「マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ」の版間の差分
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'''マリヤ・グレゴリエヴナ・スクラートヴァ=ベリスカヤ'''([[ロシア語]]:Мария Григорьевна Скуратова-Бельская / [[英語]]:Maria Grigorievna Skuratova-Belskaya, ? - [[1605年]][[9月20日]]([[旧暦]][[9月10日]]))は、[[モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ボリス・ゴドゥノフ]]の皇妃([[ツァリーツァ]])。[[クセニヤ・ゴドゥノヴァ]]、[[フョードル2世]]の母でもある。 |
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[[イヴァン4世]]のお気に入りだった[[オプリーチニキ]]の首領[[マリュータ・スクラートフ]]の娘だった彼女は、[[1570年]]あるいは[[1571年]]に当時はまだ無名だったオプリーチニキ隊員のボリス・ゴドゥノフと結婚した。 |
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その後、ボリスは次第に出世していき、[[1584年]]にイヴァン4世の息子[[フョードル1世]]の摂政 |
その後、ボリスは次第に出世していき、[[1584年]]にイヴァン4世の息子[[フョードル1世]]の摂政、[[1598年]]にはツァーリとなり、彼女は皇妃(ツァリーツァ)となった。 |
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だが、1605年にボリスが死に、息子のフョードル2世が継ぐと[[ゴドゥノフ家]]は支持を失い、[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]の力が強まることとなった。 |
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==参考文献== |
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2019年9月14日 (土) 05:10時点における版
マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ Мария Скуратова-Бельская | |
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ツァリーツァ | |
マリヤと娘クセニヤ(後ろには息子フョードルもいる) | |
在位 | 1598年 - 1605年 |
死去 |
1605年9月20日(旧暦9月10日) ロシア・ツァーリ国、モスクワ |
配偶者 | ボリス・ゴドゥノフ |
子女 |
クセニヤ フョードル2世 |
父親 | マリュータ・スクラートフ |
マリヤ・グレゴリエヴナ・スクラートヴァ=ベリスカヤ(ロシア語:Мария Григорьевна Скуратова-Бельская / 英語:Maria Grigorievna Skuratova-Belskaya, ? - 1605年9月20日(旧暦9月10日))は、モスクワ・ロシアのツァーリ・ボリス・ゴドゥノフの皇妃(ツァリーツァ)。クセニヤ・ゴドゥノヴァ、フョードル2世の母でもある。
生涯
イヴァン4世のお気に入りだったオプリーチニキの首領マリュータ・スクラートフの娘だった彼女は、1570年あるいは1571年に当時はまだ無名だったオプリーチニキ隊員のボリス・ゴドゥノフと結婚した。
その後、ボリスは次第に出世していき、1584年にイヴァン4世の息子フョードル1世の摂政、1598年にはツァーリとなり、彼女は皇妃(ツァリーツァ)となった。
だが、1605年にボリスが死に、息子のフョードル2世が継ぐとゴドゥノフ家は支持を失い、偽ドミトリーの力が強まることとなった。
その後、9月20日に偽ドミトリーがモスクワに入城した際、その命令によって、フョードル2世とともに殺害された。
参考文献
- デビッド・ウォーンズ著 / 栗生沢猛夫監修『ロシア皇帝歴代誌』創元社 2001年7月 ISBN 4-422-21516-7