コンテンツにスキップ

「ヤクザ映画」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
主な映画を挙げていく記事では映画DBを参考。特定の評論本では作者が全て紹介するとは限らない。記事と合っていない出典を削除、または内容修正。WP:DEADREF
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2020年4月}}
'''ヤクザ映画'''(ヤクザえいが)とは、[[ヤクザ]]を主役とする[[映画]]。もしくは[[日本]]における[[ヤクザ]]・[[暴力団]]の対立[[抗争]]や[[任侠道]]などをモチーフとする映画カテゴリーである。'''仁侠映画'''(にんきょうえいが。同じ読みで“任侠映画”と表記する場合もあり)とも称される。
{{ページ番号|date=2020年4月}}
'''ヤクザ映画'''(ヤクザえいが)とは、[[ヤクザ]]を主役とする[[映画]]。もしくは[[日本]]における[[ヤクザ]]・[[暴力団]]の対立[[抗争]]や任侠などをモチーフとする映画カテゴリーである。'''仁侠映画'''(にんきょうえいが。同じ読みで“任侠映画”と表記する場合もあり)とも称される。


本項では、東映を筆頭に各社がこのジャンルの映画を量産した、1960年代から70年代を中心に、その後の状況までを記述する。
本項では、東映を筆頭に各社がこのジャンルの映画を量産した、1960年代から70年代を中心に、その後の状況までを記述する。


== 流行の背景 ==
== 歴史 ==
=== 前史 ===
やくざ自体を主題とする映画は、[[股旅]]物といわれる[[長谷川伸]]の『[[瞼の母]]』や[[尾崎士郎]]の『[[人生劇場]]』などがあった。第二次世界大戦後、現代的なヤクザを演じる映画が作られるようになり、[[黒澤明]]の『[[醉いどれ天使]]』([[1948年]])などが話題を集めた。また時代劇の『清水の次郎長伝』「次郎長意外伝』『次郎長富士』『国定忠治』なども制作された。『国定忠治』にいたっては1946年、58年、60年と同じ題名で何回も制作されている。
やくざ自体を主題とする映画は、[[股旅]]物といわれる[[長谷川伸]]の『[[瞼の母]]』や[[尾崎士郎]]の『[[人生劇場]]』などがあった。第二次世界大戦後、現代的なヤクザを演じる映画が作られるようになり、[[黒澤明]]の『[[醉いどれ天使]]』([[1948年]])などが話題を集めた。また時代劇の『清水の次郎長伝』「次郎長意外伝』『次郎長富士』『国定忠治』なども制作された。『国定忠治』にいたっては1946年、58年、60年と同じ題名で何回も制作されている。

日本の映画界では[[1950年代]]、[[時代劇]]ブームが起こった。しかし[[1961年]]と[[1962年]]に、無精髭を生やした[[三船敏郎]]主演の本格時代劇『[[用心棒]]』、『[[椿三十郎]]』がヒットすると、従来の時代劇は[[浪人]]も貧しい[[町人]]もヤクザもきれいな厚化粧をしており、[[刀]]で斬っても[[血]]も[[音]]も出ない[[歌舞伎]]調のものであっそれらの作品の客足はみるみる減っていった。「時代劇の[[東映]]」と言われ、観客動員No.1だった東映は、他社のように現代劇でカバーできず、深刻な影響を受けた。


[[1960年代]]から始まったヤクザ映画は、より“図式的な対立の構図”を前面に出していくようになった。これは、[[戦前]]から続いていた大衆芸能が完全に廃れた[[高度成長期]]において、観客も娯楽としての映画に“分かり易い[[プロット]]”を好んだ結果という見方もある。
[[1960年代]]から始まったヤクザ映画は、より“図式的な対立の構図”を前面に出していくようになった。これは、[[戦前]]から続いていた大衆芸能が完全に廃れた[[高度成長期]]において、観客も娯楽としての映画に“分かり易い[[プロット]]”を好んだ結果という見方もある。


=== やくざ映画という呼称 ===
== ヤクザ映画という呼称 ==
[[東映]]は1963年に[[鶴田浩二]]主演『[[人生劇場 飛車角]]』を封切り、成功<ref name="キネ旬1971810">[[#キネ旬1971810]]、116-126頁</ref>。翌1964年、初の本格的ヤクザ映画『[[博徒シリーズ|博徒]]』(鶴田主演)や[[高倉健]]主演『[[日本侠客伝]]』もヒットしたため、これらをシリーズ化する。東映自ら「やくざ路線」と言い<ref name="キネ旬1971810"/>、他社にも波及すると、映画[[ジャーナリズム]]は一括して「ヤクザ映画」と呼びはじめたのである<ref name="キネ旬1971810"/>。
「やくざ映画」という呼称が一般化したのは、その東映の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]](のち同社社長)が[[1963年]]に[[鶴田浩二]]主演でプロデュースした『[[人生劇場 飛車角]]』を大ヒットさせてからである<ref name="キネ旬1971810">[[#キネ旬1971810]]、116-126頁</ref>。翌1964年には初の本格的ヤクザ映画『[[博徒シリーズ|博徒]]』(鶴田主演)も生まれ、同時期から[[高倉健]]主演『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』も大ヒットし、これらをシリーズ化、不振の時代劇から方針転換してヤクザ映画を量産し始めた<ref name="キネ旬1971810"/><ref name="toeininkyo">[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕]</ref><ref name="deagostini東映任侠">[http://deagostini.jp/tnd/?utm_source=yahoo_lis&utm_medium=cpc&utm_campaign=tnd 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション]</ref>。その数が急増するにつれて、東映自ら一連の企画を「やくざ路線」と呼称しはじめた<ref name="キネ旬1971810"/>。この「やくざ路線」的な企画が他社にも波及しはじめたとき、[[ジャーナリズム]]がそれらを一括して「やくざ映画」と呼びはじめたのである<ref name="キネ旬1971810"/>。明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画が作られたことはそれまでにもないではないが、それがかくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてのことであった<ref name="キネ旬1971810"/>。「やくざ映画」という呼称は、最初は戦前派侠客の映画を指していた。しかし一度この名称が成立すると、それはやくざ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも「やくざ映画」と呼ばれるようになったのが1970年頃の状況だった<ref name="キネ旬1971810"/>。今日東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれることが多いが「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる<ref>楠本憲吉編『任侠映画の世界』荒地出版社、1969年、『キネマ旬報増刊』1971年3月20号「任侠映画大全集」など。</ref>。東映は1960年代半ばから[[東映京都撮影所|京都撮影所]]の[[リストラ]]を進め、従来型の時代劇は[[テレビ]]用に制作、[[映画館]]用には本格ヤクザ映画を作り、観客動員No.1に返り咲き、興行的にも成功した<ref name="nikkeibp">[http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】]</ref><ref name="toeikyoto">[http://www.toei-kyoto.com/about/hisory.html 東映京都のあゆみ - 東映京都ナビ]</ref>。


それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである<ref name="キネ旬1971810"/>。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景とした[[ギャング映画]]や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降<ref name="キネ旬1971810"/>。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる<ref>楠本憲吉編『任侠映画の世界』荒地出版社、1969年。</ref><ref>『キネマ旬報増刊』1971年3月20号「任侠映画大全集」など。</ref>。
== 東映 ==
"任侠映画"というと今日東映作品を指すケースも多く<ref name="女優富司">[[#女優富司]]、83頁</ref>、1960年代に始まって同年代後半には[[プログラムピクチャー]]の過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルを指す<ref name="女優富司"/>。1973年に『[[仁義なき戦い]]』が大ヒットして以降の実話を元にした映画を"[[実録シリーズ]]"、"[[実録シリーズ|実録ヤクザ映画]]"などと呼んだため、これらと区別するため、それまでの実話でないヤクザ映画を"任侠映画"と呼ぶようになった。これらはほぼ全て[[岡田茂 (東映)|岡田茂]](元東映社長)と[[俊藤浩滋]]の両[[プロデューサー]]によって製作された<ref name="toeininkyo"/><ref name="nikkeibp"/><ref name="deagosti東映任俠スタッフ">[http://deagostini.jp/site/tnd/pretop/director.html 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI ]</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110510-773480.html 鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん - 日刊スポーツ]、[http://www.cinematoday.jp/page/N0033507 暴力とセックスはあたりまえ!ヤクザ、スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝]、[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41305 高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る。 - 現代ビジネス - isMedia]、[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol5/yan5.pdf 「斜陽化」に生きる東映 ―テレビに対抗した実録 映画路線(1973-1975)を中心に 楊紅雲]</ref>。 特に東映やくざ映画に果たした俊藤浩滋の役割は、きわめて大きかった。


1973年に『[[仁義なき戦い]]』が封切られると、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「[[実録シリーズ]]、または実録ヤクザ映画」と呼び、それまでのヤクザ映画を“任侠映画”と区別されるようになった。これらの映画は東映作品を指すケースが多く<ref name="女優富司">[[#女優富司]]、83頁</ref>、1960年代に始まって同年代後半には[[プログラムピクチャー]]の過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルと評されている<ref name="女優富司"/>。
===東映任侠路線===

1960年代から70年代にかけて、東映任侠映画は義理と人情に絡んだやくざの人間模様を描き、『[[人生劇場 飛車角]]』シリーズに始まって、『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』<ref>http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=141277</ref>、『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』、『[[昭和残侠伝]]』、『[[博奕打ちシリーズ|博奕打ち]]』、『[[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]]』、『[[日本女侠伝シリーズ|日本女侠伝]]』から『まむしの兄弟』、『仁義なき戦い』<ref>http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=144227</ref>にいたるまで、長期間人気を保持し続けた<ref name="toeininkyo"/><ref name="toeininkyohistory">[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/history.html 作品一覧|東映株式会社「任侠・実録」]</ref>。東映任侠映画は、60年代後半にはその絶頂期を迎えた。俳優は[[高倉健]]・[[菅原文太]]・[[富司純子|藤純子]]・[[鶴田浩二]]が主役になり<ref name="toeikyoto"/><ref name="deagosti東映任俠">[http://deagostini.jp/tnd/?utm_source=yahoo_lis&utm_medium=cpc&utm_campaign=tnd 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション]</ref>、[[千葉真一]]・[[若山富三郎]]・[[渡瀬恒彦]]・[[待田京介]]・[[丹波哲郎]]・[[嵐寛寿郎]]・[[安部徹]]・[[松方弘樹]]・[[山城新伍]]・[[梅宮辰夫]]、[[大原麗子]]・[[三田佳子]]が脇を添えた<ref name="deagosti東映任俠"/>。監督は[[マキノ雅弘]]・[[佐伯清]]・[[山下耕作]]・[[中島貞夫]]・[[石井輝男]]・[[加藤泰]]らがメガホンを取った<ref name="deagosti東映任俠スタッフ"/>。任侠路線は当時、サラリーマン・自営業・職人から本業の[[ヤクザ]]・[[学生運動]]の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝采を送った」という学生もいた<ref name="toeikyoto"/>。高倉健の人気は圧倒的で、映画館内には「健さん」「異議なし」などの掛け声までが飛んだという。笠原和夫脚本の『[[博奕打ち 総長賭博]]』<ref>http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=142322</ref>は、作家[[三島由紀夫]]に「ギリシア悲劇のようだ」と激賞された。
== 東映任侠路線 ==
<!--時系列順。作品が多いのでシリーズのみ。-->
1963年の[[東映東京撮影所]]による『人生劇場 飛車角』を皮切りに、義理人情に厚くヤクザの人間模様を描く作品が続々と製作されていった。同撮影所では『[[網走番外地 (東映)|網走番外地シリーズ]]』、『[[昭和残侠伝シリーズ]]』、『[[子守唄シリーズ]]』、『[[現代やくざ 与太者の掟|現代やくざシリーズ]]』、『[[関東テキヤ一家|関東テキヤ一家シリーズ]]』を、鶴田浩二・高倉健・[[千葉真一]]・[[菅原文太]]の主演で、[[石井輝男]]・[[佐伯清]]・[[ 鷹森立一]]・[[降旗康男]]・[[鈴木則文]]が監督として参画している。

一方[[東京都撮影所]]は[[1950年代]]、[[時代劇]]ブームで絶好調だったものの、[[1961年]]と[[1962年]]に、無精髭を生やした[[三船敏郎]]主演の本格時代劇『[[用心棒]]』、『[[椿三十郎]]』がヒットすると、東映京都で製作された時代劇は[[浪人]]も貧しい[[町人]]もヤクザもきれいな厚化粧をしており、[[刀]]で斬っても[[血]]も[[音]]も出ない旧来の[[歌舞伎]]、客足はみるみる減っていった。「時代劇の東映」と言われ、観客動員No.1だった東映は、他社のように現代劇でカバーできず、深刻な影響を受けた。
京都撮影所では、客が入らなくなっていた時代劇を止め、ヤクザ映画に切り替え、量産し始める<ref name="キネ旬1971810"/><ref name="toeininkyo">[http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref>。『[[博徒シリーズ]]』、『[[日本侠客伝シリーズ]]』、『[[極道シリーズ]]』、『[[緋牡丹博徒シリーズ]]』を鶴田・高倉・[[若山富三郎]]・[[富司純子|藤純子]]の主演で、[[メガホン]]を[[小沢茂弘]]・[[マキノ雅弘]]・[[山下耕作]]・鈴木・[[加藤泰]]が執った。

脇には[[嵐寛寿郎]]・[[丹波哲郎]]・[[池部良]]・[[安部徹]]・[[田中邦衛]]・[[待田京介]]・[[山城新伍]]・[[梅宮辰夫]]・[[三田佳子]]・[[松方弘樹]]・[[大原麗子]]・[[渡瀬恒彦]]などが出演していた。[[映画プロデューサー]]には[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]と[[俊藤浩滋]]がおり<ref name="toeininkyo"/><ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/free/tvwars/interview/20060203005275_print.shtml NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref><ref name="deagosti東映任俠スタッフ">[http://deagostini.jp/site/tnd/pretop/director.html 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI ]</ref>、特に俊藤は任侠路線を定着させ、次々とヒット作を世に送り出し、その功績は大きい<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41305 高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る。 - 現代ビジネス - isMedia]、</ref>。1970年代前半までサラリーマン・自営業・職人から本業の[[ヤクザ]]・[[学生運動]]の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝采を送った」という学生もいた<ref name="toeikyoto">[http://www.toei-kyoto.com/about/hisory.html 東映京都のあゆみ - 東映京都ナビ]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref>。


==松竹・東宝==
==松竹・東宝==
26行目: 32行目:


==日活・大映==
==日活・大映==
深刻な客離れにあった[[日活]]は、[[石原裕次郎]]・[[小林旭]]・[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]・[[渡哲也]]・[[野川由美子]]らを主演にしたヤクザ映画を量産したが、いずれも東映ヤクザ映画の人気には遠く及ばなかった<ref>[http://www.dgj.or.jp/feature//article/000178.html トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」【4】 - 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan]</ref>。
深刻な客離れにあった[[日活]]は、[[石原裕次郎]]・[[小林旭]]・[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]・[[渡哲也]]・[[野川由美子]]らを主演にしたヤクザ映画を量産したが、いずれも東映ヤクザ映画の人気には遠く及ばなかった<ref>[http://www.dgj.or.jp/feature//article/000178.html トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」【4】 - 日本映画監督協会 - Directors Guild of Japan]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref>。


[[大映]]は、[[江波杏子]]の『[[女賭博師]]』シリーズや[[勝新太郎]]の『[[座頭市]]』シリーズ『[[悪名]]』シリーズがヒットしたが、『悪名』に出演していた[[田宮二郎]]が1968年に大映を離れ、翌年に『[[若親分]]』シリーズの[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]が病死した頃には苦境に陥っていた。ヤクザ映画ブームの流れに乗り、延命のためヤクザ映画を市場へ供給した両社だったが、[[1971年]]に大映は倒産。日活も同年から[[日活ロマンポルノ|ロマンポルノ]]路線に転進し、石原裕次郎ら主力俳優は日活を離れた。
[[大映]]は、[[江波杏子]]の『[[女賭博師]]』シリーズや[[勝新太郎]]の『[[座頭市|座頭市シリーズ]]』『[[悪名|悪名シリーズ]]』がヒットしたが、『悪名』に出演していた[[田宮二郎]]が1968年に大映を離れ、翌年に『若親分シリーズの[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]が病死した頃には苦境に陥っていた。ヤクザ映画ブームの流れに乗り、延命のためヤクザ映画を市場へ供給した両社だったが、[[1971年]]に大映は倒産。日活も同年から[[日活ロマンポルノ|ロマンポルノ]]路線に転進し、石原裕次郎ら主力俳優は日活を離れた。


==その後==
==その後==
[[1980年代]]から[[レンタルビデオ]]による映画供給が可能となった。これを受けて東映は、映画館での上映を考慮せず、ビデオカセットのみで発売される作品として、東映の子会社「[[東映ビデオ]]」から「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」と呼ばれる多数のヤクザ映画を発売し、成功をおさめた。それに追従して[[GPミュージアムソフト]]など、独立系のビデオ映画の制作会社が多数設立された。[[哀川翔]]・[[竹内力]]・松方弘樹・[[小沢仁志]]・[[清水健太郎]]・[[中条きよし]]・[[白竜 (俳優)|白竜]]・[[清水宏次朗]]・[[的場浩司]]ら主演の、低予算ヤクザ映画が量産され、『[[難波金融伝・ミナミの帝王]]』など「金融ヤクザ映画」とも呼ぶべき新ジャンルも存在する。
[[1980年代]]から[[レンタルビデオ]]による映画供給が可能となった。これを受けて東映は、映画館での上映を考慮せず、ビデオカセットのみで発売される作品として、東映の子会社「[[東映ビデオ]]」から「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」と呼ばれる多数のヤクザ映画を発売し、成功をおさめた。それに追従して[[GPミュージアムソフト]]など、独立系のビデオ映画の制作会社が多数設立された。[[哀川翔]]・[[竹内力]]・松方弘樹・[[小沢仁志]]・[[清水健太郎]]・[[中条きよし]]・[[白竜 (俳優)|白竜]]・[[清水宏次朗]]・[[的場浩司]]ら主演の、低予算ヤクザ映画が量産され、『[[難波金融伝・ミナミの帝王]]』など「金融ヤクザ映画」とも呼ぶべき新ジャンルも存在する。


日本のヤクザ映画は海外でも注目を集め、その影響を強く受けた映画も登場した。ハリウッドでは[[ロバート・ミッチャム]]が、高倉健主演の『[[ザ・ヤクザ]]』や『[[ブラック・レイン]]』(1989年)<ref>松田優作が出演している。優作の遺作となった映画</ref>を制作。[[アメリカ合衆国|米国]]以外では[[フランス]]・[[イタリア]]・[[香港]]・[[台湾]]・[[韓国]]でヤクザ映画を意識した作品が製作されている。代表的な監督には[[クエンティン・タランティーノ]]<ref>梶芽衣子のファン</ref>がいる([[キル・ビル]]など多数)。
日本のヤクザ映画は海外でも注目を集め、その影響を強く受けた映画も登場した。ハリウッドでは[[ロバート・ミッチャム]]が、高倉健主演の『[[ザ・ヤクザ]]』や『[[ブラック・レイン]]』(1989年)を制作。[[アメリカ合衆国|米国]]以外では[[フランス]]・[[イタリア]]・[[香港]]・[[台湾]]・[[韓国]]でヤクザ映画を意識した作品が製作されている。代表的な監督には[[クエンティン・タランティーノ]]がいる([[キル・ビル]]など多数)。


現在はレンタルビデオ・DVDでの鑑賞が中心だが、かつては「ヤクザ映画」の上映に特化した映画館もあった。東京では[[新宿昭和館]]([[2002年]]閉館)・浅草名画座[http://www.e-asakusa.net/meigaza/]([[2012年]]10月閉館)、大阪の[[新世界 (大阪)#主な劇場|新世界東映]]・[[新世界 (大阪)#主な劇場|日劇会館]](2012年8月に[[成人映画館|ゲイ映画館]]に転換)、神戸の福原国際東映(現在は成人映画を上映)などが有名であった。
現在はレンタルビデオ・DVDでの鑑賞が中心だが、かつては「ヤクザ映画」の上映に特化した映画館もあった。東京では[[新宿昭和館]]([[2002年]]閉館)・浅草名画座[http://www.e-asakusa.net/meigaza/]([[2012年]]10月閉館)、大阪の[[新世界 (大阪)#主な劇場|新世界東映]]・[[新世界 (大阪)#主な劇場|日劇会館]](2012年8月に[[成人映画館|ゲイ映画館]]に転換)、神戸の福原国際東映(現在は成人映画を上映)などが有名であった。
39行目: 45行目:
[[2006年]]4月より[[経済産業省]]の指導で[[コンピュータエンターテインメント協会|CESA]]、[[コンピュータソフトウェア倫理機構]]、[[日本アミューズメントマシン工業協会]]、[[映倫管理委員会]]、[[日本ビデオ倫理協会]]と[[映像コンテンツ倫理連絡会議]](仮称)において審査基準・表示の一本化を協議することが決定している。それに伴い、年齢指定が変わる可能性がある。
[[2006年]]4月より[[経済産業省]]の指導で[[コンピュータエンターテインメント協会|CESA]]、[[コンピュータソフトウェア倫理機構]]、[[日本アミューズメントマシン工業協会]]、[[映倫管理委員会]]、[[日本ビデオ倫理協会]]と[[映像コンテンツ倫理連絡会議]](仮称)において審査基準・表示の一本化を協議することが決定している。それに伴い、年齢指定が変わる可能性がある。


[[沖縄県]]では1990年代前半に県内で起きた暴力団抗争以後、テレビ放送並びに上映を自粛している。東京キー局でテレビ放送される場合は、沖縄のみ差し替えられることも少なくない(特に他系列ネットの場合)。一例を挙げると[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[金曜ロードショー]]」でネットされた『[[極道の妻たち]]』<ref>岩下志麻、三田佳子らが主演した</ref>を[[琉球放送]]([[TBSテレビ|TBS]]系)が別の番組に差し替えている。
[[沖縄県]]では1990年代前半に県内で起きた暴力団抗争以後、テレビ放送並びに上映を自粛している。東京キー局でテレビ放送される場合は、沖縄のみ差し替えられることも少なくない(特に他系列ネットの場合)。一例を挙げると[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系「[[金曜ロードショー]]」でネットされた『[[極道の妻たち]]』を[[琉球放送]]([[TBSテレビ|TBS]]系)が別の番組に差し替えている。


[[暴力団対策法]]施行以後は全国の地上波テレビにおいてヤクザ映画(特に実録もの)に関しては、再放映でも放映することが極めて困難であるとされ、[[菅原文太]]が死去した際にも『[[仁義なき戦い]]』等数多くのヤクザ映画の出演映像は放送されなかった。[[高倉健]]、[[松方弘樹]]の死去の際も同様にヤクザ映画の出演映像は一切放送されなかった<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201702_post_21297/ 松方弘樹の追悼番組でも出せない……「ヤクザ映画」をめぐるテレビの厳しい現状とは]、exciteニュース、2017年2月1日、2019年10月24日閲覧</ref>。現在では、F2層を中心とした[[視聴者]]の反発、スポンサーやコンプライアンスの問題からテレビにおいてヤクザそのものを取り上げることがタブーとなっているという。
[[暴力団対策法]]施行以後は全国の地上波テレビにおいてヤクザ映画(特に実録もの)に関しては、再放映でも放映することが極めて困難であるとされ、[[菅原文太]]が死去した際にも『[[仁義なき戦い]]』等数多くのヤクザ映画の出演映像は放送されなかった。[[高倉健]]、[[松方弘樹]]の死去の際も同様にヤクザ映画の出演映像は一切放送されなかった<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201702_post_21297/ 松方弘樹の追悼番組でも出せない……「ヤクザ映画」をめぐるテレビの厳しい現状とは]、exciteニュース、2017年2月1日、2019年10月24日閲覧</ref>。現在では、F2層を中心とした[[視聴者]]の反発、スポンサーやコンプライアンスの問題からテレビにおいてヤクザそのものを取り上げることがタブーとなっているという。
49行目: 55行目:
*{{Cite journal | 和書 | author = 渡辺武信 |date = 1971年8月10日増刊号 | title = 任侠藤純子 おんなの詩 |chapter = やくざ映画十年の系譜 | journal = [[キネマ旬報]] | ref = キネ旬1971810 }}
*{{Cite journal | 和書 | author = 渡辺武信 |date = 1971年8月10日増刊号 | title = 任侠藤純子 おんなの詩 |chapter = やくざ映画十年の系譜 | journal = [[キネマ旬報]] | ref = キネ旬1971810 }}
* {{Cite book | 和書 | title = 女優 富司純子 | author = | publisher = [[キネマ旬報社]] | year = 2013 | id = ISBN 978-4873764191 | ref = 女優富司 }}
* {{Cite book | 和書 | title = 女優 富司純子 | author = | publisher = [[キネマ旬報社]] | year = 2013 | id = ISBN 978-4873764191 | ref = 女優富司 }}

==研究書==
*『やくざ映画完全ガイド』コスミック出版 ISBN 978-4774750934
*『やくざ映画完全ガイド』コスミック出版 ISBN 978-4774750934
*福間健二・山崎幹夫『大ヤクザ映画読本』
*福間健二・山崎幹夫『大ヤクザ映画読本』
61行目: 65行目:
*「ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画」[[樋口尚文]] ・著/平凡社新書・刊
*「ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画」[[樋口尚文]] ・著/平凡社新書・刊
*山本哲士『高倉健・藤純子の任侠映画と日本情念:憤怒と情愛の美学』2015年、文化科学高等研究院出版局
*山本哲士『高倉健・藤純子の任侠映画と日本情念:憤怒と情愛の美学』2015年、文化科学高等研究院出版局

==関連項目==
*[[日活ロマンポルノ]]
*[[東映ポルノ]]


==外部リンク==
==外部リンク==
74行目: 74行目:
[[Category:暴力団抗争事件|*やくさえいか]]
[[Category:暴力団抗争事件|*やくさえいか]]
[[Category:ヤクザ映画の俳優|*]]
[[Category:ヤクザ映画の俳優|*]]
[[Category:やくざ]]

2020年4月8日 (水) 11:27時点における版

ヤクザ映画(ヤクザえいが)とは、ヤクザを主役とする映画。もしくは日本におけるヤクザ暴力団の対立抗争や任侠などをモチーフとする映画カテゴリーである。仁侠映画(にんきょうえいが。同じ読みで“任侠映画”と表記する場合もあり)とも称される。

本項では、東映を筆頭に各社がこのジャンルの映画を量産した、1960年代から70年代を中心に、その後の状況までを記述する。

歴史

やくざ自体を主題とする映画は、股旅物といわれる長谷川伸の『瞼の母』や尾崎士郎の『人生劇場』などがあった。第二次世界大戦後、現代的なヤクザを演じる映画が作られるようになり、黒澤明の『醉いどれ天使』(1948年)などが話題を集めた。また時代劇の『清水の次郎長伝』「次郎長意外伝』『次郎長富士』『国定忠治』なども制作された。『国定忠治』にいたっては1946年、58年、60年と同じ題名で何回も制作されている。

1960年代から始まったヤクザ映画は、より“図式的な対立の構図”を前面に出していくようになった。これは、戦前から続いていた大衆芸能が完全に廃れた高度成長期において、観客も娯楽としての映画に“分かり易いプロット”を好んだ結果という見方もある。

ヤクザ映画という呼称

東映は1963年に鶴田浩二主演『人生劇場 飛車角』を封切り、成功[1]。翌1964年、初の本格的ヤクザ映画『博徒』(鶴田主演)や高倉健主演『日本侠客伝』もヒットしたため、これらをシリーズ化する。東映自ら「やくざ路線」と言い[1]、他社にも波及すると、映画ジャーナリズムは一括して「ヤクザ映画」と呼びはじめたのである[1]

それまで、この呼称は戦前派侠客の映画を指しており、明治から昭和初期までの時代の侠客を主人公として映画も既に存在していたが、かくも大量に作られはじめたのは日本映画史上、はじめてである[1]。この名称が定着すると、それはヤクザ者を主人公とするあらゆる映画への適用範囲を広げ、以前は「股旅映画」と呼ばれていた類の時代劇から、戦後を背景としたギャング映画や不良少年映画までも、ヤクザ映画と呼ばれるようになったのが、1970年以降[1]。東映を中心とした1960年代の「やくざ映画」は「任侠映画」と呼ばれるが、「任侠映画」という呼称は1970年前後の文献に見られる[2][3]

1973年に『仁義なき戦い』が封切られると、義理人情に厚いヤクザではなく、利害得失で動く現実的なヤクザ社会を描く映画を「実録シリーズ、または実録ヤクザ映画」と呼び、それまでのヤクザ映画を“任侠映画”と区別されるようになった。これらの映画は東映作品を指すケースが多く[4]、1960年代に始まって同年代後半にはプログラムピクチャーの過半を占めるまでに繁栄し、1970年代になると衰退していった特殊な映画ジャンルと評されている[4]

東映任侠路線

1963年の東映東京撮影所による『人生劇場 飛車角』を皮切りに、義理人情に厚くヤクザの人間模様を描く作品が続々と製作されていった。同撮影所では『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『子守唄シリーズ』、『現代やくざシリーズ』、『関東テキヤ一家シリーズ』を、鶴田浩二・高倉健・千葉真一菅原文太の主演で、石井輝男佐伯清鷹森立一降旗康男鈴木則文が監督として参画している。

一方の東映京都撮影所1950年代時代劇ブームで絶好調だったものの、1961年1962年に、無精髭を生やした三船敏郎主演の本格時代劇『用心棒』、『椿三十郎』がヒットすると、東映京都で製作された時代劇では浪人も貧しい町人もヤクザもきれいな厚化粧をしており、で斬ってもも出ない旧来の歌舞伎なため、客足はみるみる減っていった。「時代劇の東映」と言われ、観客動員No.1だった東映は、他社のように現代劇でカバーできず、深刻な影響を受けた。 京都撮影所では、客が入らなくなっていた時代劇を止め、ヤクザ映画に切り替え、量産し始める[1][5]。『博徒シリーズ』、『日本侠客伝シリーズ』、『極道シリーズ』、『緋牡丹博徒シリーズ』を鶴田・高倉・若山富三郎藤純子の主演で、メガホン小沢茂弘マキノ雅弘山下耕作・鈴木・加藤泰が執った。

脇には嵐寛寿郎丹波哲郎池部良安部徹田中邦衛待田京介山城新伍梅宮辰夫三田佳子松方弘樹大原麗子渡瀬恒彦などが出演していた。映画プロデューサーには岡田茂俊藤浩滋がおり[5][6][7]、特に俊藤は任侠路線を定着させ、次々とヒット作を世に送り出し、その功績は大きい[8]。1970年代前半までサラリーマン・自営業・職人から本業のヤクザ学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝采を送った」という学生もいた[9]

松竹・東宝

ホームドラマ・文芸作品が得意の松竹はジリ貧だったが、1960年代中盤に安藤昇主演の『血と掟』など、僅かながらヤクザ映画が制作される。渥美清がTVで演じたテキヤが主人公の『男はつらいよ』を1969年に映画化し、成功。ヤクザ臭をなくし松竹得意のほのぼのとした人情喜劇とし、1990年代まで続くロングシリーズとなった。

東宝は、1971年にヤクザ映画を作る(製作は傍系会社の東京映画)。東映の倍以上の予算をかけ、仲代達矢主演(脇には他社では主演級の安藤・丹波・江波杏子らを揃えた)の『出所祝い』を上映するが、同時期に東映が上映した高倉の『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』の前に惨敗した。その後、東宝はヤクザ路線から撤退し、同年からは東宝が得意とする特撮映画『ゴジラシリーズ』を1975年まで制作した他、『日本沈没』や『ノストラダムスの大予言』といったパニック映画を制作した。

日活・大映

深刻な客離れにあった日活は、石原裕次郎小林旭高橋英樹渡哲也野川由美子らを主演にしたヤクザ映画を量産したが、いずれも東映ヤクザ映画の人気には遠く及ばなかった[10]

大映は、江波杏子の『女賭博師』シリーズや勝新太郎の『座頭市シリーズ』『悪名シリーズ』がヒットしたが、『悪名』に出演していた田宮二郎が1968年に大映を離れ、翌年に『若親分シリーズ』の市川雷蔵が病死した頃には苦境に陥っていた。ヤクザ映画ブームの流れに乗り、延命のためヤクザ映画を市場へ供給した両社だったが、1971年に大映は倒産。日活も同年からロマンポルノ路線に転進し、石原裕次郎ら主力俳優は日活を離れた。

その後

1980年代からレンタルビデオによる映画供給が可能となった。これを受けて東映は、映画館での上映を考慮せず、ビデオカセットのみで発売される作品として、東映の子会社「東映ビデオ」から「Vシネマ」と呼ばれる多数のヤクザ映画を発売し、成功をおさめた。それに追従してGPミュージアムソフトなど、独立系のビデオ映画の制作会社が多数設立された。哀川翔竹内力・松方弘樹・小沢仁志清水健太郎中条きよし白竜清水宏次朗的場浩司ら主演の、低予算ヤクザ映画が量産され、『難波金融伝・ミナミの帝王』など「金融ヤクザ映画」とも呼ぶべき新ジャンルも存在する。

日本のヤクザ映画は海外でも注目を集め、その影響を強く受けた映画も登場した。ハリウッドではロバート・ミッチャムが、高倉健主演の『ザ・ヤクザ』や『ブラック・レイン』(1989年)を制作。米国以外ではフランスイタリア香港台湾韓国でヤクザ映画を意識した作品が製作されている。代表的な監督にはクエンティン・タランティーノがいる(キル・ビルなど多数)。

現在はレンタルビデオ・DVDでの鑑賞が中心だが、かつては「ヤクザ映画」の上映に特化した映画館もあった。東京では新宿昭和館2002年閉館)・浅草名画座[1]2012年10月閉館)、大阪の新世界東映日劇会館(2012年8月にゲイ映画館に転換)、神戸の福原国際東映(現在は成人映画を上映)などが有名であった。

2006年4月より経済産業省の指導でCESAコンピュータソフトウェア倫理機構日本アミューズメントマシン工業協会映倫管理委員会日本ビデオ倫理協会映像コンテンツ倫理連絡会議(仮称)において審査基準・表示の一本化を協議することが決定している。それに伴い、年齢指定が変わる可能性がある。

沖縄県では1990年代前半に県内で起きた暴力団抗争以後、テレビ放送並びに上映を自粛している。東京キー局でテレビ放送される場合は、沖縄のみ差し替えられることも少なくない(特に他系列ネットの場合)。一例を挙げると日本テレビ系「金曜ロードショー」でネットされた『極道の妻たち』を琉球放送TBS系)が別の番組に差し替えている。

暴力団対策法施行以後は全国の地上波テレビにおいてヤクザ映画(特に実録もの)に関しては、再放映でも放映することが極めて困難であるとされ、菅原文太が死去した際にも『仁義なき戦い』等数多くのヤクザ映画の出演映像は放送されなかった。高倉健松方弘樹の死去の際も同様にヤクザ映画の出演映像は一切放送されなかった[11]。現在では、F2層を中心とした視聴者の反発、スポンサーやコンプライアンスの問題からテレビにおいてヤクザそのものを取り上げることがタブーとなっているという。

脚注

参考文献

  • 渡辺武信「任侠藤純子 おんなの詩」『キネマ旬報』1971年8月10日増刊号。 
  • 『女優 富司純子』キネマ旬報社、2013年。ISBN 978-4873764191 
  • 『やくざ映画完全ガイド』コスミック出版 ISBN 978-4774750934
  • 福間健二・山崎幹夫『大ヤクザ映画読本』
  • 斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』 (ちくま新書)
  • 高橋賢『東映実録やくざ映画』
  • 大高宏雄『仁義なき映画列伝』2002年、鹿砦社
  • 山平重樹『任侠映画が青春だった』2004年、徳間書店
  • 山田宏一『日本侠客伝:マキノ雅弘の世界』2007年、ワイズ出版
  • 別冊宝島 (922)『ヤクザが認めた任侠映画』
  • 「ロマンポルノと実録やくざ映画 禁じられた70年代日本映画」樋口尚文 ・著/平凡社新書・刊
  • 山本哲士『高倉健・藤純子の任侠映画と日本情念:憤怒と情愛の美学』2015年、文化科学高等研究院出版局

外部リンク