「エリン (戦艦)」の版間の差分
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{{Infobox 艦艇 |
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{| class="wikitable" style="clear:right; float:right; margin: 0em 0em 1em 1em; width: 300px; background:#ffffff" |
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|名称=エリン |
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|colspan="2"|[[ファイル:HMS_Erin_in_Moray_Firth_1915_IWM_SP_531.jpg|300px]] |
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|画像=HMS Erin in Moray Firth 1915 IWM SP 531.jpg |
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|運用者={{navy|United Kingdom}} |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
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|艦種=[[超弩級戦艦]] |
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|就役=[[1914年]][[8月23日]] |
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|発注: |
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|退役=[[1922年]]5月 |
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|ヴィッカース社ベロー造船所 |
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|除籍=1922年[[12月19日]] |
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|その後=スクラップとして売却。[[1923年]]に解体完了。 |
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|起工: |
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|常備排水量=22,780 [[トン数|トン]] |
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|[[1911年]][[8月1日]] |
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|満載排水量=30,250 トン |
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|全長=170.5 [[メートル|m]] |
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|進水: |
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|全幅=27.9 m |
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|[[1913年]][[9月3日]] |
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|吃水=8.7m |
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|主機=[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式[[蒸気タービン|直結タービン(高速・低速)]]×2組 |
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|就役: |
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|主缶=[[バブコック・アンド・ウィルコックス]]式石炭・重油[[ボイラー|混焼水管缶]]×15基 |
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|[[1914年]][[8月]] |
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|推進=[[スクリュープロペラ]]×4軸 |
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|出力=最大26,500 [[馬力|hp]] |
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|退役: |
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|最大速力=21.0 [[ノット]] |
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|[[1922年]][[5月]] |
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|燃料=石炭:2,120 [[t|トン]]<br />重油:710 t |
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|航続距離=5,300 [[海里]]/10ノット |
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|その後: |
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|乗員=1,070名 |
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|[[1923年]]解体完了 |
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|兵装={{ubl||Mark VI 34.3cm(45口径)[[艦砲|連装砲]]×5基|Mark XVI 15.2cm(50口径)[[速射砲|単装速射砲]]×16基|7.62cm(45口径)[[高射砲|単装高角砲]]×2基|5.7ccm(50口径)単装速射砲×6基|53.3cm単装水中[[魚雷発射管]]×4基}} |
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|装甲={{ubl|舷側:305mm(水線最厚部)、102mm(艦首・艦尾部)|甲板:75mm|砲塔:283mm(前盾)|[[バーベット]]:254mm(甲板上部)、76mm(甲板下部)|司令塔:305mm(側盾)}}}} |
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|除籍: |
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{{Infobox 艦艇 |
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|[[1922年]][[12月19日]] |
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|名称=レシャディエ|建造所=[[ヴィッカース]] [[バロー=イン=ファーネス|バロー]]造船所 |
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|運用者={{navy|Ottoman Empire}} |
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!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
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|艦級={{仮リンク|レシャディエ級戦艦|en|Reşadiye-class_battleship|tr|Reşadiye_sınıfı_zırhlı}}|起工=[[1911年]][[8月11日]] |
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|進水=[[1913年]][[9月3日]] |
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| style="white-space:nowrap;" |[[排水量]]: |
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|最後=[[1914年]][[8月3日]]、イギリス海軍によって接収<ref name="英駐秘第25号">[[#エリン航跡図(大正5)]] pp.5,9(英駐秘第二五號附属)</ref>。}} |
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|常備:22,780[[トン]]<br />満載:30,250トン |
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'''エリン''' ('''{{lang-en|HMS Erin}}''') は、[[イギリス海軍]]が建造した[[超弩級戦艦]]である{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=162a|ps=トルコ/RESHAD V レシャド5世(英戦艦エリン)}}。元は[[オスマン帝国]]が[[イギリス]]に発注した{{仮リンク|レシャディエ級戦艦|en|Reşadiye-class_battleship|tr|Reşadiye_sınıfı_zırhlı}}の[[ネームシップ]]で、当初は「'''レシャド5世'''({{lang|en|'''Reshad V'''}}:{{lang-tr|'''Reşad V'''}})」と命名される予定であったが、後に「'''レシャディエ''' ({{lang|en|'''Reshaddieh'''}}:{{lang|tr|'''Reşadiye'''}})」と命名された{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=162b|ps=ヨーロッパ小国海軍の弩級戦艦}}<ref name="希土軍備p1-2">[[#大正3、希土軍備]] pp.1-2「希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)」</ref>。 |
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|全長: |
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|170.5[[メートル|m]] |
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|全幅: |
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|27.9m |
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|吃水: |
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|8.7m |
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|機関: |
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|[[バブコック・アンド・ウィルコックス]]式石炭・重油[[ボイラー|混焼水管缶]]15基<br />[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式[[蒸気タービン|直結タービン(高速・低速)]]2組4軸推進 |
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|最大出力: |
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|26,500 [[馬力|hp]] |
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|最大速力: |
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|21.0[[ノット]] |
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|航続性能: |
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|10ノット/5,300[[海里]] |
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|燃料: |
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|石炭:2,120トン<br />重油:710トン |
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|乗員: |
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|1,070名 |
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|兵装: |
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|Mark VI 34.3cm(45口径)[[艦砲|連装砲]]5基<br />Mark XVI 15.2cm(50口径)[[速射砲|単装速射砲]]16基<br />7.62cm(45口径)[[高射砲|単装高角砲]]2基<br />5.7ccm(50口径)単装速射砲6基<br />53.3cm水中[[魚雷発射管]]単装4基 |
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|- |
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|装甲: |
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|舷側:305mm(水線最厚部)、102mm(艦首・艦尾部)<br />甲板:75mm<br />砲塔:283mm(前盾)<br />[[バーベット]]:254mm(甲板上部)、76mm(甲板下部)<br />司令塔:305mm(側盾)、-mm(天蓋) |
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|} |
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[[第一次世界大戦]]勃発直後の1914年8月3日{{Efn|ちょうどオスマン帝国はドイツ帝国と{{仮リンク|土独軍事同盟|label=軍事同盟|en|German–Ottoman_alliance|de|Deutsche_Militärmissionen_im_Osmanischen_Reich}}を結んだばかりだった{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=72}}{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=354}}。}}、完成直前の状態でイギリス政府によって接収される{{Sfn|箕作、世界大戦史前篇|1918|p=128|ps=原本157頁}}。レシャドは'''エリン''' ({{lang|en|''HMS Erin''}}) と改名されて8月下旬に竣工した<ref name="英駐秘第25号"/><ref name="英土断絶p1">[[#大正4、英土国交断絶]] p.1「英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日附報告)」</ref>{{Efn|同時に接収されたトルコ戦艦スルタン・オスマン1世は、英戦艦[[エジンコート (戦艦)|エジンコート]] (''{{lang|en|HMS Agincourt}}'') と改名された{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=160a|ps=ブラジル/RIO DE JANEIRO リオデジャネイロ(英戦艦エジンコート)}}。}}。 |
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'''エリン''' ('''HMS Erin''') は、[[イギリス海軍]]の[[超弩級戦艦]]である。同型艦はない。 |
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艦名のエリン('' |
艦名のエリン (''{{lang|en|Erin}}'') は[[ゲール語]]に由来する[[アイルランド島]]の古名に由来する。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[:en:Decline_and_modernization_of_the_Ottoman_Empire|衰退傾向]]にあった[[オスマン帝国]]は、[[不凍港]]を求めて[[南下政策|南下]]する[[ロシア帝国]]の脅威に晒されていた{{sfn|外務省、世界の動き|1940|pp=11-12|ps=(原本7-9頁)三、英露の抗爭 ― イスタンブルを中心に}}。[[ロシア]]の最終的な目標は、[[イスタンブール|コンスタンティノープル]]および[[ダーダネルス海峡]]と[[ボスポラス海峡]]の掌握であった{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|p=517}}。 |
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元来は[[オスマン帝国海軍]]が[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]の[[弩級戦艦]]に対抗すべく[[ヴィッカーズ]]社に発注した超弩級戦艦で、当初は「'''レシャド5世'''('''Reshad V''':{{lang-tr|'''Reşad V'''(beş}})」と命名される予定であったが、後に「'''レシャディエ''' (Reshaddieh:{{lang|tr|'''Reşadiye'''}})」に改名された。 |
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ロシアに脅かされるオスマン帝国に、[[3B政策]]を掲げる[[ドイツ帝国]]が接近した{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|pp=507-513|ps=ボスボラス海峡のドイツ人}}([[グレート・ゲーム]]、[[東方問題]]){{sfn|外務省、世界の動き|1940|p=13|ps=(原本10頁)六、獨露の反目 ― 英露協商}}。オスマン帝国の[[オスマン帝国軍|陸軍]]は[[ドイツ帝国陸軍]]が派遣した[[軍事顧問]]により[[:de:Deutsche_Militärmissionen_im_Osmanischen_Reich|近代化を行うなど]]{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|pp=331-332}}、[[:en:Germanophile|親独的]]な[[:en:Germany–Turkey_relations|立場]]であった{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=71}}{{Sfn|仏独共同通史、第一次世界大戦上|2012|p=47}}。これに対し、[[オスマン帝国海軍]]は[[イギリス海軍]]から[[:en:British_naval_missions_to_the_Ottoman_Empire|軍事顧問]]を受け入れるなど、[[:en:Turkey–United_Kingdom_relations|イギリスとの関係]]を維持する{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=71}}{{Efn|イギリス海軍から{{仮リンク|ダグラス・ギャンブル|en|Douglas_Gamble|label=ギャンブル}}提督(1909年2月~1910年3月)、{{仮リンク|ヒュー・ピゴット・ウィリアムズ|en|Hugh_Pigot_Williams|label=ウィリアムズ}}提督(1910年4月~1912年4月)、{{仮リンク|アーサー・リムパス|en|Arthur_Limpus|label=リムパス}}提督(1912年5月~1914年9月)が派遣され、[[:en:List of Fleet Commanders of the Ottoman Navy|オスマン帝国艦隊総司令官]](コモンドン・ド・ラ・フロット)に任命されていた{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|p=518}}。}}{{Efn|アーサー・リンパス提督(イギリス海軍使節団)はオスマン帝国の海軍力を強化すると共に「イギリスは海軍や沿岸警備に幅広い経験を有しています」「地上戦に関してはドイツ陸軍とドイツ人顧問に、そして海軍についてはイギリスの顧問から聞くのが一番賢明だと確信しています。」とオスマン海軍本部に進言した{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|p=519}}。}}。 |
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[[ギリシャ王国]]と[[オスマン帝国]]の[[:en:Greece–Turkey_relations|関係は複雑だった]]。ギリシャは[[イタリア王国]]から[[ピサ級巡洋艦]]を輸入、装甲巡洋艦[[イェロギオフ・アヴェロフ (装甲巡洋艦)|イェロギオフ・アヴェロフ]] (''{{lang|en|Georgios Averof}}'') と命名した<ref>[[#土国譲渡]] pp.2-4「1910年/明治43年7月1日、珍田在ドイツ日本大使報告」</ref>{{Efn|武装巡洋艦アヴエロツフ(一九一〇年三月進水){{Sfn|世界海軍大写真帖|1935|p=70|ps=希臘}} 排水量九四五〇噸、時速二二節半。伊太利の同種艦[[ピサ (装甲巡洋艦)|ピサ]]の姉妹艦。三六吋探照燈二基を有す。}}。 |
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しかし、本艦は完成間近に[[第一次世界大戦]]が勃発したため、1914年8月1日の竣工直後、[[イギリス]]の海軍相であった[[ウィンストン・チャーチル]]の指示により英国政府によって接収され、同年8月3日付で英国海軍に編入された。この行為はオスマン帝国の反英感情を盛り上げて中央同盟側(ドイツ側)に立って参戦する遠因を作った。 |
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ギシリャ海軍が[[装甲巡洋艦]]を購入したことで、オスマン帝国との[[建艦競争]]に拍車がかかった<ref name="希土軍備p12">[[#大正3、希土軍備]] p.1「希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)」</ref>。 |
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{{seealso|ギリシャの歴史|ギリシャ海軍の歴史}} |
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イギリス海軍戦艦として「エリン」と改名された本艦は1914年9月に就役し、竣工後に三脚マストの頂部に新型の射撃方位盤を設置すると共に射撃指揮所の拡大、2番煙突後部に[[サーチライト|探照灯台]]の新設といった改装を行った。1915年5月31日から6月1日にかけて[[第2戦艦戦隊]]第1戦艦隊所属で[[ユトランド沖海戦]]に参加しているが、ドイツ艦隊に対しては主砲を発砲する機会がないままに終わっている。1917年に後部艦橋の改正と7.62cm高射砲2基の設置等を含む改装を行い、1918年に2番・3番砲塔の上部に陸上機の滑走台を設けた。 |
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オスマン帝国はギリシャの装甲巡洋艦に脅威を感じ、列強各国より大型艦を輸入しようと運動を開始する<ref name="#1">[[#土国譲渡]] pp.2-4</ref>。[[大日本帝国]]にも[[珍田捨巳|珍田]][[:de:Liste_der_japanischen_Botschafter_in_Deutschland|在ドイツ日本大使]]を通じて[[巡洋戦艦]]の購入を打診した{{Efn|トルコ側が希望したのは「其ノ語氣ヨリ察スルニ[[伊吹 (巡洋戦艦)|伊吹]]([[鞍馬型巡洋戦艦|鞍馬型巡戦]])[[生駒 (巡洋戦艦)|生駒]]([[筑波型巡洋戦艦|筑波型巡戦]])ノ如キモノヲ希望シ居ルカ如シ」であったという(珍田大使より[[小村壽太郎|小村]]外務大臣へ報告)<ref name="#1"/>。}}。この時は[[ドイツ帝国]]より[[ブランデンブルク級戦艦]]2隻を購入し{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=114a|ps=ブランデンブルク/はじめて外洋での決戦を意識した独戦艦}}、[[トゥルグート・レイス級装甲艦]]となった<ref>[[#土国譲渡]] pp.12-16「珍田在ドイツ日本大使報告」より</ref>{{Efn|ドイツ艦は、装甲艦[[:en:SMS Kurfürst Friedrich Wilhelm|バルバロス・ハイレッディン]] (''[[:tr:Barbaros_Hayreddin_(zırhlı)|Barbaros Hayreddin]]'') (旧名:[[:de:SMS_Kurfürst_Friedrich_Wilhelm_(1891)|クルフェスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム]]) 、装甲艦[[:de:SMS_Weißenburg_(1891)|トゥルグト・レイス]] (''[[:tr:Turgut Reis (zırhlı)|Turgut Reis]]'') (旧名:[[:en:SMS_Weissenburg|ヴァイセンブルク]]) と改名した。}}。 |
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[[ファイル:Launch_of_Reşadiye.png|左|サムネイル|230x230ピクセル|進水したレシャディエ、1913年。]] |
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オスマン帝国は1911年9月から1912年10月の[[伊土戦争]]で敗北した。1912年10月から1913年5月にかけての[[第一次バルカン戦争]]でも{{Sfn|仏独共同通史、第一次世界大戦上|2012|pp=42-47|ps=バルカン戦争(1912-1913年)}}、[[バルカン同盟]]([[セルビア王国 (近代)|セルビア]]、[[モンテネグロ王国|モンテネグロ]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]])に敗北した{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|pp=21-23|ps=バルカンの危機}}([[ロンドン条約_(1913年)|ロンドン条約]]、[[ブカレスト条約_(1913年)|ブカレスト条約]])。この状況下、オスマン帝国がドイツ帝国から輸入した戦艦2隻は[[前弩級戦艦]]だった。オスマン帝国海軍はイギリスの民間企業に[[超弩級戦艦]]を発注する{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=71}}。英国企業で{{仮リンク|レシャディエ級戦艦|en|Reşadiye-class_battleship|tr|Reşadiye_sınıfı_zırhlı}}の建造が始まる{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152a|ps=ドイツから購入した「ヤウズ・スルタン・セリム」}}。[[:en:Vickers_Limited|ヴィッカース社]][[バロー=イン=ファーネス|バロー造船所]]で建造された本艦は、当初「'''レシャド5世'''({{lang|en|''Reshad V''}}:{{lang|tr|''Reşad V''}})」と命名される予定であったが、後に「'''レシャディエ''' ({{lang|en|''Reshaddieh''}}:{{lang|tr|''Reşadiye''}})」に改名された。 |
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一方、2番艦の建造を巡って紆余曲折があった{{Efn|ビッグマンスペシャル『世界の戦艦、大艦巨砲編』152ページでは、オスマン帝国が発注したのはレシャディエ ({{lang|tr|''Reşadiye''}}) 、レシャディエハミス ({{lang|en|''Reshad-i Hammiss''}}) 、ファチキ ({{lang|en|''Fatih''}}) とする{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152b}}。}}。ブラジル政府が売却したリオデジャネイロを購入し<ref name="希土軍備p12" />、「'''スルタン・オスマン1世''' (''{{lang|tr|Sultan Osman-ı Evvel}}'') と命名した{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=161|ps=“ABC三国”の弩級戦艦をめぐる建艦競争}}{{Efn|ギリシャ政府はドイツ帝国に戦艦[[サラミス (戦艦)|サラミス]] (''{{lang|el|Σαλαμίς}}'') を発注した{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=130a|ps=サラミス 第一次大戦前にギリシャが発注した戦艦}}。[[フランス]]に <ref name="希土軍備p1">[[#大正3、希土軍備]] p.1</ref>、[[プロヴァンス級戦艦|戦艦]][[サヴォア (戦艦)|ヴァシレフス・コンスタンチノス]](''[[:el:Βασιλεύς_Κωνσταντίνος_Ι_(θωρηκτό)|Βασιλεύς Κωνσταντίνος Ι]]'') を発注した。}}。 |
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オスマン帝国戦艦2隻(レシャディエ、オスマン1世)完成間近の1914年7月末、[[第一次世界大戦]]が勃発した{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=42}}。オスマン帝国は[[ドイツ帝国]]と[[:en:Secret_treaty|秘密裏]]に{{仮リンク|土独軍事同盟 (1914)|label=土独同盟|en|German–Ottoman_alliance|tr|Alman-Osmanlı_ittifak_antlaşması}}を結んだので{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=354}}、イギリスの警戒を招いた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=72}}。また[[:de:Liman-von-Sanders-Krise|1913年危機]]を経て{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|pp=331-332}}、オスマン帝国海軍の増強に危機感を抱いていた[[ロシア帝国]]は{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|p=722}}、[[セルゲイ・サゾーノフ|サゾーノフ]][[外務大臣 (ロシア)|外務大臣]]が[[アレクサンドル・ベンケンドルフ (外交官)|ベンケンドルフ]]([[:en:List_of_ambassadors_of_Russia_to_the_United_Kingdom|ロシア駐英大使]])を通じて「貴国で建造中の超弩級戦艦2隻がオスマン帝国に渡らないように。」と[[英露協商|同盟]]([[三国協商]])を結んでいるイギリス政府に申し入れた{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|p=723}}([[:en:Constantinople_Agreement|コンスタンティノープル合意]])。オスマン帝国の新鋭超弩級戦艦は、[[前弩級戦艦]]を主力とする[[:en:Imperial_Russian_Navy|ロシア海軍]]([[黒海艦隊]])を圧倒する可能性を有しており、[[黒海]]のパワーバランスとロシア南下政策を根底から覆しかねなかったのである{{Sfn|夢遊病者たち(2)|2017|p=723}}。 |
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このような情勢下で竣工したレシャディエは、イギリス政府の[[ウィンストン・チャーチル]][[海軍本部_(イギリス)#ファースト・ロード(First_Lord_of_the_Admiralty)|海軍大臣]]の指示により接収され、同年8月3日付で英国海軍に編入された{{Efn|接収時の状況を、新戦艦配属予定だった[[ラウフ・オルバイ]]が自伝『地獄の石臼』で回想している。}}{{Efn|トルコは已に八月一日に於て、[[:en:German–Ottoman_alliance|ドイツとの秘密の同盟條約]]を結び、ロシヤが戰爭に参加せば、相互の間に應援義務の發生すべきを定めたり。同日午後ロシヤが戰爭に加はるに至り、同盟條約の實施條件が備はるに至れり。オーストリヤも亦トルコとの同盟條約に加盟せり。該條約は嚴に秘密に付せられ、トルコの参戰の準備成るの日に至る迄、トルコは中立の維持を装ふべきことと爲せり。』聯合軍側に於て、八月一日のドイツ、トルコ間の秘密同盟條約の成立を確知し得ざりしより、トルコに對して種々の提議を爲し、之をして中立を維持せしめんと計れり。』ヨーロッパ大戰開始の頃、八月三日に於て、イギリス内閣は、國内の造船所に於てトルコ政府の爲めに製造中なりし二隻の軍艦の徴發を行ひ、トルコ政府の憤怒を招けり。ドイツ、イギリス間の開戰あるや、ドイツ軍艦ゲーベン號及びプレスラウ號の二隻がボスフォラス海峡に竄入し、トルコは是等のドイツ軍艦を購入せりと稱し、イギリス政府は、國際法違反の故を以て、之に關して抗議を提出せり。{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}(以下略)}}。 |
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この行為はオスマン帝国の[[:en:Anti-English_sentiment|反英感情]]を盛り上げ{{Sfn|仏独共同通史、第一次世界大戦下|2012|pp=102-103}}{{Sfn|箕作、世界大戦史前篇|1918|p=128|ps=原本157頁}}、同時期にオスマン帝国領海に辿り着いた[[ドイツ帝国海軍]]の軍艦2隻([[ゲーベン (巡洋戦艦)|ゲーベン]]、[[ブレスラウ_(軽巡洋艦)|ブレスラウ]])編入事件も重なってオスマン帝国の[[:en:Germanophile|親独立場]]を鮮明にさせた{{Sfn|箕作、世界大戦史前篇|1918|pp=129-131|ps=(原本159-163頁)○トルコの参戰}}{{Efn|name="地中海戦隊p41"|トルコ當局は敵諸國大使に對し、軍艦ゲーベン及ブレスローの入航は、トルコが之を買上たるによるものなり、との説明を與へ、兩艦を以てかねて英國に於て建造中なりしトルコの新建造艦ズルタン・オスマン及レシャト五世の二隻が開戰と同時に、英海軍に[[徴発|徴發]]せられたるを以て其の代艦たるものなり、と主張せり。茲に於て英國はトルコに對し、戰後同價値なる代艦を引渡すべしと誓約したるにも拘はらず、トルコは兩艦はトルコの所有に轉じたりとの口實を設けて敢て動かざりき。兩艦は八月十六日トルコ旗を掲げ、同日首都の沖合に投錨し、トルコ人士官及兵員若干を配乗せしめたる後、海軍大臣は艦上に嚴粛なる儀式を擧げて兩艦の虚構なる移管を行ひ、軍艦ゲーベンにはヤブス・ズルタン・ゼリムなる艦名を ブレスローにはミデイリなる艦名を與へ、戰隊司令官ズーホン提督を、トルコ海上諸艦艇の指揮官に任命せり{{Sfn|地中海戦隊|1928|p=41|ps=(原本49頁)}}。(以下略)}}{{Efn|[[モルトケ級巡洋戦艦|巡洋戦艦]]ゲーベンは、オスマン帝国軍艦ヤウズ・スルタン・セリム (''{{lang|tr|Yavuz Sultan Selim}}'') となった{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|pp=126-127|ps=巡洋戦艦モルトケ}}。[[マクデブルク級小型巡洋艦|小型巡洋艦]]ブレスラウは[[レスボス島|ミディッリ]] (''{{lang|tr|Midilli}}'') と改名された{{Sfn|地中海戦隊|1928|p=41|ps=(原本49頁)}}。}}。 |
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イギリスは接収した戦艦2隻の代艦提供を申し出たが、オスマン帝国の姿勢は変わらなかった{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}{{Efn|name="地中海戦隊p41"}}。 |
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イギリスとトルコで同時期に生起した事件は、オスマン帝国が[[中央同盟国]]側(ドイツ帝国側)に立って[[:en:Ottoman_Empire_in_World_War_I|参戦する要因]]を作った{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}{{Sfn|箕作、世界大戦史前篇|1918|pp=129-131|ps=(原本159-163頁)○トルコの参戰}}。 |
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イギリス海軍戦艦として'''エリン''' (''{{lang|en|HMS Erin}}'') と改名された本艦は1914年8月23日に就役、[[リヴァプール]]に移動して残工事をおこなった<ref name="kengaku">[[#T4、Erin見学]] pp.1-2(英艦“ERIN”見学)</ref>。9月8日に出港し、イギリス艦隊に加わった<ref name="kengaku"/>。{{仮リンク|第4戦艦戦隊|en|4th_Battle_Squadron}}に所属した<ref>[[#大正5、英艦乗船報告]] p.4</ref>{{Efn|エリンが第2戦艦戦隊に転出したあと、第4戦艦戦隊には戦艦[[カナダ (戦艦)|カナダ]]([[チリ]]がイギリスに発注した{{仮リンク|アルミランテ・ラトーレ (戦艦)|en|Chilean_battleship_Almirante_Latorre|label=アルミランテ・ラトーレ}}を接収した[[アルミランテ・ラトーレ級戦艦|超弩級戦艦]])が編入されている<ref>[[#エリン乗艦報告(2)(1)]] p.3</ref>。}}。 |
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大戦中、三脚マストの頂部に新型の射撃方位盤を設置したほか{{Sfnp|宮永|2015|p=22}}、射撃指揮所の拡大、2番煙突後部に[[サーチライト|探照灯台]]の新設といった改装を行っている。 |
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[[ファイル:HMS Erin (1913).jpg|サムネイル|[[気球|観測気球]]とエリン、1918年。]] |
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1916年5月31日から6月1日にかけて[[:en:2nd_Battle_Squadron|第2戦艦戦隊]] ({{lang|en|2nd Battle Squadron}}) 第1分隊<ref>[[#大正5、英艦乗船報告続]] p.30</ref>([[:en:HMS_King_George_V_(1911)|キング・ジョージ5世]]、[[:en:HMS_Ajax_(1912)|エイジャックス]]、[[:en:HMS Centurion (1911)|センチュリオン]]、エリン)として[[ユトランド沖海戦]]に参加した{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=16|ps=ジュットランド海戦に参加した戦艦・巡洋戦艦}}。[[観戦武官]]として度々エリンに乗艦していた[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[黒田琢磨]]機関少佐は、本艦の艦橋から英独艦隊決戦を記録している<ref name="北海々戦概略(1)p2">[[#北海々戦経過概略(1)]] pp.2-3(英海機密第一二號、大正5年6月16日)</ref>{{Efn|なお巡洋戦艦[[クイーン・メリー (巡洋戦艦)|クイーン・メリー]] (''{{lang|en|HMS Queen Mary}}'') が轟沈した際<ref>[[#北海々戦経過概略(1)]] pp.9-10</ref>、観戦武官の[[下村忠助]]少佐が戦死した<ref>{{アジア歴史資料センター|A11112530000|故海軍中佐下村忠助位階追陞ノ件(国立公文書館) }} p.5</ref>。戦艦[[ヴァンガード (戦艦・初代)|ヴァンガード]] (''{{lang|en|HMS Vanguard}}'') に派遣されていた[[今村信次郎]]少佐は、眼病のため[[病院船]]で治療中だった<ref name="北海々戦概略(1)p2" />。}}。 |
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[[ジョン・ジェリコー (初代ジェリコー伯爵)|ジェリコー]]提督直率の主力艦隊(戦艦艦隊)最左翼で殿艦だったエリンは、ドイツ帝国海軍の[[大洋艦隊]] ({{lang|de|Hochseeflotte}}) から最も遠い位置にあり<ref>[[#北海々戦経過概略(1)]] p.6(英主力艦隊陣形図)</ref>、主砲を発砲する機会がないまま終わっている<ref>[[#ジェットランド冲海戦教訓]] pp.14-15〔 (六)英艦隊発砲数(中略)2nd B.S.ガ最モ尠ク最左翼ニテ然カモ殿艦ナリシErinハ遂ニ艦隊中ノ一艦ノミ発砲スルヲ得ズ(以下略) 〕</ref>{{Sfnp|宮永|2015|p=22}}。 |
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1917年に後部艦橋の改正と7.62cm高射砲2基の設置等を含む改装を行い、1918年に2番・3番砲塔の上部に陸上機の滑走台を設けた。 |
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第1次大戦後、1919年10月には[[ノア管区]]所属の練習艦となり、同年12月より[[チャタム工廠]]で戦艦の砲塔操作の練習用として用いられている。 |
第1次大戦後、1919年10月には[[ノア管区]]所属の練習艦となり、同年12月より[[チャタム工廠]]で戦艦の砲塔操作の練習用として用いられている。 |
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エリンは1920年の7~8月には[[デヴォンポート海軍基地]]で大規模修理に入った。これは、当時開催準備が進められていた[[ワシントン海軍軍縮条約]]において「練習戦艦」として保有枠の制限から外すことを意図していたものだが、最終的には練習戦艦としての保有枠には[[オライオン級戦艦]]のサンダラー |
エリンは1920年の7~8月には[[デヴォンポート海軍基地]]で大規模修理に入った。これは、当時開催準備が進められていた[[ワシントン海軍軍縮条約]]において「練習戦艦」として保有枠の制限から外すことを意図していたものだが、最終的には練習戦艦としての保有枠には[[オライオン級戦艦]]の[[:en:HMS Thunderer (1911)|サンダラー]] (''{{lang|en|HMS Thunderer}}'') が選ばれたため、エリンは1922年5月をもって退役{{Sfnp|宮永|2015|p=22}}、スクラップとしてコックス・アンド・ダンクス社({{lang|en|Cox & Danks Shipbreaking Co}})に売却され、同年12月19日に除籍となり、{{仮リンク|クイーンズバラ|en|Queenborough}}で1923年に解体された。 |
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[[中央アジア]]ではオスマン帝国が[[トルコ革命]]によって[[:en:Abolition_of_the_Ottoman_sultanate|打倒]]され、列強は[[アンカラ政府]]を承認して[[トルコ共和国]]が樹立する{{Sfn|通俗的世界全史、17巻|1928|pp=351-353,353-355}}。そしてトルコ共和国が諸外国と締結した[[ローザンヌ条約]]などにより[[第一次世界大戦の賠償|賠償請求問題]]に決着がつき{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|pp=193-196|ps=オスマン帝国}}、戦艦レシャディエ(エリン)とスルタン・オスマン1世(エジンコート)などを巡る金銭問題も解決した{{Efn|對土協約議定書の調印{{Sfn|通俗的世界全史、17巻|1928|pp=355-357|ps=(原本665-669頁)}}(中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)}}。 |
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== 艦形 == |
== 艦形 == |
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[[ファイル:HMS_Erin_and_Centurion_Q_74184.jpg|サムネイル|[[スカパ・フロー|スカパ・フロー泊地]]を航行するエリン。僚艦センチュリオン([[キング・ジョージ5世級戦艦 (初代)|KGV級戦艦]])が先行する。]] |
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本艦のタイプシップは「[[キング・ジョージ5世級戦艦 (初代)]]」に採ったが、原型ではオスマン帝国最大の大きさを誇るドックを持ってしても全長が収まらず、整備が出来ないために全長を12m縮め、幅を0.8m広くする改設計を行った。全長が短くなったために艦内容積が不足するのをカバーするために船体形状は短船首楼型船体から船首楼を4番砲塔基部まで伸ばす長船首楼型[[船体]]に改めた為、本艦は当時のイギリス戦艦の中で最上の凌波性を持つ艦となった。更に、その船首楼側面を副砲ケースメイトのスペースに充てたために本艦の副砲は極めて広い射界を持っていた。主砲搭載様式はキング・ジョージ5世級と変わらないが、船首楼甲板が延びたために3番主砲塔が甲板一段分上がって波浪の影響を受けにくくなった。 |
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本艦のタイプシップは[[キング・ジョージ5世級戦艦 (初代)|キング・ジョージ5世級戦艦]](初代)であるが、随所にオスマン帝国の意向に沿った仕様が見られる<ref>[[#T4、Erin見学]] p.6</ref>{{Sfnp|宮永|2015|p=23}}。原型ではオスマン帝国最大の大きさを誇るドックをもってしても全長が収まらず、整備が出来ないために全長を12m縮め{{Sfnp|宮永|2015|p=23}}、幅を0.8m広くする改設計を行った。全長が短くなったために艦内容積が不足するのをカバーするために船体形状は短船首楼型船体から船首楼を4番砲塔基部まで伸ばす長船首楼型[[船体]]に改めた為、本艦は当時のイギリス戦艦の中で最上の凌波性を持つ艦となった。更に、その船首楼側面を副砲ケースメイトのスペースに充てたために本艦の[[副砲]]は極めて広い射界を持っていた。[[主砲]]搭載様式はキング・ジョージ5世級と変わらないが、船首楼甲板が延びたために3番主砲塔が甲板一段分上がって波浪の影響を受けにくくなった。 |
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艦型の概要は以下のとおり<ref>[[#(Erin)船体附図]] pp.2-5(PROFILE)</ref>。浮力確保のため水面下に膨らみを持つ艦首から艦首甲板上に新設計の34.3cm砲を収めた連装式の[[砲塔|主砲塔]]が背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から菱形状の上部構造物が始まり、その上に司令塔を組み込んだ[[艦橋|操舵艦橋]]が設けられ、それを基部として頂上部と中段部に見張り所を持つ[[三脚]]型の前部[[マスト]]が立つ。その背後には2本[[煙突]]が立ち、その間隔は狭かった<ref name="船体附図p11">[[#(Erin)船体附図]] pp.11-14(TOP SIDES)</ref>。その周囲は[[装載艇|艦載艇]]置き場となっており、前部マストの基部に付いた[[クレーン]]1基により運用された。中央部甲板上に3番主砲塔が後ろ向きに1基配置された背後に後部上部構造物が設けられ、後部見張り所を基部として簡素な後部マストが立った。船首楼甲板は4番主砲塔の基部で終了し、4番・5番主砲塔が後ろ向きの背負い式で2基が配置された。副砲の15.2cm速射砲は単装砲架で船首楼の側面に片舷8基の計16基が配置されていた<ref name="船体附図p11" />。 |
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[[無線通信]]用[[アンテナ|空中線]]は、艦首から艦橋マスト頂点、そこから後部艦橋の簡易マストに結ばれている<ref>[[#ジェットランド冲海戦教訓]] p.51(ERIN)</ref> |
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浮力確保のため水面下に膨らみを持つ艦首から艦首甲板上に新設計の34.3cm砲を収めた連装式の[[砲塔|主砲塔]]が背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から菱形状の上部構造物が始まり、その上に司令塔を組み込んだ[[艦橋|操舵艦橋]]が設けられ、それを基部として頂上部と中段部に見張り所を持つ[[三脚]]型の前部[[マスト]]が立つ。その背後には2本[[煙突]]が立ち、その間隔は狭かった。その周囲は[[装載艇|艦載艇]]置き場となっており、前部マストの基部に付いた[[クレーン]]1基により運用された。中央部甲板上に3番主砲塔が後ろ向きに1基配置された背後に後部上部構造物が設けられ、後部見張り所を基部として簡素な後部マストが立った。船首楼甲板は4番主砲塔の基部で終了し、4番・5番主砲塔が後ろ向きの背負い式で2基が配置された。副砲の15.2cm速射砲は単装砲架で船首楼の側面に片舷8基の計16基が配置されていた。 |
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== 武装 == |
== 武装 == |
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=== 主砲 === |
=== 主砲 === |
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本艦の主砲は、砲身サイズは34.3cmのままであったが砲塔を新設計とした「Mark VI 34.3cm(45口径)[[ライフル砲]]」を採用している。その性能は砲口初速745m/s、635kgの砲弾を最大仰角20度で21,130mまで到達し、射程9,140mで舷側装甲318mmを貫通する能力を持っていた。この砲を新型のD型砲塔へ更新された。動作性能は仰角20度・俯角3度で旋回角度は単体首尾線方向を0度として1番・2番・4番・5番砲塔は左右150度であったが、3番砲塔は150度の旋回角のうち後部艦橋を避けるため後方0度から左右15度の間が死角となっていた。発射速度は毎分1.5発程度、熟練の砲手により短時間ならば毎分2発が可能であった。 |
本艦の[[主砲]]は、砲身サイズは34.3cmのままであったが砲塔を新設計とした「[[:en:BL_13.5-inch_Mk_VI_naval_gun|Mark VI 34.3cm(45口径)]][[ライフル砲]]」を採用している。その性能は砲口初速745m/s、635kgの砲弾を最大仰角20度で21,130mまで到達し、射程9,140mで舷側装甲318mmを貫通する能力を持っていた。この砲を新型のD型砲塔へ更新された。動作性能は仰角20度・俯角3度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として1番・2番・4番・5番砲塔は左右150度であったが、3番砲塔は150度の旋回角のうち後部艦橋を避けるため後方0度から左右15度の間が死角となっていた。発射速度は毎分1.5発程度、熟練の砲手により短時間ならば毎分2発が可能であった。 |
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なおイギリス海軍は1番主砲をA砲塔、2番主砲をB砲塔と呼称していたが、エリンに限ってはトルコ政府時代に倣って2番砲塔を「F砲塔」と呼ぶ<ref name="船体附図p11" /><ref>[[#ジェットランド冲海戦教訓]] p.12</ref>。エリンの1番主砲塔は“A”、2番砲塔は“F”、3番砲塔は“Q”、4番砲塔は“X”、5番砲塔は“Y”と割り振られていた<ref name="船体附図p11" /><ref>[[#大正5、英艦乗船報告続]] p.34</ref>。 |
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=== 副砲、その他の備砲・雷装 === |
=== 副砲、その他の備砲・雷装 === |
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副砲は新設計の「Mark XVI 15.2cm(50口径)砲」を採用した。その性能は45.3kgの砲弾を最大仰角15度で13,385mまで到達する能力を持っていた。発射速度は毎分5~7発程度であった。これを単装砲架で仰角15度・俯角7度、左右80度の射界を持っていた。他に「7.62cm(45口径)高角砲」を単装砲架で2基、57mm(50口径)単装速射砲を6基、対艦攻撃用として53.3cm魚雷発射管を単装で1番・5番主砲塔の側面に1基ずつ片舷2基で計4基配置していた。 |
[[副砲]]は新設計の「Mark XVI 15.2cm(50口径)砲」を採用した。その性能は45.3kgの砲弾を最大仰角15度で13,385mまで到達する能力を持っていた。発射速度は毎分5~7発程度であった。これを単装砲架で仰角15度・俯角7度、左右80度の射界を持っていた。他に「7.62cm(45口径)高角砲」を単装砲架で2基、57mm(50口径)単装速射砲を6基、対艦攻撃用として53.3cm魚雷発射管を単装で1番・5番主砲塔の側面に1基ずつ片舷2基で計4基配置していた。 |
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== 防御 == |
== 防御 == |
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[[File:HMS Erin in floating dry dock WWI IWM SP 2106.jpg|thumb|230x230px|浮きドックで整備を受けるエリン<br />(1918年頃の撮影)]] |
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防御方式は当時の主流として全体防御方式を採用しており、艦首甲板半ばから艦尾甲板中部までの舷側全体を覆っていた。1番主砲塔から5番主砲塔にかけての水線部の装甲厚は305mmで艦首と艦尾の末端部は102mmであった。甲板部の水平防御については、主防御甲板の装甲厚は75mmである。 |
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装甲帯はタイプシップとなった[[キング・ジョージ5世級戦艦 (初代)|キング・ジョージ5世級戦艦]]よりも短くなっていた{{Sfnp|宮永|2015|p=22}}。防御方式は当時の主流として全体防御方式を採用しており、艦首甲板半ばから艦尾甲板中部までの舷側全体を覆っていた。1番主砲塔から5番主砲塔にかけての水線部の装甲厚は305mmで艦首と艦尾の末端部は102mmであった。甲板部の水平防御については、主防御甲板の装甲厚は75mmである。 |
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== 機関 == |
== 機関 == |
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本艦の機関は[[バブコック・アンド・ウィルコックス]]式石炭・重油[[ボイラー|混焼水管缶]]15基に[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式直結タービン4基4軸推進で最大出力26,500[[馬力]]で速力21.0ノットを発揮した。石炭2,120トンと重油710トンを搭載しており、石炭のみの航続距離は10ノットで3,400海里で重油を併用すれば10ノットで5,300海里を航行できる計算であった。 |
本艦の[[機関 (機械)|機関]]は[[バブコック・アンド・ウィルコックス]]式石炭・重油[[ボイラー|混焼水管缶]]15基に[[パーソンズ・マリン・スチーム・タービン|パーソンズ]]式直結タービン4基4軸推進で最大出力26,500[[馬力]]で速力21.0ノットを発揮した。石炭2,120トンと重油710トンを搭載しており、石炭のみの[[航続距離]]は10ノットで3,400海里で重油を併用すれば10ノットで5,300海里を航行できる計算であった。石炭積載量ではキング・ジョージ5世級戦艦より1,000トン以上も少なく航続距離を犠牲にしていたが、[[イギリス海軍]]は「[[北海]]のみでの運用とすれば問題ない」と考えていたとされる{{Sfnp|宮永|2015|p=22}}。 |
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== 金剛型戦艦との関係 == |
== 金剛型戦艦との関係 == |
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[[ファイル:KONGO_-_Japan_LCCN2014699642.tif|サムネイル|200x200ピクセル|竣工時の巡洋戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]。]] |
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[[File:HMS Erin in floating dry dock WWI IWM SP 2106.jpg|thumb|250px|浮きドックで整備を受けるエリン<br />(1918年頃の撮影)]] |
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エリンは日本の[[金剛型戦艦]]のタイプシップである。両艦の設計者はヴィッカーズ社のジョージ・E・サーストン卿であり、主砲塔および副砲の配置・船体・甲板数・防御様式などに類似点がある。サーストン卿自身が「[[金剛 (戦艦)|金剛]]はレシャド五世(エリン)」を基にした」と発言している。よって金剛型が[[ライオン級巡洋戦艦]]を基にしたとする説は誤りである。ただし金剛型が先行するライオン級の設計も参考にしている可能性はある。 |
レシャディエ(エリン)は日本の[[金剛型戦艦|金剛型巡洋戦艦]]のタイプシップである。両艦の設計者はヴィッカーズ社の{{仮リンク|ジョージ・サーストン|en|George_Thurston|label=ジョージ・E・サーストン卿}}であり、両艦(レシャディエ、金剛)ともヴィッカース社で建造され、主砲塔および副砲の配置・船体・甲板数・防御様式などに類似点がある。サーストン卿自身が「[[金剛 (戦艦)|金剛]]はレシャド五世(エリン)」を基にした」と発言している。よって金剛型が[[ライオン級巡洋戦艦]]を基にしたとする説は誤りである{{Sfn|写真日本の軍艦(II)|1989|pp=25-26|ps=新造時の金剛}}{{Efn|金剛はヴィッカース社で1911年(明治44年)1月17日に起工、1912年(明治45年)5月18日に進水、1913年(大正二年)8月16日に竣工して日本に回航され、同年11月5日横須賀に到着した{{Sfn|写真日本の軍艦(II)|1989|pp=38-39|ps=戦艦『金剛』行動年表}}。}}。ただし金剛型が先行するライオン級の設計も参考にしている可能性はある。 |
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高速化するために、戦艦であるエリンから4番砲塔と後部艦橋構造物を撤去し、もしくは3番砲塔を撤去し4番砲塔と後部艦橋構造物を前方にずらすことで確保した空間に、汽缶を増設し(3番砲塔の前に集中配置)、機械室を増強し(3番砲塔と4番砲塔の間に集中配置)、装甲を薄くして軽量化し、船体を延長することで、巡洋戦艦化したものが金剛型戦艦であるといえよう。 |
高速化するために、戦艦であるエリンから4番砲塔と後部艦橋構造物を撤去し、もしくは3番砲塔を撤去し4番砲塔と後部艦橋構造物を前方にずらすことで確保した空間に、汽缶を増設し(3番砲塔の前に集中配置)、機械室を増強し(3番砲塔と4番砲塔の間に集中配置)、装甲を薄くして軽量化し、船体を延長することで、巡洋戦艦化したものが金剛型戦艦であるといえよう。 |
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== 東ヨーロッパの主力艦建艦競争 == |
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{| class="wikitable plainrowheaders" style="text-align: center;" |
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! scope="col" | 艦船 |
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! scope="col" | 国 |
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! scope="col" | 常備/満載排水量 |
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! scope="col" | 速力 |
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! scope="col" | 建造 |
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! scope="col" | 起工 |
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! scope="col" | 進水 |
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! scope="col" | 竣工 |
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! scope="col" | 概要 |
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! scope="row" | [[イェロギオフ・アヴェロフ_(装甲巡洋艦)|イェロギオフ・アヴェロフ]] |
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| {{flagicon2|GRC|1828}} |
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| 9,832/10,100t |
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| 23 kt |
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| {{flagicon2|Kingdom of Italy|1861}} |
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| 1907年4月17日 |
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| 1910年3月12日 |
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| 1911年5月16日 |
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| [[装甲巡洋艦]]。主砲は[[:en:BL_9.2-inch_Mk_IX_–_X_naval_gun|47口径9.2インチ(23.4センチ)連装砲]]×2基、[[:en:BL_7.5-inch_Mk_VI_naval_gun|45口径7.5インチ(19.1センチ)連装砲]]×4基。[[イタリア王国]]の[[ピサ級巡洋艦]]をギリシャが購入<ref name="#1"/>。[[博物館船]]として現存 |
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! scope="row" | [[:tr:Turgut_Reis_(zırhlı)|トゥルグート・レイス]] |
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| {{flagicon2|German Empire|1871}}<br/>{{flagicon|Ottoman Empire}} |
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| 9,855/10,500t |
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| 16 kt |
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| {{flagicon2|German Empire|1871}} |
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| 1890年5月 |
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| 1891年12月14日 |
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| 1894年10月14日 |
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| [[前弩級戦艦]]{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=114b}}。主砲は[[:en:28_cm_MRK_L/40|40口径11インチ(28センチ)連装砲]]×2基、[[:en:28_cm_MRK_L/35|35口径11インチ連装砲]]×1基。[[ブランデンブルク級戦艦]]の'''[[:en:SMS_Weissenburg|ヴァイセンブルグ]]'''で、1910年9月12日にオスマン帝国へ売却、[[トゥルグート・レイス級装甲艦]]の{{lang|tr|'''Turgut Reis'''}}となる。同様に姉妹艦'''[[:en:SMS_Kurfürst_Friedrich_Wilhelm|クルフュルスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム]]'''もオスマン帝国に売却され、'''[[:tr:Barbaros_Hayreddin_(zırhlı)|バルバロス・ハイレッディン]]'''となる{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=114b}}。 |
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! scope="row" | [[テゲトフ_(戦艦)|テゲトフ]] |
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| [[File:Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg|25x20px|border]] |
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| 19,698/21,595 t |
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| 20 kt |
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| [[File:Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg|25x20px|border]] |
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| 1910年9月24日 |
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| 1912年3月21日 |
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| 1913年7月21日 |
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| [[弩級戦艦]]。主砲は[[:en:Škoda_30.5_cm_/45_K10|45口径12インチ(30.5センチ)三連装砲]]×4基。[[テゲトフ級戦艦]]の[[ネームシップ]]で、[[イタリア海軍]]の弩級戦艦[[ダンテ・アリギエーリ_(戦艦)|ダンテ・アリギエーリ]] (''{{lang|it|Dante Alighieri}}'') に対抗した。 |
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! scope="row" | '''レシャディエ''' |
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| {{flagicon|Ottoman Empire}}<br />{{flagicon|United Kingdom}} |
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| 22,780/30,250 t |
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| 21 kt |
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| {{flagicon|United Kingdom}} |
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| 1911年8月1日 |
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| 1913年9月3日 |
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| 1914年8月接収 |
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| [[超弩級戦艦]]。主砲は[[:en:BL_13.5-inch_Mk_VI_naval_gun|45口径13.5インチ(34.3センチ)連装砲]]×5基。本記事で解説。'''レシャド5世'''から'''レシャディエ'''に改名し、完成直前にイギリスに接収され、'''[[アイルランド島|エリン]]'''として就役<ref>[[#T4、Erin見学]] pp.1-2(英艦“ERIN”見学)</ref>。 |
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|- |
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! scope="row" | [[エジンコート (戦艦)|リオデジャネイロ]] |
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| {{flagicon2|Brazil|1889}}<br />{{flagicon|Ottoman Empire}}<br />{{flagicon|United Kingdom}} |
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| 27,500/27,850 t |
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| 22 kt |
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| {{flagicon|United Kingdom}} |
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| 1911年9月14日 |
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| 1913年1月22日 |
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| 1914年8月接収 |
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| [[弩級戦艦]]。主砲は[[:en:EOC_12-inch_45-calibre_naval_gun|45口径12インチ(30.5センチ)連装砲]]×7基。[[南アメリカの建艦競争|南米建艦競争]]により[[ブラジル]]がイギリスの[[アームストロング・ホイットワース|アームストロング社]]に発注したが売却<ref name="希土軍備p1" />。[[:tr:Reşadiye_sınıfı_zırhlı|レシャディエ級戦艦]]2番艦のかわりに[[オスマン帝国]]が1913年後半に購入し'''スルタン・オスマン1世'''と命名<ref name="希土軍備p1-2" />。1914年8月3日、イギリス政府により接収され'''[[アジャンクールの戦い|エジンコート]]'''と改名。 |
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|- |
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! scope="row" | [[:en:Russian_battleship_Imperatritsa_Mariya|インペラトリッツァ・マリーヤ]] |
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| {{flagicon|RUS1883}}<br/>{{flagicon|SSR}} |
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| 22,600 t |
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| 21 kt |
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| {{flagicon|RUS1883}} |
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| 1911年10月30日 |
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| 1913年10月19日 |
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| 1915年6月10日 |
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| 弩級戦艦。[[:en:Obukhovskii_12-inch/52-caliber_Pattern_1907_gun|52口径12インチ(30.5センチ)三連装砲]]×4基{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=144b|ps=インペラトリッツァ・マリーア IMPERATRITSA MARIYA}}。[[ガングート級戦艦]]の発展型{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=146a|ps=ガングート/三連装砲塔を採用したロシア初の弩級戦艦}}。[[黒海艦隊]]向けに3隻建造されたインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦のネームシップ{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=146b|ps=インペラトリッツァ・マリーア/大戦と革命で失われた黒海艦隊用の弩級戦艦}}。レシャディエ(エリン)と同時期に起工したが、竣工は世界大戦突入後となった。 |
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! scope="row" | [[サラミス (戦艦)|サラミス]] |
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| {{flagicon2|GRC|1828}} |
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| 19,500/21,500 t |
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| 23 kt |
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| {{flagicon2|German Empire|1871}}<br/>{{flagicon|United_States}} |
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| 1912年7月23日 |
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| 1914年11月11日 |
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| 建造中止 |
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| 超弩級戦艦、主砲は[[:en:14-inch/45-caliber_gun|45口径14インチ連装砲]]×4基{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=130b}}。ギリシャがドイツ帝国に発注<ref name="希土軍備p1" />。主砲をアメリカ合衆国で製造したが、イギリス海軍に売却され[[アバクロンビー級モニター]]となる。船体は進水後にドイツが[[ハルク_(船舶)|浮き校舎]]として利用。 |
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|- |
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! scope="row" | [[:ru:Бородино_(линейный_крейсер)|ボロシノ]] |
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| {{flagicon|RUS1883}}<br/>{{flagicon|SSR}} |
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| 32,500 t |
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| 26.5 kt |
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| {{flagicon|RUS1883}} |
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| 1912年12月19日 |
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| 1915年7月19日 |
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| 建造中止 |
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| [[巡洋戦艦]]([[:en:Fast_battleship|高速戦艦]]){{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=145a|ps=ボロジノ BORODINO}}。[[:en:Borodino-class_battlecruiser|ボロジノ級巡洋戦艦]]のネームシップで、他に[[:en:Sister_ship|姉妹艦]]3隻([[:ru:Измаил_(линейный_крейсер)|イスマイール]]、[[:ru:Кинбурн_(линейный_крейсер)|キンブルン]]、[[:ru:Наварин_(линейный_крейсер)|ナワリン]])が起工した{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=145c|ps=ボロジノ/幻となった三十五.六センチ砲搭載艦}}。52口径35.6センチ三連装砲塔×4基{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=145b}}。1915年に進水したが、全隻建造中止になった。 |
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|- |
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! scope="row" | [[:el:Βασιλεύς_Κωνσταντίνος_Ι_(θωρηκτό)|ヴァシレフス・コンスタンチノス]] |
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| {{flagicon2|GRC|1828}}<br />{{flagicon|FRA|1870}} |
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| 23,230/25,000 t |
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| 20 kt |
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| {{flagicon|FRA|1870}} |
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| 1914年6月12日 |
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| 1915年解約 |
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| 建造中止 |
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| 超弩級戦艦。主砲は[[:fr:Canon_de_340_mm/45_modèle_1912|45口径34センチ連装砲]]×5基。[[プロヴァンス級戦艦]]の輸出仕様で、フランスで建造<ref name="希土軍備p1" />。1915年に契約を解消、フランスが'''[[サヴォア (戦艦)|サヴォア]]'''と改名、1916年に建造中止。 |
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|- |
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! scope="row" | [[キルキス_(戦艦)|キルキス]] |
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| {{flagicon|United_States}}<br/>{{flagicon2|GRC|1828}} |
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| 13,000/14,239 t |
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| 17 kt |
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| {{flagicon|United_States}} |
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| 1904年5月12日 |
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| 1905年9月30日 |
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| 1908年2月1日 |
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| 前ド級戦艦。主砲は[[:en:12-inch/45-caliber_Mark_5_gun|45口径12インチ連装砲]]×2基。ギリシャ王国がドイツ帝国やフランスに発注した超弩級戦艦が間に合わず、アメリカの[[ミシシッピ級戦艦]]'''[[ミシシッピ (BB-23)|ミシシッピ]]'''を購入する{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=51|ps=ミシシッピー/小型、重武装の異色のアメリカ戦艦}}。1914年7月21日付でギリシャ海軍の'''[[キルキス_(戦艦)|キルキス]]'''となる{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=153a|ps=ギリシャ/戦艦「キルキス」}}。同様に姉妹艦'''[[アイダホ (BB-24)|アイダホ]]'''も購入し、'''[[:el:Λήμνος_Ι_(θωρηκτό)|レムノス]]'''と改名した{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=153b}}。 |
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|- |
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! scope="row" | [[ゲーベン (巡洋戦艦)|ゲーベン]] |
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| {{flagicon2|German Empire|1871}}<br/>{{flagicon|Ottoman Empire}} |
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| 22,979/25,400 t |
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| 28.4 kt |
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| {{flagicon2|German Empire|1871}} |
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| 1909年12月7日 |
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| 1911年3月28日 |
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| 1912年7月2日 |
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| 巡洋戦艦。主砲は[[:de:28-cm-Schnelladekanone_L/50|50口径11インチ連装砲]]×5基。[[モルトケ級巡洋戦艦|モルトケ級大型巡洋艦]]の2番艦で{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|pp=126-127|ps=巡洋戦艦モルトケ}}、[[:en:Mediterranean_Division|ドイツ地中海戦隊]]配備。第一次世界大戦勃発時、[[地中海艦隊_(イギリス)|イギリス地中海艦隊]]に追跡されてオスマン帝国に[[ゲーベン追跡戦|逃げ込む]]{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152b}}。1914年8月16日付でオスマン帝国に譲渡され、同海軍の'''ヤウズ・スルタン・セリム'''となる{{Sfn|地中海戦隊|1928|p=41|ps=(原本49頁)}}。 |
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!scope="row" colspan="9"| <div style="text-align:center; font-size:90%;">国家:<br />{{flagicon2|Brazil|1889}} ブラジル [[File:Flag of Austria-Hungary (1869-1918).svg|25x20px|border]] [[オーストリア=ハンガリー帝国]] {{DEU1871}} {{FRA1870}} {{flagcountry|Kingdom of Italy|1861}} {{GRC1828}} {{OTT}} {{GBR1801}} {{RUS1883}} {{USA1912}}</div> |
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! scope="row" colspan="9"|<div style="text-align:center; font-size:90%;">出来事:<br />[[希土戦争 (1897年)|希土戦争]](ギリシャ × オスマン帝国、1897年2月 - 1897年12月)、[[伊土戦争]](イタリア王国 × オスマン帝国、1911年9月 - 1912年10月18日)、[[第一次バルカン戦争]]([[バルカン同盟]] × オスマン帝国、1912年10月8日 - 1913年5月)、[[第一次世界大戦]](1914年7月28日 - 1918年11月)</div> |
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|} |
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{{clear}} |
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== 出典 == |
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=== 注 === |
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=== 脚注 === |
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{{reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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<!-- 著者五十音順 --> |
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* <!-- クラーク2017 -->{{Cite book|和書|author1=クリストファー・クラーク|authorlink1=:en:Christopher_Clark||editor=|others=小原淳 翻訳 |date=2017-01|origiyear=2012|title=夢遊病者たち(2) {{smaller|第一次世界大戦はいかにして始まったか}}|chapter=第六章 最後のチャンス ―<ruby><rb>緊張緩和</rb><rt>デタント</rt></ruby>と危機 一九一二~一四|publisher=みすず書房|isbn=978-4-622-08544-7|ref={{SfnRef|夢遊病者たち(2)|2017}}}} |
|||
*「世界の艦船 増刊第22集 近代戦艦史」(海人社) |
|||
*「[[世界の艦船]] 増刊第30集 イギリス戦艦史」([[海人社]])ISBN 4905551366 |
|||
* <!-- タイヘイヨウセンソウ1998-11 -->{{Cite book|和書|author1=太平洋戦争研究会|author2=岡田幸和|author3=谷井建三(イラストレーション)|coauthors=|date=1998-11|title={{smaller|ビッグマンスペシャル}} 世界の戦艦 〔 大艦巨砲編 〕 {{smaller|THE BATTLESHIPS OF WORLD WAR II}}|publisher=[[世界文化社]]|series=|isbn=4-418-98140-3|ref={{SfnRef|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998}}}} |
|||
* <!-- タイヘイヨウセンソウ1999-03 -->{{Cite book|和書|author1=太平洋戦争研究会|author2=岡田幸和、瀬名堯彦|author3=谷井建三(イラストレーション)|coauthors=|date=1999-03|title={{smaller|ビッグマンスペシャル}} 世界の戦艦 〔 弩級戦艦編 〕 {{smaller|BATTLESHIPS OF DREADNOUGHTS AGE}}|publisher=[[世界文化社]]|series=|isbn=4-418-99101-8|ref={{SfnRef|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999}}}} |
|||
* <!-- ハワード2014 -->{{Cite book|和書|author=マイケル・ハワード|authorlink=マイケル・ハワード_(歴史学者)|editor=|others=馬場優 訳 |date=2014-09|origiyear=|title=第一次世界大戦|chapter=|publisher=法政大学出版部|isbn=978-4-588-36607-9|ref={{SfnRef|ハワード、第一次世界大戦|2014}}}} |
|||
* <!-- ベッケール2012 -->{{Cite book|和書|author1=ジャン=ジャック・ベッケール|author2=ゲルト・クルマイヒ|editor=|others=剣持久木、西山暁義 訳 |date=2012-03|origiyear=2008|title={{smaller|仏独共通通史}} 第一次世界大戦(上)|chapter=|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-023796-3|ref={{SfnRef|仏独共同通史、第一次世界大戦上|2012}}}} |
|||
* <!-- ベッケール2012 -->{{Cite book|和書|author1=ジャン=ジャック・ベッケール|author2=ゲルト・クルマイヒ|editor=|others=剣持久木、西山暁義 訳 |date=2012-03|origiyear=2008|title={{smaller|仏独共通通史}} 第一次世界大戦(下)|chapter=|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-023797-0|ref={{SfnRef|仏独共同通史、第一次世界大戦下|2012}}}} |
|||
* <!--マル1989-2巻-->{{Cite book|和書|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|chapter=|title={{smaller|写真}} 日本の軍艦 {{smaller|戦艦II}} 金剛・比叡・榛名・霧島 {{smaller|戦艦時代の夜明け}}|volume=第2巻|publisher=光人社|date=1989-08|isbn=4-7698-0452-0|ref={{SfnRef|写真日本の軍艦(II)|1989}}}} |
|||
*<!--ミヤナガ2015-->{{Cite book|和書|title=世界の戦艦プロファイル ドレッドノートから大和まで|date=|year=2015|publisher=[[大日本絵画]]|editor=市村 弘|isbn=9784499231527|location=東京都千代田区|last=宮永|first=忠将|ref=harv}} |
|||
* 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway) |
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* 「Conway All The World's Fightingships 1906-1922」(Conway) |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)] |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.A10112860900|title=勲00529100(国立公文書館)海軍機関中佐黒田琢磨外一名|ref=勲章、黒田琢磨}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.B02130343500|title=外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ葛藤|ref=大正3、希土葛藤}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.B02130343600|title=外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ軍備現況|ref=大正3、希土軍備}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.B02130352100|title=外事彙報 大正4年度(政-86)(外務省外交史料館)第一号/○英土国交断絶顛末ニ関スル英国政府白書摘要|ref=大正4、英土国交断絶}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.B07090410500|title=各国ヨリ帝国艦艇譲受方申出関係雑件(5-1-8-0-31)(外務省外交史料館)3.土国|ref=土国譲渡}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100781500|author=イギリス駐在員監督小栗孝三郎、イギリス駐在海軍機関少佐黒田琢磨|title=件名4年2月14日 黒田機関少佐英艦「エリン」乗艦従軍中報告書進達の件|ref=大正4、黒田進達}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100781700|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)英艦Erin乗艦中見学記事|ref=T4、Erin見学}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100781800|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)船体附図|ref=(Erin)船体附図}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100781900|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)「タルビン」附図|ref=(Erin)タービン附図}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100782000|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)全体装置及渚管装置附図|ref=(Erin)全体装置}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100782100|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)英艦Erin機関部部署表|ref=(Erin)機関部部署}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100782200|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)機械の仕様|ref=(Erin)機械仕様}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100782400|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)Engineer Commanders Order Books|ref=(Erin)機械科命令書}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100782500|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)重艦Erin行動概図|ref=重艦Erin行動概記}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100782600|title=大正4年 外国駐在員報告 巻2(防衛省防衛研究所)重艦機関日誌様式写|ref=重艦機関日誌様式写}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790300|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)5年8月24日 英艦乗船報告 第3回 英艦退艦顛末に関する報告|ref=英艦退艦顛末}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790400|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)5年9月7日 英艦乗船報告 第4回 軍艦「エリン」航跡図並に乗艦中行動報告提出の件|ref=大正5、英艦乗船報告}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790500|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)5年9月7日 英艦乗船報告第4回の続|ref=大正5、英艦乗船報告続}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790600|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)6年3月17日 電報黒田一行浦塩着の件|ref=黒田一行浦塩着}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790700|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)5年10月17日 英艦乗艦報告 第5回「ジェットランド」沖海戦に関する教訓其他之に伴う見聞並に改造等報告の件|ref=ジェットランド冲海戦教訓}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790800|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)極秘Memorandum Remarks on the Action off Jutland on31,May1916|ref=極秘Memorandum}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100790900|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)軍艦「エリン」消防本管装置図(中甲板)|ref=エリン消防本管}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100791000|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)5年3月7日 英艦「エリン」乗艦中見学報告(第2回)(1)|ref=エリン乗艦報告(2)(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100791100|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)5年3月7日 英艦「エリン」乗艦中見学報告(第2回)(2)|ref=エリン乗艦報告(2)(2)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100791500|title=大正5年 外国駐在員報告 巻3(防衛省防衛研究所)軍艦「エリン」航跡図|ref=エリン航跡図(大正5)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100806700|title=大正5年 外国駐在員報告 巻9(防衛省防衛研究所)5年6月15日 英独海戦に関する件(1)|ref=英独海戦件(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10100806800|title=大正5年 外国駐在員報告 巻9(防衛省防衛研究所)5年6月15日 英独海戦に関する件(2)|ref=英独海戦件(2)}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.C10128535700|title=大正3年~9年 大正戦役 戦時書類 巻233 末次中佐従軍見聞録(防衛省防衛研究所)北海々戦経過概略記事北海々戦詳報(タイムス)(1)|ref=北海々戦経過概略(1)}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C10128535800|title=大正3年~9年 大正戦役 戦時書類 巻233 末次中佐従軍見聞録(防衛省防衛研究所)北海々戦経過概略記事北海々戦詳報(タイムス)(2)|ref=北海々戦経過概略(2)}} |
|||
*[https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
|||
**{{Citation |和書|author=箕作元八 編|authorlink=箕作元八|date=1919-01|title=一九一四年 = 一九一九年世界大戦史. 前篇|chapter=|publisher=富山房|url={{NDLDC|953216}}|ref={{SfnRef|箕作、世界大戦史前篇|1918}}}} |
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**{{Citation |和書|author=箕作元八 編|authorlink=箕作元八|date=1919-10|title=一九一四年 = 一九一九年世界大戦史. 後篇|chapter=|publisher=富山房|url={{NDLDC|953217}}|ref={{SfnRef|箕作、世界大戦史後篇|1918}}}} |
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**{{Citation |和書|author={{smaller|海軍少将}}日高謹爾|authorlink=日高謹爾|editor=|date=1927-05|title=ジュットランド海戰の研究|chapter=|series=|publisher=帝国海軍社|url={{NDLDC|1454984}}|ref={{SfnRef|日高謹爾|1927}}}} |
|||
**{{Citation |和書|author=獨逸海軍本部 編纂|editor=|date=1928-11|title=地中海戰隊 {{smaller|一九一四年乃至一九一八年海戰史}}|chapter=|series=土耳古方面海戰史 第1巻|publisher=海軍軍令部|url={{NDLDC|1900859}}|ref={{SfnRef|地中海戦隊|1928}}}} |
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**{{Citation |和書|author=鹿島萩麿|authorlink=鹿島萩麿|editor=|date=1934-03|title=ジュットランド海戰史論 {{smaller|昭和九年刊行}}|chapter=|series=|publisher=神田嘉穂|url={{NDLDC|1447661}}|ref={{SfnRef|鹿島萩麿|1934}}}} |
|||
**{{Citation |和書|author=世界軍備研究会(編)|editor=|date=1935-06|title=世界海軍大写真帖|chapter=|publisher=帝国軍備研究社|url={{NDLDC|1465596}}|ref={{SfnRef|世界海軍大写真帖|1935}}}} |
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**{{Citation |和書|author1=[[薄田斬雲]]編述|author2=[[坪内逍遥]]、[[煙山専太郎]]監修|editor=|date=1933-03|title=通俗的世界全史 第16巻 二十世紀史(上巻)|chapter=|publisher=早稲田大学出版部|url={{NDLDC|1175653}}|ref={{SfnRef|通俗的世界全史、16巻|1928}}}} |
|||
**{{Citation |和書|author1=薄田斬雲編述|author2=坪内逍遥、煙山専太郎監修|editor=|date=1933-04|title=通俗的世界全史 第17巻 二十世紀史(下巻)|chapter=|publisher=早稲田大学出版部|url={{NDLDC|1175675}}|ref={{SfnRef|通俗的世界全史、17巻|1928}}}} |
|||
**{{Citation |和書|author=外務省情報部編纂|editor=|date=1940-09|title={{smaller|國際事情 昭和十五年版}} 世界の動き|chapter=|publisher=良栄堂|url={{NDLDC|1079112}}|ref={{SfnRef|外務省、世界の動き|1940}}}} |
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**{{Citation |和書|author=[[立作太郎]]博士論行委員会|editor=|date=1946-04|title=立博士外交史論文集|chapter=第七 世界大戰に關する外交|publisher=日本評論社|url={{NDLDC|1459235}}|ref={{SfnRef|立博士外交史論文集|1946}}}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[戦艦一覧]] |
* [[戦艦一覧]] |
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* [[金剛型戦艦]] |
* [[金剛型戦艦]] |
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* [[アブデュル・カーディル (戦艦)]] - オスマン帝国が自国で建造しようとした弩級戦艦。 |
|||
* [[サラミス (戦艦)]] - [[ギリシャ王国]]が同時期にドイツ帝国に発注した超弩級戦艦。 |
|||
* [[サヴォア (戦艦)]] - ギリシャ王国が同時期に[[フランス]]に発注した[[プロヴァンス級戦艦]]。 |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2024年3月16日 (土) 12:37時点における最新版
エリン | |
---|---|
基本情報 | |
運用者 | イギリス海軍 |
艦種 | 超弩級戦艦 |
艦歴 | |
就役 | 1914年8月23日 |
退役 | 1922年5月 |
除籍 | 1922年12月19日 |
その後 | スクラップとして売却。1923年に解体完了。 |
要目 | |
常備排水量 | 22,780 トン |
満載排水量 | 30,250 トン |
全長 | 170.5 m |
最大幅 | 27.9 m |
吃水 | 8.7m |
主缶 | バブコック・アンド・ウィルコックス式石炭・重油混焼水管缶×15基 |
主機 | パーソンズ式直結タービン(高速・低速)×2組 |
推進 | スクリュープロペラ×4軸 |
出力 | 最大26,500 hp |
最大速力 | 21.0 ノット |
燃料 |
石炭:2,120 トン 重油:710 t |
航続距離 | 5,300 海里/10ノット |
乗員 | 1,070名 |
兵装 | |
装甲 |
|
レシャディエ | |
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基本情報 | |
建造所 | ヴィッカース バロー造船所 |
運用者 | オスマン帝国海軍 |
級名 | レシャディエ級戦艦 |
艦歴 | |
起工 | 1911年8月11日 |
進水 | 1913年9月3日 |
最期 | 1914年8月3日、イギリス海軍によって接収[1]。 |
要目 |
エリン (英語: HMS Erin) は、イギリス海軍が建造した超弩級戦艦である[2]。元はオスマン帝国がイギリスに発注したレシャディエ級戦艦のネームシップで、当初は「レシャド5世(Reshad V:トルコ語: Reşad V)」と命名される予定であったが、後に「レシャディエ (Reshaddieh:Reşadiye)」と命名された[3][4]。
第一次世界大戦勃発直後の1914年8月3日[注釈 1]、完成直前の状態でイギリス政府によって接収される[7]。レシャドはエリン (HMS Erin) と改名されて8月下旬に竣工した[1][8][注釈 2]。
艦名のエリン (Erin) はゲール語に由来するアイルランド島の古名に由来する。
概要
[編集]衰退傾向にあったオスマン帝国は、不凍港を求めて南下するロシア帝国の脅威に晒されていた[10]。ロシアの最終的な目標は、コンスタンティノープルおよびダーダネルス海峡とボスポラス海峡の掌握であった[11]。 ロシアに脅かされるオスマン帝国に、3B政策を掲げるドイツ帝国が接近した[12](グレート・ゲーム、東方問題)[13]。オスマン帝国の陸軍はドイツ帝国陸軍が派遣した軍事顧問により近代化を行うなど[14]、親独的な立場であった[15][16]。これに対し、オスマン帝国海軍はイギリス海軍から軍事顧問を受け入れるなど、イギリスとの関係を維持する[15][注釈 3][注釈 4]。
ギリシャ王国とオスマン帝国の関係は複雑だった。ギリシャはイタリア王国からピサ級巡洋艦を輸入、装甲巡洋艦イェロギオフ・アヴェロフ (Georgios Averof) と命名した[19][注釈 5]。 ギシリャ海軍が装甲巡洋艦を購入したことで、オスマン帝国との建艦競争に拍車がかかった[21]。
オスマン帝国はギリシャの装甲巡洋艦に脅威を感じ、列強各国より大型艦を輸入しようと運動を開始する[22]。大日本帝国にも珍田在ドイツ日本大使を通じて巡洋戦艦の購入を打診した[注釈 6]。この時はドイツ帝国よりブランデンブルク級戦艦2隻を購入し[23]、トゥルグート・レイス級装甲艦となった[24][注釈 7]。
オスマン帝国は1911年9月から1912年10月の伊土戦争で敗北した。1912年10月から1913年5月にかけての第一次バルカン戦争でも[25]、バルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリア)に敗北した[26](ロンドン条約、ブカレスト条約)。この状況下、オスマン帝国がドイツ帝国から輸入した戦艦2隻は前弩級戦艦だった。オスマン帝国海軍はイギリスの民間企業に超弩級戦艦を発注する[15]。英国企業でレシャディエ級戦艦の建造が始まる[27]。ヴィッカース社バロー造船所で建造された本艦は、当初「レシャド5世(Reshad V:Reşad V)」と命名される予定であったが、後に「レシャディエ (Reshaddieh:Reşadiye)」に改名された。
一方、2番艦の建造を巡って紆余曲折があった[注釈 8]。ブラジル政府が売却したリオデジャネイロを購入し[21]、「スルタン・オスマン1世 (Sultan Osman-ı Evvel) と命名した[29][注釈 9]。
オスマン帝国戦艦2隻(レシャディエ、オスマン1世)完成間近の1914年7月末、第一次世界大戦が勃発した[32]。オスマン帝国はドイツ帝国と秘密裏に土独同盟を結んだので[6]、イギリスの警戒を招いた[5]。また1913年危機を経て[14]、オスマン帝国海軍の増強に危機感を抱いていたロシア帝国は[33]、サゾーノフ外務大臣がベンケンドルフ(ロシア駐英大使)を通じて「貴国で建造中の超弩級戦艦2隻がオスマン帝国に渡らないように。」と同盟(三国協商)を結んでいるイギリス政府に申し入れた[34](コンスタンティノープル合意)。オスマン帝国の新鋭超弩級戦艦は、前弩級戦艦を主力とするロシア海軍(黒海艦隊)を圧倒する可能性を有しており、黒海のパワーバランスとロシア南下政策を根底から覆しかねなかったのである[34]。
このような情勢下で竣工したレシャディエは、イギリス政府のウィンストン・チャーチル海軍大臣の指示により接収され、同年8月3日付で英国海軍に編入された[注釈 10][注釈 11]。 この行為はオスマン帝国の反英感情を盛り上げ[36][7]、同時期にオスマン帝国領海に辿り着いたドイツ帝国海軍の軍艦2隻(ゲーベン、ブレスラウ)編入事件も重なってオスマン帝国の親独立場を鮮明にさせた[37][注釈 12][注釈 13]。 イギリスは接収した戦艦2隻の代艦提供を申し出たが、オスマン帝国の姿勢は変わらなかった[35][注釈 12]。 イギリスとトルコで同時期に生起した事件は、オスマン帝国が中央同盟国側(ドイツ帝国側)に立って参戦する要因を作った[35][37]。
イギリス海軍戦艦としてエリン (HMS Erin) と改名された本艦は1914年8月23日に就役、リヴァプールに移動して残工事をおこなった[40]。9月8日に出港し、イギリス艦隊に加わった[40]。第4戦艦戦隊に所属した[41][注釈 14]。 大戦中、三脚マストの頂部に新型の射撃方位盤を設置したほか[43]、射撃指揮所の拡大、2番煙突後部に探照灯台の新設といった改装を行っている。
1916年5月31日から6月1日にかけて第2戦艦戦隊 (2nd Battle Squadron) 第1分隊[44](キング・ジョージ5世、エイジャックス、センチュリオン、エリン)としてユトランド沖海戦に参加した[45]。観戦武官として度々エリンに乗艦していた日本海軍の黒田琢磨機関少佐は、本艦の艦橋から英独艦隊決戦を記録している[46][注釈 15]。 ジェリコー提督直率の主力艦隊(戦艦艦隊)最左翼で殿艦だったエリンは、ドイツ帝国海軍の大洋艦隊 (Hochseeflotte) から最も遠い位置にあり[49]、主砲を発砲する機会がないまま終わっている[50][43]。
1917年に後部艦橋の改正と7.62cm高射砲2基の設置等を含む改装を行い、1918年に2番・3番砲塔の上部に陸上機の滑走台を設けた。
第1次大戦後、1919年10月にはノア管区所属の練習艦となり、同年12月よりチャタム工廠で戦艦の砲塔操作の練習用として用いられている。
エリンは1920年の7~8月にはデヴォンポート海軍基地で大規模修理に入った。これは、当時開催準備が進められていたワシントン海軍軍縮条約において「練習戦艦」として保有枠の制限から外すことを意図していたものだが、最終的には練習戦艦としての保有枠にはオライオン級戦艦のサンダラー (HMS Thunderer) が選ばれたため、エリンは1922年5月をもって退役[43]、スクラップとしてコックス・アンド・ダンクス社(Cox & Danks Shipbreaking Co)に売却され、同年12月19日に除籍となり、クイーンズバラで1923年に解体された。
中央アジアではオスマン帝国がトルコ革命によって打倒され、列強はアンカラ政府を承認してトルコ共和国が樹立する[51]。そしてトルコ共和国が諸外国と締結したローザンヌ条約などにより賠償請求問題に決着がつき[52]、戦艦レシャディエ(エリン)とスルタン・オスマン1世(エジンコート)などを巡る金銭問題も解決した[注釈 16]。
艦形
[編集]本艦のタイプシップはキング・ジョージ5世級戦艦(初代)であるが、随所にオスマン帝国の意向に沿った仕様が見られる[54][55]。原型ではオスマン帝国最大の大きさを誇るドックをもってしても全長が収まらず、整備が出来ないために全長を12m縮め[55]、幅を0.8m広くする改設計を行った。全長が短くなったために艦内容積が不足するのをカバーするために船体形状は短船首楼型船体から船首楼を4番砲塔基部まで伸ばす長船首楼型船体に改めた為、本艦は当時のイギリス戦艦の中で最上の凌波性を持つ艦となった。更に、その船首楼側面を副砲ケースメイトのスペースに充てたために本艦の副砲は極めて広い射界を持っていた。主砲搭載様式はキング・ジョージ5世級と変わらないが、船首楼甲板が延びたために3番主砲塔が甲板一段分上がって波浪の影響を受けにくくなった。
艦型の概要は以下のとおり[56]。浮力確保のため水面下に膨らみを持つ艦首から艦首甲板上に新設計の34.3cm砲を収めた連装式の主砲塔が背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から菱形状の上部構造物が始まり、その上に司令塔を組み込んだ操舵艦橋が設けられ、それを基部として頂上部と中段部に見張り所を持つ三脚型の前部マストが立つ。その背後には2本煙突が立ち、その間隔は狭かった[57]。その周囲は艦載艇置き場となっており、前部マストの基部に付いたクレーン1基により運用された。中央部甲板上に3番主砲塔が後ろ向きに1基配置された背後に後部上部構造物が設けられ、後部見張り所を基部として簡素な後部マストが立った。船首楼甲板は4番主砲塔の基部で終了し、4番・5番主砲塔が後ろ向きの背負い式で2基が配置された。副砲の15.2cm速射砲は単装砲架で船首楼の側面に片舷8基の計16基が配置されていた[57]。
無線通信用空中線は、艦首から艦橋マスト頂点、そこから後部艦橋の簡易マストに結ばれている[58]
武装
[編集]主砲
[編集]本艦の主砲は、砲身サイズは34.3cmのままであったが砲塔を新設計とした「Mark VI 34.3cm(45口径)ライフル砲」を採用している。その性能は砲口初速745m/s、635kgの砲弾を最大仰角20度で21,130mまで到達し、射程9,140mで舷側装甲318mmを貫通する能力を持っていた。この砲を新型のD型砲塔へ更新された。動作性能は仰角20度・俯角3度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として1番・2番・4番・5番砲塔は左右150度であったが、3番砲塔は150度の旋回角のうち後部艦橋を避けるため後方0度から左右15度の間が死角となっていた。発射速度は毎分1.5発程度、熟練の砲手により短時間ならば毎分2発が可能であった。
なおイギリス海軍は1番主砲をA砲塔、2番主砲をB砲塔と呼称していたが、エリンに限ってはトルコ政府時代に倣って2番砲塔を「F砲塔」と呼ぶ[57][59]。エリンの1番主砲塔は“A”、2番砲塔は“F”、3番砲塔は“Q”、4番砲塔は“X”、5番砲塔は“Y”と割り振られていた[57][60]。
副砲、その他の備砲・雷装
[編集]副砲は新設計の「Mark XVI 15.2cm(50口径)砲」を採用した。その性能は45.3kgの砲弾を最大仰角15度で13,385mまで到達する能力を持っていた。発射速度は毎分5~7発程度であった。これを単装砲架で仰角15度・俯角7度、左右80度の射界を持っていた。他に「7.62cm(45口径)高角砲」を単装砲架で2基、57mm(50口径)単装速射砲を6基、対艦攻撃用として53.3cm魚雷発射管を単装で1番・5番主砲塔の側面に1基ずつ片舷2基で計4基配置していた。
防御
[編集]装甲帯はタイプシップとなったキング・ジョージ5世級戦艦よりも短くなっていた[43]。防御方式は当時の主流として全体防御方式を採用しており、艦首甲板半ばから艦尾甲板中部までの舷側全体を覆っていた。1番主砲塔から5番主砲塔にかけての水線部の装甲厚は305mmで艦首と艦尾の末端部は102mmであった。甲板部の水平防御については、主防御甲板の装甲厚は75mmである。
機関
[編集]本艦の機関はバブコック・アンド・ウィルコックス式石炭・重油混焼水管缶15基にパーソンズ式直結タービン4基4軸推進で最大出力26,500馬力で速力21.0ノットを発揮した。石炭2,120トンと重油710トンを搭載しており、石炭のみの航続距離は10ノットで3,400海里で重油を併用すれば10ノットで5,300海里を航行できる計算であった。石炭積載量ではキング・ジョージ5世級戦艦より1,000トン以上も少なく航続距離を犠牲にしていたが、イギリス海軍は「北海のみでの運用とすれば問題ない」と考えていたとされる[43]。
金剛型戦艦との関係
[編集]レシャディエ(エリン)は日本の金剛型巡洋戦艦のタイプシップである。両艦の設計者はヴィッカーズ社のジョージ・E・サーストン卿であり、両艦(レシャディエ、金剛)ともヴィッカース社で建造され、主砲塔および副砲の配置・船体・甲板数・防御様式などに類似点がある。サーストン卿自身が「金剛はレシャド五世(エリン)」を基にした」と発言している。よって金剛型がライオン級巡洋戦艦を基にしたとする説は誤りである[61][注釈 17]。ただし金剛型が先行するライオン級の設計も参考にしている可能性はある。
高速化するために、戦艦であるエリンから4番砲塔と後部艦橋構造物を撤去し、もしくは3番砲塔を撤去し4番砲塔と後部艦橋構造物を前方にずらすことで確保した空間に、汽缶を増設し(3番砲塔の前に集中配置)、機械室を増強し(3番砲塔と4番砲塔の間に集中配置)、装甲を薄くして軽量化し、船体を延長することで、巡洋戦艦化したものが金剛型戦艦であるといえよう。
東ヨーロッパの主力艦建艦競争
[編集]艦船 | 国 | 常備/満載排水量 | 速力 | 建造 | 起工 | 進水 | 竣工 | 概要 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
イェロギオフ・アヴェロフ | 9,832/10,100t | 23 kt | 1907年4月17日 | 1910年3月12日 | 1911年5月16日 | 装甲巡洋艦。主砲は47口径9.2インチ(23.4センチ)連装砲×2基、45口径7.5インチ(19.1センチ)連装砲×4基。イタリア王国のピサ級巡洋艦をギリシャが購入[22]。博物館船として現存 | ||
トゥルグート・レイス | 9,855/10,500t | 16 kt | 1890年5月 | 1891年12月14日 | 1894年10月14日 | 前弩級戦艦[63]。主砲は40口径11インチ(28センチ)連装砲×2基、35口径11インチ連装砲×1基。ブランデンブルク級戦艦のヴァイセンブルグで、1910年9月12日にオスマン帝国へ売却、トゥルグート・レイス級装甲艦のTurgut Reisとなる。同様に姉妹艦クルフュルスト・フリードリヒ・ヴィルヘルムもオスマン帝国に売却され、バルバロス・ハイレッディンとなる[63]。 | ||
テゲトフ | 19,698/21,595 t | 20 kt | 1910年9月24日 | 1912年3月21日 | 1913年7月21日 | 弩級戦艦。主砲は45口径12インチ(30.5センチ)三連装砲×4基。テゲトフ級戦艦のネームシップで、イタリア海軍の弩級戦艦ダンテ・アリギエーリ (Dante Alighieri) に対抗した。 | ||
レシャディエ | 22,780/30,250 t | 21 kt | 1911年8月1日 | 1913年9月3日 | 1914年8月接収 | 超弩級戦艦。主砲は45口径13.5インチ(34.3センチ)連装砲×5基。本記事で解説。レシャド5世からレシャディエに改名し、完成直前にイギリスに接収され、エリンとして就役[64]。 | ||
リオデジャネイロ | 27,500/27,850 t | 22 kt | 1911年9月14日 | 1913年1月22日 | 1914年8月接収 | 弩級戦艦。主砲は45口径12インチ(30.5センチ)連装砲×7基。南米建艦競争によりブラジルがイギリスのアームストロング社に発注したが売却[31]。レシャディエ級戦艦2番艦のかわりにオスマン帝国が1913年後半に購入しスルタン・オスマン1世と命名[4]。1914年8月3日、イギリス政府により接収されエジンコートと改名。 | ||
インペラトリッツァ・マリーヤ | 22,600 t | 21 kt | 1911年10月30日 | 1913年10月19日 | 1915年6月10日 | 弩級戦艦。52口径12インチ(30.5センチ)三連装砲×4基[65]。ガングート級戦艦の発展型[66]。黒海艦隊向けに3隻建造されたインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦のネームシップ[67]。レシャディエ(エリン)と同時期に起工したが、竣工は世界大戦突入後となった。 | ||
サラミス | 19,500/21,500 t | 23 kt | 1912年7月23日 | 1914年11月11日 | 建造中止 | 超弩級戦艦、主砲は45口径14インチ連装砲×4基[68]。ギリシャがドイツ帝国に発注[31]。主砲をアメリカ合衆国で製造したが、イギリス海軍に売却されアバクロンビー級モニターとなる。船体は進水後にドイツが浮き校舎として利用。 | ||
ボロシノ | 32,500 t | 26.5 kt | 1912年12月19日 | 1915年7月19日 | 建造中止 | 巡洋戦艦(高速戦艦)[69]。ボロジノ級巡洋戦艦のネームシップで、他に姉妹艦3隻(イスマイール、キンブルン、ナワリン)が起工した[70]。52口径35.6センチ三連装砲塔×4基[71]。1915年に進水したが、全隻建造中止になった。 | ||
ヴァシレフス・コンスタンチノス | 23,230/25,000 t | 20 kt | 1914年6月12日 | 1915年解約 | 建造中止 | 超弩級戦艦。主砲は45口径34センチ連装砲×5基。プロヴァンス級戦艦の輸出仕様で、フランスで建造[31]。1915年に契約を解消、フランスがサヴォアと改名、1916年に建造中止。 | ||
キルキス | 13,000/14,239 t | 17 kt | 1904年5月12日 | 1905年9月30日 | 1908年2月1日 | 前ド級戦艦。主砲は45口径12インチ連装砲×2基。ギリシャ王国がドイツ帝国やフランスに発注した超弩級戦艦が間に合わず、アメリカのミシシッピ級戦艦ミシシッピを購入する[72]。1914年7月21日付でギリシャ海軍のキルキスとなる[73]。同様に姉妹艦アイダホも購入し、レムノスと改名した[74]。 | ||
ゲーベン | 22,979/25,400 t | 28.4 kt | 1909年12月7日 | 1911年3月28日 | 1912年7月2日 | 巡洋戦艦。主砲は50口径11インチ連装砲×5基。モルトケ級大型巡洋艦の2番艦で[39]、ドイツ地中海戦隊配備。第一次世界大戦勃発時、イギリス地中海艦隊に追跡されてオスマン帝国に逃げ込む[28]。1914年8月16日付でオスマン帝国に譲渡され、同海軍のヤウズ・スルタン・セリムとなる[38]。 | ||
出典
[編集]注
[編集]- ^ ちょうどオスマン帝国はドイツ帝国と軍事同盟を結んだばかりだった[5][6]。
- ^ 同時に接収されたトルコ戦艦スルタン・オスマン1世は、英戦艦エジンコート (HMS Agincourt) と改名された[9]。
- ^ イギリス海軍からギャンブル提督(1909年2月~1910年3月)、ウィリアムズ提督(1910年4月~1912年4月)、リムパス提督(1912年5月~1914年9月)が派遣され、オスマン帝国艦隊総司令官(コモンドン・ド・ラ・フロット)に任命されていた[17]。
- ^ アーサー・リンパス提督(イギリス海軍使節団)はオスマン帝国の海軍力を強化すると共に「イギリスは海軍や沿岸警備に幅広い経験を有しています」「地上戦に関してはドイツ陸軍とドイツ人顧問に、そして海軍についてはイギリスの顧問から聞くのが一番賢明だと確信しています。」とオスマン海軍本部に進言した[18]。
- ^ 武装巡洋艦アヴエロツフ(一九一〇年三月進水)[20] 排水量九四五〇噸、時速二二節半。伊太利の同種艦ピサの姉妹艦。三六吋探照燈二基を有す。
- ^ トルコ側が希望したのは「其ノ語氣ヨリ察スルニ伊吹(鞍馬型巡戦)生駒(筑波型巡戦)ノ如キモノヲ希望シ居ルカ如シ」であったという(珍田大使より小村外務大臣へ報告)[22]。
- ^ ドイツ艦は、装甲艦バルバロス・ハイレッディン (Barbaros Hayreddin) (旧名:クルフェスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム) 、装甲艦トゥルグト・レイス (Turgut Reis) (旧名:ヴァイセンブルク) と改名した。
- ^ ビッグマンスペシャル『世界の戦艦、大艦巨砲編』152ページでは、オスマン帝国が発注したのはレシャディエ (Reşadiye) 、レシャディエハミス (Reshad-i Hammiss) 、ファチキ (Fatih) とする[28]。
- ^ ギリシャ政府はドイツ帝国に戦艦サラミス (Σαλαμίς) を発注した[30]。フランスに [31]、戦艦ヴァシレフス・コンスタンチノス(Βασιλεύς Κωνσταντίνος Ι) を発注した。
- ^ 接収時の状況を、新戦艦配属予定だったラウフ・オルバイが自伝『地獄の石臼』で回想している。
- ^ トルコは已に八月一日に於て、ドイツとの秘密の同盟條約を結び、ロシヤが戰爭に参加せば、相互の間に應援義務の發生すべきを定めたり。同日午後ロシヤが戰爭に加はるに至り、同盟條約の實施條件が備はるに至れり。オーストリヤも亦トルコとの同盟條約に加盟せり。該條約は嚴に秘密に付せられ、トルコの参戰の準備成るの日に至る迄、トルコは中立の維持を装ふべきことと爲せり。』聯合軍側に於て、八月一日のドイツ、トルコ間の秘密同盟條約の成立を確知し得ざりしより、トルコに對して種々の提議を爲し、之をして中立を維持せしめんと計れり。』ヨーロッパ大戰開始の頃、八月三日に於て、イギリス内閣は、國内の造船所に於てトルコ政府の爲めに製造中なりし二隻の軍艦の徴發を行ひ、トルコ政府の憤怒を招けり。ドイツ、イギリス間の開戰あるや、ドイツ軍艦ゲーベン號及びプレスラウ號の二隻がボスフォラス海峡に竄入し、トルコは是等のドイツ軍艦を購入せりと稱し、イギリス政府は、國際法違反の故を以て、之に關して抗議を提出せり。[35](以下略)
- ^ a b トルコ當局は敵諸國大使に對し、軍艦ゲーベン及ブレスローの入航は、トルコが之を買上たるによるものなり、との説明を與へ、兩艦を以てかねて英國に於て建造中なりしトルコの新建造艦ズルタン・オスマン及レシャト五世の二隻が開戰と同時に、英海軍に徴發せられたるを以て其の代艦たるものなり、と主張せり。茲に於て英國はトルコに對し、戰後同價値なる代艦を引渡すべしと誓約したるにも拘はらず、トルコは兩艦はトルコの所有に轉じたりとの口實を設けて敢て動かざりき。兩艦は八月十六日トルコ旗を掲げ、同日首都の沖合に投錨し、トルコ人士官及兵員若干を配乗せしめたる後、海軍大臣は艦上に嚴粛なる儀式を擧げて兩艦の虚構なる移管を行ひ、軍艦ゲーベンにはヤブス・ズルタン・ゼリムなる艦名を ブレスローにはミデイリなる艦名を與へ、戰隊司令官ズーホン提督を、トルコ海上諸艦艇の指揮官に任命せり[38]。(以下略)
- ^ 巡洋戦艦ゲーベンは、オスマン帝国軍艦ヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) となった[39]。小型巡洋艦ブレスラウはミディッリ (Midilli) と改名された[38]。
- ^ エリンが第2戦艦戦隊に転出したあと、第4戦艦戦隊には戦艦カナダ(チリがイギリスに発注したアルミランテ・ラトーレを接収した超弩級戦艦)が編入されている[42]。
- ^ なお巡洋戦艦クイーン・メリー (HMS Queen Mary) が轟沈した際[47]、観戦武官の下村忠助少佐が戦死した[48]。戦艦ヴァンガード (HMS Vanguard) に派遣されていた今村信次郎少佐は、眼病のため病院船で治療中だった[46]。
- ^ 對土協約議定書の調印[53](中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)
- ^ 金剛はヴィッカース社で1911年(明治44年)1月17日に起工、1912年(明治45年)5月18日に進水、1913年(大正二年)8月16日に竣工して日本に回航され、同年11月5日横須賀に到着した[62]。
脚注
[編集]- ^ a b #エリン航跡図(大正5) pp.5,9(英駐秘第二五號附属)
- ^ 世界の戦艦、弩級戦艦編 1999, p. 162aトルコ/RESHAD V レシャド5世(英戦艦エリン)
- ^ 世界の戦艦、弩級戦艦編 1999, p. 162bヨーロッパ小国海軍の弩級戦艦
- ^ a b #大正3、希土軍備 pp.1-2「希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)」
- ^ a b ハワード、第一次世界大戦 2014, p. 72.
- ^ a b 立博士外交史論文集 1946, p. 354.
- ^ a b 箕作、世界大戦史前篇 1918, p. 128原本157頁
- ^ #大正4、英土国交断絶 p.1「英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日附報告)」
- ^ 世界の戦艦、弩級戦艦編 1999, p. 160aブラジル/RIO DE JANEIRO リオデジャネイロ(英戦艦エジンコート)
- ^ 外務省、世界の動き 1940, pp. 11–12(原本7-9頁)三、英露の抗爭 ― イスタンブルを中心に
- ^ 夢遊病者たち(2) 2017, p. 517.
- ^ 夢遊病者たち(2) 2017, pp. 507–513ボスボラス海峡のドイツ人
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関連項目
[編集]- イギリス海軍艦艇一覧
- オスマン帝国海軍艦艇一覧
- 戦艦一覧
- 金剛型戦艦
- アブデュル・カーディル (戦艦) - オスマン帝国が自国で建造しようとした弩級戦艦。
- サラミス (戦艦) - ギリシャ王国が同時期にドイツ帝国に発注した超弩級戦艦。
- サヴォア (戦艦) - ギリシャ王国が同時期にフランスに発注したプロヴァンス級戦艦。
外部リンク
[編集]- 'Erin' (1911)本艦のスペックと写真があるページ。(英語)