baron Camelford}}([[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|大ピット]]の大甥)の娘アン(1772年9月10日 – 1864年6月13日)と結婚したが、子供はなかった<ref name="CP BG" />。 |
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== 評価 == |
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[[ブリタニカ百科事典第11版]]によると、グレンヴィルは最高の才能を有さなかったが、率直で勤勉であり、また政治の知識も持ち合わせた<ref name="EB1911" />。さらに持論が穏健だったため、政治における影響力を確保する結果となった<ref name="EB1911" />。[[英国人名事典]]も同様の評価を下したものの、物腰が冷淡で人気はなかったとも評した<ref name="DNB" />。また、性格が父に似たとした<ref name="DNB" />。 |
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[[ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ヴォークス男爵)|初代ブルーム=ヴォークス男爵ヘンリー・ブルーム]]は回想録でグレンヴィルの勤勉さについて実例を挙げた。1807年に{{仮リンク|スコットランド民事上級裁判所|en|Court of Session}}({{lang|en|Court of Session}})の改革案が提出されたが、グレンヴィルはそれまで民事上級裁判所について知らなかったにもかかわらず、「改革案について優れた演説をし、グレンヴィルが述べたスコットランド法に関する論点の誤りを指摘できる法律家はいなかった」という<ref name="DNB" />。 |
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英国人名事典は党派的立場という面において、グレンヴィルは無定見であるとしたが、その理由を[[フランス革命]]への警戒と、強圧的な政策の有効性への信頼に帰した<ref name="DNB" />。ただし、カトリック解放をめぐってはそれを2度も堅持して(外務大臣と首相を)辞任し、2度目の辞任以降はカトリック解放への堅持が官職就任を不可能にした理由にもかかわらずそれを曲げなかったという<ref name="DNB" />。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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*{{Cite book|和書|author= |
*{{Cite book|和書|author=小松春雄|authorlink=小松春雄|date=1983年|title=イギリス政党史研究 エドマンド・バークの政党論を中心に|publisher=[[中央大学出版部]]|asin=B000J7DG3M|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|first=G.M|last=トレヴェリアン|translator=[[大野真弓]]| |
*{{Cite book|和書|first=G.M|last=トレヴェリアン|translator=[[大野真弓]]|date=1975年|title=イギリス史 3|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020370|ref=harv}} |
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*{{Cite book|和書|author1= |
*{{Cite book|和書|author1=松村赳|authorlink1=松村赳|author2=富田虎男|authorlink2=富田虎男|date=2000年|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*{{NPG name}} |
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*{{UK National Archives ID}} |
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*{{Hansard-contribs|mr-william-grenville|William Grenville}} |
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⚫ | {{s-ttl|title=[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|バッキンガムシャー選挙区|en|Buckinghamshire (UK Parliament constituency)}}選出)|years=[[1784年イギリス総選挙|1784年]] – [[1790年イギリス総選挙|1790年]]|with={{仮リンク|ジョン・オーブリー (第6代準男爵)|label=サー・ジョン・オーブリー|en|Sir John Aubrey, 6th Baronet}} 1784年 – 1790年|with2={{仮リンク|ラルフ・バーニー (第2代ヴァーニー伯爵)|label=第2代バーニー伯爵|en|Ralph Verney, 2nd Earl Verney}} 1790年}} |
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{{s-aft|after={{仮リンク|コンスタンチン・フィップス (第2代マルグレイヴ男爵)|label=第2代マルグレイヴ男爵|en|Constantine Phipps, 2nd Baron Mulgrave}}<br />[[ジェイムズ・グラハム (第3代モントローズ公爵)|グラハム侯爵]]}} |
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2024年11月22日 (金) 21:17時点における最新版
初代グレンヴィル男爵 ウィリアム・グレンヴィル William Grenville 1st Baron Grenville | |
---|---|
ジョン・ホプナー画のグレンヴィル卿 | |
生年月日 | 1759年10月25日 |
没年月日 | 1834年1月12日(74歳没) |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | ホイッグ党→小ピット派トーリー党→ホイッグ党 |
称号 | 初代グレンヴィル男爵、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | アン(旧姓ピット) |
親族 | ジョージ・グレンヴィル(父)、ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル(長兄)、トマス・グレンヴィル(次兄)、小ピット(従兄) |
サイン | |
在任期間 | 1806年2月11日 - 1807年3月31日 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 | 第一次小ピット内閣 |
在任期間 | 1789年6月5日 - 1791年6月8日 |
内閣 | 第一次小ピット内閣 |
在任期間 | 1791年6月8日 - 1801年2月20日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
バッキンガム選挙区 バッキンガムシャー選挙区 |
在任期間 |
1782年 - 1784年 1784年 - 1790年 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1790年 - 1834年 |
初代グレンヴィル男爵ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル(英語: William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville, PC PC (Ire)、1759年10月25日 - 1834年1月12日)は、イギリスの政治家、貴族。
首相ジョージ・グレンヴィルの三男であり、1782年に庶民院議員に当選して政界入り。はじめ従兄にあたる小ピットに近い立場を取り、その第1次内閣で閣僚職を歴任した。特に外務大臣を1791年から1801年までの長期間にわたって務め、対仏強硬外交を主導した。1801年に小ピットが辞職した際には一緒に辞職したが、この下野時に小ピットと疎遠になり、ホイッグ党のチャールズ・ジェームズ・フォックスに接近、1806年にはフォックスたちとともに「挙国人材内閣」を成立させ、その首相(在職:1806年2月11日 – 1807年3月31日)となった。イギリス本国における奴隷貿易廃止を実現した。しかしフォックスの急死や、カトリック解放問題をめぐって国王ジョージ3世と対立を深めたことで辞職に追い込まれた。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1759年10月25日、後に首相を務める政治家ジョージ・グレンヴィル(1712年 – 1770年11月)とその妻エリザベス(1769年12月5日没、第3代準男爵サー・ウィリアム・ウィンダムの娘)の間の三男としてバッキンガムシャーに生まれる。長兄に後に初代バッキンガム侯爵に叙されるジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル、次兄にトマス・グレンヴィルがいる[1]。
1770年から1776年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1776年12月14日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1780年にB.A.の学位を修得した[3]。1780年4月6日にリンカーン法曹院に入学[3][4]、1782年まで在学したが、弁護士資格免許は取得しなかった[5]。
イートン・カレッジへの入学に前後して両親が死去、さらにオックスフォード大学在学中の1779年には後見人で伯父にあたる第2代テンプル伯爵リチャード・グレンヴィル=テンプルも死去したため、両親の末男であるグレンヴィルは兄ジョージからの援助に頼ることになった[5]。そのため、政界入り直後は兄と共同歩調をとることが多かったが、兄は1783年末にチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案を否決させるにあたり国王への影響力を濫用した[注釈 1]として批判され、官職辞任を余儀なくされた[5]。
リンカーン法曹院在学中にグースツリーズ(Goosetree's)という、新米議員や選挙出馬を検討している人物が集まるクラブに加入、そこで後に首相となる従兄の小ピットとも会ったが、2人は1782年末まではそれほど親しくなかったという[5]。
政界入りし、小ピット内閣で閣僚歴任
[編集]1782年2月にバッキンガム選挙区から選出され[7][注釈 2]、ホイッグ党所属の庶民院議員となった[9]。1784年からはバッキンガムシャー選挙区から選出される。以降1790年にグレンヴィル男爵に叙されて貴族院議員に転じるまでこの議席を維持した[9]。
政界入りした1782年2月はノース内閣の末期にあたり(首相ノース卿は1782年3月に辞任[10])、グレンヴィルは庶民院議員に就任してすぐに採決で野党の一員として投票した[7]。続く第2次ロッキンガム侯爵内閣では政権を支持、同年7月にシェルバーン伯爵内閣が成立すると、9月にアイルランド担当大臣に就任する[注釈 3]とともにアイルランド枢密顧問官(PC(Ire)、1782年9月15日就任)に列した[9]。
1783年3月に兄ジョージがアイルランド総督を辞任、4月にフォックス=ノース連立内閣が成立すると、ウィリアムも6月にアイルランド担当大臣を辞した[7]。また、1783年1月から2月にかけて、ロンドンで権利放棄法(Renunciation Act)をめぐる交渉を行っていたときに小ピットと親しい友人になり、4月には連立内閣の倒閣をめぐり小ピットに協力することに同意した[5]。
1783年12月には小ピットが首相となり、彼の長期政権で閣僚職を歴任することになる[11]。同12月31日にイギリス枢密顧問官(PC)に列し、1784年1月に陸軍支払長官に就任した[7]。1784年3月に商務庁委員に就任[7]、1786年から1789年にかけては商務庁副長官を務めた[9]。1786年末には叙爵の申請を検討するようになったが、このときは庶民院を離れることを躊躇し、一旦は諦めた[7]。
1789年1月に庶民院議長チャールズ・ウルフラン・コーンウォールが死去すると、グレンヴィルは1月5日にその後任に当選したが、6月には内務大臣への任命により庶民院議長を辞任した[7]。その後、1789年から1791年まで内務大臣を[9]、1790年から1793年までインド庁長官を務めた[9]。1790年イギリス総選挙では無投票で再選したが、議会の開会日にグレンヴィル男爵に叙され、貴族院議員に転じた[2]。この叙爵は小ピットが手配したものだったが、大法官の初代サーロー男爵エドワード・サーローの抑止力とするという思惑もあった[2][注釈 4]。グレンヴィルは叙爵に喜んだが、叙爵は同時に責務が増えることと、庶民院で株を上げてきた時点で貴族院に移籍しなければならないことを意味した[5]。
1791年から1801年という長期間にわたって外務大臣を務めた[9]。グレンヴィルは外交について最初は楽観視して、1791年8月の手紙でシストヴァ条約に喜び、1792年11月の手紙で対仏戦争の不参戦に賛同したが、イギリスが対仏戦争に巻き込まれた後に書いた手紙(1794年9月)では「フランス共和国の確立がヨーロッパの全ての政府の転覆を意味する」(in the establishment of the French republic is included the overthrow of all the other governments of Europe)とし、「2つの政治制度が存在をかけている」(the existence of the two systems of government was fairly at stake)という意見を述べた[4]。そのためか、グレンヴィルは閣議で講和交渉が持ち上がるごとに強硬策を主張したという[4]。このように、フランス革命戦争からナポレオン戦争初期までの対フランス強硬外交を主導した[11]。小ピットは外交面に不得手なところがあり、グレンヴィルに頼る部分は大きかったという[13]。グレンヴィルの強硬策は貴族院でも支持を受け、1800年初の戦争継続をめぐる動議は賛成92票、反対6票で可決された[4]。
一方で外務大臣就任以降も内政への関与も続け、1793年5月22日に人身保護法停止法案(Habeas Corpus Suspension Act)の第一読会を動議、その日のうちに貴族院の第三読会まで通過させたほか、1795年11月に反逆行為法案を、12月に扇動集会法案を提出した[4]。また、1799年3月にはグレートブリテン王国とアイルランド王国の合同を支持して4時間にわたる演説をした[4]。
野党として
[編集]1801年に小ピットがカトリック解放問題に躓いて辞職した際には彼も一緒に辞職した[11]。その引き金になったのは、グレートブリテン王国とアイルランド王国の合同に伴い連合王国議会が成立したとき、カトリック信者にも議員就任の権利を与えることをジョージ3世に拒否されたことだった[5]。この下野時、ヘンリー・アディントン(後の初代シドマス子爵)内閣に対する野党活動を行うことを小ピットに進言したが、小ピットは「党派を形成して陛下の政府に反抗することは罪悪」という価値観を持つ政党政治反対派だったので、明確な反対党領袖にはなりたがらなかった[14]。
この件でグレンヴィルは小ピットを見限り、「新しい反対党」と称する反対党派を自ら形成した。「新しい」というのはホイッグ党のチャールズ・ジェームズ・フォックスを「古い反対党」と揶揄したものである。しかし結局1804年1月にはフォックスたちに接近を図った。流れに取り残されることを恐れた小ピットもこれとは別に反対党を形成し、アディントン政権攻撃を開始するようになった。小ピットの閣外協力に期待していたアディントンは1804年5月に辞職を余儀なくされ、小ピットが再び組閣の大命を受けた[15]。
小ピットと疎遠になっていたグレンヴィルは入閣せず[注釈 5]、フォックスとともに反対党を続けたが、小ピットは首相再任からわずか2年後の1806年1月に病死した。ジョージ3世は後任首相の選定に苦慮したが、結局第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクから「アウステルリッツ後の状況を鑑み、反対党に組閣させるのが得策」との助言を受けたことでグレンヴィルに組閣の大命を与えることにした[15]。
「挙国人材内閣」組閣
[編集]1806年2月に組閣したグレンヴィル内閣は、フォックスたちの入閣でトーリー・ホイッグ横断的な内閣となったので、「挙国人材内閣」と呼ばれた(ただしピット派は参加せず)。同内閣は「ホイッグ党内閣」に分類されることも多いが、グレンヴィル卿自身は正式のホイッグ党員ではなく、またホイッグからの入閣者は5人だけだったため、そう定義できるかは疑問視されている[17]。
フォックスらホイッグ領袖が入閣したことによりグレンヴィル内閣の政治改革への機運は高く、イギリス本国における奴隷貿易廃止はこの内閣で取り決められた[18]。カトリック解放にも取り組もうとしたが[4]、外交ではフランスとの交渉が決裂した上、海外遠征もことごとく失敗した[4]。また、内閣の重しであるフォックスが1806年9月に病死したことで閣内の不協和音が高まった[11]。その後、カトリック解放をめぐり国王ジョージ3世と対立した結果、1807年3月に辞職に追い込まれた[17]。
奴隷貿易廃止
[編集]グレンヴィル自身は1780年代より奴隷貿易廃止を支持しており[5]、1789年5月の奴隷貿易に関する決議案の弁論ではウィリアム・ウィルバーフォースの演説を「庶民院、イングランド人民、ひいては全ヨーロッパの人民、そして後世の人々の感謝に値する」(entitled him to the thanks of the house, of the people of England, of all Europe, and of the latest posterity)と激賞した[4]。そして、ウィルバーフォースによる奴隷貿易廃止運動が盛り上がる中、1806年には海外奴隷貿易法(Foreign Slave Trade Act)を可決させ、イギリスが占領した他国の植民地にイギリス国民が奴隷を輸入することを禁じた[5]。
1807年1月2日に奴隷貿易廃止法案を提出した後[4]、グレンヴィルは貴族院で演説して法案への支持を訴え、2月5日に法案を第二読会に提出するときはイギリス本国で奴隷貿易を禁止すれば、他国もイギリスの海上封鎖により奴隷貿易を継続できないと力説した[19]。その後、法案は可決され、3月25日に国王の裁可を受けた[4](ただし、大英帝国植民地においては奴隷貿易が合法のままとなった[18])。
奴隷貿易廃止の立役者は一般的には全国レベルの奴隷制度廃止運動の指導者たるウィルバーフォースに帰するが、現代ではグレンヴィルも奴隷貿易廃止を議会立法として推進するという重要な役割を果たしたとして評価されている[5]。
アイルランド対策
[編集]グレンヴィルのアイルランド政策は諸派の和解を試みることであり、その目的はアイルランドから選出された議員を味方につけることだった[5]。アイルランド政界のプロテスタントはグレートブリテン王国との合同の支持派と反対派とで分裂していたが、グレンヴィルは両派への利益分配を均等割りにし、一方カトリックに対しては少数ながら官職任命を行い、またカトリック解放運動のパトロンとして行動した[5]。
しかし、カトリック解放運動のパトロンになることは同時に爆弾を抱え込むことになった。すなわち、アイルランドのカトリックは1806年イギリス総選挙の後にカトリック解放請願を議会に提出しようとしたが、そうするとグレンヴィルはカトリック解放運動のパトロンとして賛成せざるを得なくなる[5]。これは確実にジョージ3世の不興を買うことになり、結果的には内閣の崩壊を招くので、グレンヴィルは代わりにカトリックが陸軍で大将まで昇進できるようにする法案を提出、アイルランドのカトリックをなだめようとした[5]。
グレンヴィルはジョージ3世に法案を認めさせようと努力したが、ジョージ3世は裁可を与えないと表明、さらに内閣にカトリック問題を二度と提起しないことへの約束を要求した[5]。これによりグレンヴィルは法案を取り下げたが、カトリック問題を提起しない約束は拒否[5]、結果的には1807年3月に辞職に追い込まれた[17]。
首相退任後
[編集]代わってポートランド公爵内閣が成立。同内閣はすぐに解散総選挙を行ったが、このときの選挙で曖昧になっていたホイッグとトーリーの色分けが復活し、国王のグレンヴィル解任を支持する者たちが「トーリー」、反対する者たちが「ホイッグ」となった。つまりグレンヴィル卿はホイッグということになった[17]。1809年にポートランド公爵内閣が倒れると、グレンヴィルと第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイを政権に就ける動きがあり、1811年初には摂政王太子がパーシヴァル内閣の更迭を検討したが、いずれも実現しなかった[4]。
ポートランド公爵の死に伴いオックスフォード大学学長が空位になったが、その後任選挙においてはグレンヴィル、初代エルドン男爵ジョン・スコット、第6代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットの3人が出馬、選挙戦が白熱した[4]。しかし、エルドン男爵もボーフォート公爵もトーリー党所属だったため票が割れ、結局はグレンヴィル406票、エルドン393票、ボーフォート288票でグレンヴィルが当選した[4]。これによりグレンヴィルは1809年12月23日にD.C.L.の学位を授与され[3]、1810年1月10日に学長に就任[4]、以降1834年まで学長を務めた[3]。
首相退任後には再び官職につくことはなかったが、政界への関与を続けた[16]。また、ホイッグ党の指導者の1人として行動し、貴族院での採決は概ねホイッグ党を支持したが[16]、オックスフォード英国人名事典によればフォックス派との政見の違いが多く[注釈 6]、1812年に一旦グレンヴィル派とフォックス派の間で妥協がなされたが、1815年にはナポレオン戦争が終結するなど情勢が変わり、1817年までにホイッグ党の指導者の座を完全にグレイ伯爵に譲った[5]。1823年に麻痺を起こした後、バッキンガムシャーのドロップモア(Dropmore)で引退生活を送ったが[4][11]、以降も1828年に減債基金廃止を支持するパンフレットの出版などで一定の影響力を有した[5]。
ホイッグ党の指導者から降りた後も一貫してカトリック解放への支持を続け、1819年6月にグレイ伯爵が提出したカトリック解放法案に賛成、1822年6月21日に第4代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンクのカトリック貴族法案の第二読会が行われたときも支持を表明した[4]。1829年にローマ・カトリック信徒救済法が可決されたときには自身の一生が「無駄」(in vain)ではなかったと喜んだ[5]。
1834年1月12日にドロップモア・ロッジで死去、バーナムで埋葬された[20]。後継者がおらず、爵位は廃絶した[20]。
爵位
[編集]1790年11月25日に以下の爵位を新規に叙された[9]。
- バッキンガム州におけるウォトン=アンダー=バーヌウッドの初代グレンヴィル男爵 (1st Baron Grenville, of Wotton-under-Bernewood in the County of Buckingham)
- (勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
家族
[編集]1792年に初代キャメルフォード男爵トマス・ピット(大ピットの大甥)の娘アン(1772年9月10日 – 1864年6月13日)と結婚したが、子供はなかった[9]。
評価
[編集]ブリタニカ百科事典第11版によると、グレンヴィルは最高の才能を有さなかったが、率直で勤勉であり、また政治の知識も持ち合わせた[16]。さらに持論が穏健だったため、政治における影響力を確保する結果となった[16]。英国人名事典も同様の評価を下したものの、物腰が冷淡で人気はなかったとも評した[4]。また、性格が父に似たとした[4]。
初代ブルーム=ヴォークス男爵ヘンリー・ブルームは回想録でグレンヴィルの勤勉さについて実例を挙げた。1807年にスコットランド民事上級裁判所(Court of Session)の改革案が提出されたが、グレンヴィルはそれまで民事上級裁判所について知らなかったにもかかわらず、「改革案について優れた演説をし、グレンヴィルが述べたスコットランド法に関する論点の誤りを指摘できる法律家はいなかった」という[4]。
英国人名事典は党派的立場という面において、グレンヴィルは無定見であるとしたが、その理由をフランス革命への警戒と、強圧的な政策の有効性への信頼に帰した[4]。ただし、カトリック解放をめぐってはそれを2度も堅持して(外務大臣と首相を)辞任し、2度目の辞任以降はカトリック解放への堅持が官職就任を不可能にした理由にもかかわらずそれを曲げなかったという[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ テンプル伯爵はジョージ3世の許可を受けて、「東インド法案に賛成票を投じた人は国王の友ではないばかりか、国王により敵として扱われる」(whoever voted for the India Bill was not only not his friend, but would be considered by him as an enemy)と発言した[6]。
- ^ バッキンガム選挙区はグレンヴィル家の懐中選挙区であり[8]、1782年の補欠選挙においてもウィリアムが兄の支持を受けた結果としての当選である[7]。
- ^ 長兄ジョージがアイルランド総督に就任したことも関係したとされる[7]。
- ^ サーローはノース内閣期の1778年に大法官に任命され、フォックス=ノース連立内閣の成立(1783年)に伴い辞任したが、同年末に小ピットが首相に就任すると大法官に復帰した[12]。小ピット内閣期では小ピットと共同歩調をとることも多かったが、1745年ジャコバイト蜂起で財産を没収された人物の子孫に財産を返還する法案に反対(1784年8月16日)、1788年の摂政法問題をめぐり王太子ジョージや野党ホイッグ党と秘密交渉を行うなど、小ピットの立場に反する行動も多かった[12]。後者についてはホイッグ党のチャールズ・ジェームズ・フォックスがサーローを信用していないことと、国王ジョージ3世の体調が回復してきたことで王太子ジョージの立場が不利になったことにより、サーローは与党の立場に回帰したが、ホイッグ党との秘密交渉が小ピットに露見したため小ピットから不信感をもたれた[12]。そのため、サーローは小ピットの盟友とみられたグレンヴィルの叙爵に憤慨したという[12]。
- ^ グレンヴィルは入閣の条件にフォックスの入閣を提示したが[16]、ジョージ3世は小ピットに組閣の大命を下したときに「フォックスを入閣させない」「カトリック解放を主張しない」ことを条件にしたため、グレンヴィルは入閣を辞退した[5]。グレンヴィルとフォックスの政治観は奴隷貿易廃止とカトリック解放への支持という2点のみ共通点としていたが、グレンヴィルがフォックスの入閣を条件にした目的は小ピットを首班とする大連立を成立させるためだった[5]。しかし小ピットはグレンヴィルの入閣拒否に怒り、2人の友情はここに終わったという[4]。
- ^ グレンヴィルがナポレオン戦争における防衛戦争の継続を支持、カトリック解放を行いつつプロテスタント支配層の優位を維持すべきであると主張、議会改革に反対したが、フォックス派の大半がナポレオン戦争の講和を支持、カトリック解放を「プロテスタント支配層の優位維持」との前提なしに行うべきと主張、議会改革に賛成した[5]。
出典
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参考文献
[編集]- 小松春雄『イギリス政党史研究 エドマンド・バークの政党論を中心に』中央大学出版部、1983年。ASIN B000J7DG3M。
- トレヴェリアン, G.M 著、大野真弓 訳『イギリス史 3』みすず書房、1975年。ISBN 978-4622020370。
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
外部リンク
[編集]- ウィリアム・グレンヴィル - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "ウィリアム・グレンヴィルの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by William Grenville
グレートブリテン議会 | ||
---|---|---|
先代 ジェイムズ・グレンヴィル リチャード・アルドワース=ネヴィル |
庶民院議員(バッキンガム選挙区選出) 1782年 – 1784年 同職:ジェイムズ・グレンヴィル |
次代 ジェイムズ・グレンヴィル チャールズ・ニュージェント |
先代 第2代ヴァーニー伯爵 トマス・グレンヴィル |
庶民院議員(バッキンガムシャー選挙区選出) 1784年 – 1790年 同職:サー・ジョン・オーブリー 1784年 – 1790年 第2代バーニー伯爵 1790年 |
次代 第2代ヴァーニー伯爵 ジェイムズ・グレンヴィル |
公職 | ||
先代 リチャード・フィッツパトリック |
アイルランド担当大臣 1782年 – 1783年 |
次代 ウィリアム・ウィンダム |
先代 エドマンド・バーク |
陸軍支払長官 1784年 – 1789年 |
次代 第2代マルグレイヴ男爵 グラハム侯爵 |
新設 | 通商庁副長官 1786年 – 1789年 |
次代 グラハム侯爵 |
先代 チャールズ・コーンウォール |
庶民院議長 1789年 |
次代 ヘンリー・アディントン |
先代 初代シドニー男爵 |
内務大臣 1789年 – 1791年 |
次代 ヘンリー・ダンダス |
インド庁長官 1790年 – 1793年 | ||
先代 第5代リーズ公爵 |
貴族院院内総務 1790年 – 1801年 |
次代 第4代ホバート男爵 |
外務大臣 1791年 – 1801年 |
次代 ハークスベリー男爵 | |
先代 第2代ニューカッスル公爵 |
国庫管理長官 1794年 – 1834年 |
次代 初代オークランド伯爵 |
先代 小ピット |
首相 1806年2月11日 – 1807年3月31日 |
次代 第3代ポートランド公爵 |
先代 第2代ハークスベリー男爵 |
貴族院院内総務 1806年 – 1807年 |
次代 第2代ハークスベリー男爵 |
学職 | ||
先代 第3代ポートランド公爵 |
オックスフォード大学総長 1809年 – 1834年 |
次代 初代ウェリントン公爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
新設 | 初代グレンヴィル男爵 1790年 – 1834年 |
廃絶 |