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「紅葉谷川庭園砂防施設」の版間の差分

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{{脚注の不足|date=2020年2月}}
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'''紅葉谷川庭園砂防'''(もみじだにがわていえんさぼう)は、1948年(昭和23年)から2年にわたり紅葉谷川(奥紅葉谷)で行われた砂防事業「特別名勝厳島災害復旧工事」のこと。'''庭園砂防'''という名称を発明。事業による安全性の向上のほか、[[日本庭園]]の美学をベースに、自然に溶け込んだ美しい[[風景]]をあみ出している。1950年竣工。
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|image1=Momijidani on Itsukushima Island 7.jpg
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}}
{{Location map|Japan Mapplot|coordinates={{Coord|34.29|132.32}}|caption=|width=256}}<!--紅葉谷橋-->
'''紅葉谷川庭園砂防施設'''(もみじだにがわていえんさぼうしせつ)は、[[広島県]][[廿日市市]]の[[厳島]](宮島)内を流れる、砂防指定地紅葉谷川にある[[砂防]]施設である{{r|cgrh5}}。


[[厳島神社]]背後の[[弥山 (広島県)|弥山]]を流れる紅葉谷川で[[枕崎台風]]により[[土石流]]災害が発生し、[[文部省]]事業「[[史跡]][[名勝]]厳島災害復旧工事」により、[[1950年]](昭和25年)に竣工した{{r|cgrh5}}{{r|ph408598}}。国の[[重要文化財]]、国重文指定区間周辺はほぼ[[紅葉谷公園]]になる。
== 事業概要 ==
1945年(昭和20年)9月17日に、[[広島県]][[厳島]](宮島)を直撃した[[枕崎台風]]の影響により、紅葉谷川上流で発生した[[山崩れ]]が[[土石流]]と化して[[嚴島神社]]周辺、[[紅葉橋]]や近隣の[[旅館]]などが著しい被害を蒙る。
中津井眞を委員長とする史蹟名勝厳島災害復旧工事委員会が組織され、[[丹羽鼎三]]が設計指導を行っている。また、[[史跡]][[名勝]]地としてふさわしい工事を行うため、「岩石公園築造趣意書」が作成されている。


庭園砂防とはこの施設整備の際に作られた言葉で、砂防工に造園技術を加えて[[日本庭園]]の美を現出したものを意味する{{r|suirikagaku44}}。[[太平洋戦争]]終戦後の混乱期に、国と県そして[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が連携し、神社一帯の文化財の災害復旧工事として進められた。関係者で工事委員会が結成され庭園砂防の趣意を決定、流出した岩石を傷つけず、樹木を一本も伐採せず、人工的なものを人の目に触れない工夫がされた。設計は広島県土木部、施工は[[庭師]]が担当した。
* 所在地: 広島県宮島町
* 管理者: 広島県砂防課
* 規模: 流域面積1.35平方キロメートル
* 延長: 2733.5メートル


「紅葉谷川庭園砂防」で、昭和62年度[[手づくり郷土賞]](水辺の風物詩)[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part2_s62/2-51.pdf 受賞]。平成17年度には同賞大賞[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part20_H17/H17_taishou_32.pdf 受賞]。
===白糸川の砂防事業===

2005年(平成17年)9月6日の台風14号で大規模な土石流発生した白糸川でも類似の事業を実施した<ref>{{Cite web |url=http://www.miyajima.or.jp/pickup/sabou.html |title=白糸川と紅葉谷川の砂防事業 |accessdate=2018-09-03 |website=一般社団法人宮島観光協会}}</ref>。
日本では[[景観緑三法]]施行以降、[[景観]]に配慮した公共工事が進められているが、紅葉谷はその先駆的事例{{r|jila1994}}にあたる。国内のみならず海外の技術者にも評価されており、現在でも水辺環境整備の方法に影響を与えている{{r|cgrh5}}{{r|jila1994}}{{Sfn|海堀|2008|p=4}}。

本項では西隣の白糸川含め弥山からの土石流被災と復旧についても記す。

== 文化財 ==
{| style="float:right;text-align:left;"
||
[[ファイル:弥山の砂防河川 2008.jpg|180px|center|thumb|2008年{{国土航空写真}}。[[平成17年台風第14号]]により白糸川で土石流が発生し復旧した後になる。]]
||
{{OSM Location map
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| caption =[[File:Red_pog.svg|10px]]-[[File:Red_pog.svg|10px]]が庭園砂防、[[File:Yellow_pog.svg|10px]]-[[File:Yellow_pog.svg|10px]]が通常砂防堰堤区間{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。[[File:Blue_pog.svg|10px]]-[[File:Red_pog.svg|10px]]が国重文指定範囲{{r|ph408598}}。
|label1 =厳島神社|label-pos1 = top|label-size1 = 14|mark1 =Japanese Map symbol (Shrine).svg|mark-size1 =12
|mark-coord1 = {{coord|34|17|45.6|N|132|19|11.6|E}}
|label2 =弥山|label-pos2 = bottom|label-size2 = 14|mark2 =Black triangle2.svg|mark-size2 =12
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|label3 =←紅葉谷川|label-pos3 =right|label-size3 = 14|mark3 =|mark-size3 =0
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|label4 =白糸川→|label-pos4 =left|label-size4 = 14|mark4 =|mark-size4 =0
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|labela5 =↑|labelb5 =御手洗川 |label-pos5 = bottom|label-size5 = 14|mark5 =|mark-size5 =0
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}}
|}

=== 重要文化財 ===
; 建造物
* 紅葉谷川庭園砂防施設 1所
令和2年(2020年)国の重要文化財に指定{{r|ph408598}}{{r|ch52152}}。[[西海橋]]とともに戦後に整備された土木施設としては初の国重文指定となった{{r|ph408598}}{{r|ch52152}}。

この川は、源流から厳島神社裏手までを「紅葉谷川」{{r|ch38006}}、神社裏手から河口までを「御手洗川」{{r|ch52157}}と呼ばれている。源流から河口までは約2.6&nbsp;km、流域面積1.19&nbsp;km<sup>2</sup> {{r|jfshc26}}。砂防施設は、下流部の[[流路工]]・[[床止工]]・[[砂防堰堤]]からなる庭園砂防と呼ばれる区間1,392mと、上流部の通常タイプの砂防堰堤16基の区間からなる{{r|cgrh5}}{{Sfn|有賀|2018|p=43}}{{Sfn|広島県|303|p=2}}{{Sfn|海堀|2008|p=5}}。うち重文指定区間は以下の通り。
* 重文指定区間 : 688m {{r|ph408598}}
** うち砂防堰堤5基(第一号から第五号堰堤){{r|ph408598}}
** 所有・管理は、第一号堰堤より上流が広島県、下流が廿日市市{{r|ph408598}}。

また厳島は全島域が何らかの文化財保護あるいは環境保護法令で登録・指定されている。以下紅葉谷川整備にあたり関係してくる法令を列挙する。
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
* [[砂防法]]
** 砂防指定地「紅葉谷川」
* [[森林法]]
** [[保安林|風致保安林]]{{r|sabo61}}
* [[世界遺産条約]]
** [[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]「厳島神社」{{r|sabo61}}
* [[文化財保護法]]
** [[天然記念物]]「彌山原始林」{{r|sabo61}}
** [[史跡|特別史跡]]及び[[名勝|特別名勝]]「厳島」{{r|sabo61}}
* [[自然公園法]]
** 国立公園「[[瀬戸内海国立公園]]」{{r|sabo61}}
** 特別地域「宮島」{{r|sabo61}}
** 特別保護地区「宮島」{{r|sabo61}}
{{Col-break}}
* [[都市計画法]]
** [[都市計画区域]]「宮島都市計画区域」{{r|sabo61}}
** [[風致地区]]「厳島」{{r|sabo61}}
* [[都市公園法]]
** [[公園|都市公園]]「宮島公園」{{r|sabo61}}
* [[鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律|狩猟法]]
**「宮島[[鳥獣保護区]]」{{r|sabo61}}
**「弥山特別保護地区」{{r|sabo61}}
* [[土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律|土砂災害防止法]]{{r|jseceT1-04}}
{{Col-end}}

== 沿革 ==
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅= 250px
|枠幅=
|1=Mount Misen (Miyajima) - DSC02043.JPG|2=弥山頂上。巨石すべてが花崗岩で、その周辺がまさ土。
|3=Itsukushima Island and torii of Itsukushima Shrine from JR Miyajima Ferry 4.jpg|4=弥山と[[厳島神社大鳥居]]。中央に見える崩落は[[平成17年台風第14号]]によって起きたものであり、白糸川の源流付近にあたる。紅葉谷川は左の[[千畳閣]]の向こう側から右上に伸びる谷にあたる。
|5=芸州厳島図会 本地堂倉庫.jpg|6=『厳島図会 本地堂倉庫』現在の厳島神社裏手にあたる。「御霊川」表記。右に{{ウィキ座標|34|17|43.3|N|132|19|13.3|E|scale:10000|name=筋違橋|筋違橋}}。
|7=厳島図会 紅葉谷 以中庵.jpg|8=『厳島図会 紅葉谷』
}}
=== 背景 ===
厳島は面積約30km<sup>2</sup>、島の周囲約30kmの細長い島である{{r|jseceT1-04}}。主峰は弥山529.8mで、標高400から500mの山が連なる{{r|jseceT1-04}}{{Sfn|海堀|2008|p=2}}。平均勾配は19.5度とほぼ急傾斜地であり、滝や断崖絶壁が各所で見られる{{Sfn|海堀|2008|p=2}}。全島が[[花崗岩]]で形成され{{Sfn|商工会|p=5}}{{Sfn|広島県|303|p=1}}{{r|ccbamomijidani}}、表層はその[[風化]]残留土である[[真砂土|まさ土]]で覆われている{{Sfn|有賀|2018|p=45}}{{r|jseceT1-04}}。この土は流水で簡単に崩れやすく、勢いを増していくと山崩れから土石流へ、更に発達すると巨石を伴って威力を増していく{{Sfn|有賀|2018|p=45}}。厳島神社周辺は、弥山から流れる川が[[扇状地]]を作り、海流が砂を運び砂浜を作ったことで形成された{{Sfn|商工会|p=5}}。

古来人々は弥山を主峰とする島を自然崇拝の対象とし、弥山から流れる川の河口に開かれた砂浜は遥拝するための場所であったと考えられている{{Sfn|商工会|p=5}}。そこに[[イチキシマヒメ|厳島神]]が祀られ神社が創建、島自体が神格化された{{Sfn|商工会|p=5}}{{Sfn|商工会|p=6}}。以降、島に住むのは[[内侍]]([[巫女]])のみで[[社家]]や供僧は対岸に居住していたが、参拝人および商人が大勢集まるようになった1300年代に島内に居を移した{{Sfn|商工会|p=7}}。そこから島の俗化、門前町・商家町が形成され更に海上交通の要衝・交易港町として発達した{{Sfn|商工会|p=7}}{{Sfn|商工会|p=8}}。

鎌倉時代に成立した『[[撰集抄]]』に「東の野に清き流れあり ミたらひといふとかけり」とある{{r|harp747820110121064801}}。天保13年(1842年)刊『嚴島圖會』によると、御手洗川は紅葉谷を源とし、また御霊川ともいい、昔は川水を神供に用いていた{{r|NDLJP2563518}}。御霊川の名は戦国時代後期の文献にあり{{r|harp747820110121064801}}、紅葉谷は江戸時代に上流の谷に紅葉の苗木が植えられるなど開発{{efn2|name=iwaso|
紅葉谷は岩惣の初代岩国屋惣兵衛が嘉永年間に開墾したことでできたものであり、旅館岩惣としては安政元年(1854年)開業した{{r|iwasohistory}}。岩惣も枕崎台風による土砂災害で被災し、庭園砂防築造より前に自力で再建した{{r|kindai}}。厳島全体は自然保護法に指定され何らかを行う場合許可が必要であるが、岩惣は唯一自然保護法の縛りはないという{{r|kindai}}。
}}されたことが起源である{{r|ch52152}}。つまり、この川は元々上流側も御手洗川といい、戦国期より前に御霊川の別名が付けられ、江戸期に上流で紅葉谷の名がついた。そこから近代{{efn2|紅葉谷は[[もみじ饅頭]]発祥の地でもある{{r|iwasohistory}}。}}から現代にかけて上流部が紅葉谷川、下流部が御手洗川の名で定着していった。

明治7年(1874年)厳島神社周辺地域は厳島公園となり{{Sfn|商工会|p=10}}、大正期に[[本多静六]]による厳島公園改良案を元に整備が行われた{{Sfn|商工会|p=12}}。そこへ[[史蹟名勝天然紀念物保存法]]が施行され大正12年(1923年)史蹟名勝「厳島」指定、昭和4年(1929年)天然記念物「彌山原始林」指定され、地形・植生・景観の改変に厳しい規制がかかることになる{{Sfn|商工会|p=12}}。

=== 土砂災害 ===
厳島神社はその立地から、海から大風・高潮災害、山から土砂災害、そして火災や[[厳島の戦い]]などの戦災と様々な災害に遭遇してきた{{Sfn|豊田|2011|p=10}}。にもかかわらず神社は豪族・士族・貴族などパトロン、商人・参拝者の寄進により復旧を可能にしてきた歴史を持ち、近代以降は国の文化財を守るという思想のもと行政が介入している{{Sfn|豊田|2011|p=10}}{{Sfn|豊田|2011|p=11}}。

大きな土砂災害は文献記録に残るもので3回、200年に1度起こっている{{Sfn|広島県|303|p=1}}{{Sfn|海堀|2008|p=1}}。
; 天文10年(1541年)紅葉谷川での土石流
:梅雨期の大雨により御手洗川(紅葉谷川)で土石流が発生、境内に土砂が流れ込んだ{{Sfn|豊田|2011|p=10}}。明治43年(1910年)刊『厳島誌』には「・・・本地堂ともいふ、『[[棚守房顕|房顯]]記』に、天文十年五月洪水にて山河崩れ、社頭砂利に埋もれたることありて、この堂は天正九年八月に至りて造營成りたりとあり、今は無し・・・」とある{{Sfn|海堀|2008|p=1}}。
:天文24年(1555年)厳島の戦いに勝利し掌握した[[毛利元就]]によって荒廃した社殿の修繕が行われた。ここで御手洗川は神社境内を河口としていた流路を、神社の裏手を通り神社の西へと大きく付け替える工事がなされた{{Sfn|豊田|2011|p=10}}{{Sfn|商工会|p=19}}。
; 元文元年(1736年)白糸川沿いでの土石流
:社殿が土砂で埋まる{{Sfn|豊田|2011|p=10}}。
:『厳島誌』には「・・・神社の後方を流るる御手洗川の河口を『[[芸藩通志|藝藩通志]]』に、「今その川すそは長き松原なり、これは元文元年、新たに沙地を高くして植る所なり、俗これを築出といひ、又新松原と呼ぶ」・・・」とある{{Sfn|海堀|2008|p=1}}。寛保3年(1743年)広島城下の商人4人が残土を用いて西の松原に50丈(約150m)の堤防([[導流堤]])を整備し、108基の石灯籠が据えられた{{Sfn|商工会|p=19}}。
{{clear}}
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|
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|label4 =西の松原|label-color4=|label-pos4 =top|label-size4 = 13|mark4 =|mark-size4 =0|mark-coord4 = {{coord|34|17|47.3|N|132|19|00.2|E}}
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}}
||
[[ファイル:Battle of Geishū Itsukushima (Yamaguchi Prefectural Archives).jpg|250px|center|thumb|毛利家文庫『芸州厳島御一戦之図』。江戸時代の筆。毛利氏による流路付け替え後の御手洗川が描かれている(つまり合戦時の河川状況ではない)。西の松原は現在より小さく描かれている。]]
||
[[ファイル:20131012 50 Miyajima - Japanese deer (10491855903).jpg|250px|center|thumb|西の松原と御手洗川。江戸時代以降山からの土石流残土と海からの堆積海砂の廃棄場所となり、堤防を築出して松が植えられていった{{Sfn|商工会|p=19}}。上記のほか、天明年間、昭和20年枕崎台風復旧(後述)で延伸工事が行われている{{Sfn|商工会|p=19}}。]]
|}
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{{ external media
| topic = 戦前土木学会絵葉書ライブラリー
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| image1 = [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/01_image_list34.html 紅葉谷公園] - 護岸整備されており、川座敷があったことがわかる
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[[ファイル:弥山の砂防河川 1947.jpg|200px|right|thumb|1947年米軍撮影。被災後、整備前にあたる。境内に土砂が流入している。西の松原は現在よりも小さい。]]
近代、紅葉谷川・白糸川両方とも砂防工事が施されており、1945年時点で両川上流にいくつか砂防堰堤があった{{Sfn|広島県|303|p=1}}。

; 昭和20年(1945年)[[枕崎台風]]による土石流
:1945年8月15日[[太平洋戦争]]終戦、同年9月17日夜[[枕崎台風]]が広島県を襲う。この台風で広島県全体で数百年に一度の大水害が発生した{{Sfn|有賀|2018|p=43}}{{Sfn|広島県|303|p=1}}{{r|ccbamomijidani}}{{Sfn|海堀|2008|p=3}}。
:厳島においては紅葉谷川・白糸川ともに土砂災害が発生した。当時の記録によると「紅葉谷川は、弥山(標高529.8m)の7合目から山津波を起こし、白糸川は弥山登山口辺りから崩壊し、濁流と化した土砂は、神社四方裏手に押し寄せ、天神社、長橋、揚水橋及び平舞台並びに廻廊の一部を流出するとともに神社の床下は、18,000m<sup>3</sup>余りにも及ぶ土砂にて埋没した」とある{{Sfn|広島県|303|p=1}}{{r|jseceT1-04}}。
:紅葉谷川は、河床が花崗岩の基盤で形成され、年毎に崩れる土砂・石によって川幅自体が狭められ樹木が茂っていた{{Sfn|広島県|303|p=1}}。源流で山崩れが起き3,000m<sup>3</sup>程度流出したが、川に並行する登山道に降雨が流れ込んだためそこから山崩れを生じ、山崩れから成長した土石流が樹木や石を巻きこみ、河床の岩盤は石の樋のようになり土石流の流下速度を上げ破壊力を高め、途中にあった堰堤・家屋を次々と破壊、{{ウィキ座標|34|17|43.3|N|132|19|13.3|E|scale:10000|name=筋違橋|筋違橋}}でせき止められたことにより神社側に流下しそのいくつかを破壊した{{Sfn|広島県|303|p=1}}{{r|jfshc26}}。
:不幸中の幸いだったのが軽石が境内に流入しなかったことであり、本殿・拝殿など主要なものは壊滅的な被害にまでは至らなかった{{Sfn|広島県|303|p=1}}。

=== 復旧に向けて ===
枕崎台風災害からの復旧に向けて、関係者は政府機関への陳情に東奔西走した{{Sfn|図集|p=1}}。しかし終戦直後の状況下で困難を極めた。1946年11月国会(最後の[[帝国議会]])において[[團伊能]]貴族院議員が「先年の洪水に依つて土砂に埋もれました嚴島神社の社殿の如きは、未だに其の儘抛つてある事實を諸君も御存じの方もあるかと存じます」と当時の状況を嘆いている{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。つまり災害から1年以上たってもまともに土砂撤去すら行われていなかったことになる{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。

ここで[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ/SCAP]]の[[民間情報教育局|CIE]]美術記念物課チャールズ・ギャラガ―{{efn2|
Charles F. Gallagher、生没年不詳{{r|gallagher}}。カリフォルニア大学卒業{{r|gallagher}}。太平洋戦争中に日本語語学兵となり、1946年初頭にCIE美術記念物課に配属され調査員として活躍した{{r|gallagher}}。その時点でアジア芸術に関する専門的知識は持ちわせておらず、堪能な日本語を生かして日本で学んだという{{r|gallagher}}。退任した後はイスラム文化研究に傾倒した{{r|gallagher}}。
}}が登場する。ギャラガーは着任早々全国の神社を視察、そして1946年11月16日宮島を視察するとその惨状を嘆き、その場で関係者に復旧にかかる費用試算を指示した{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。

同1946年12月7日、厳島神社[[野坂元定]]宮司の名で「厳島神社風水害復旧整備に関する嘆願の件」がギャラガーに送られた{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。この中で、神社の復旧費として74万4,210円、土砂撤去費として90万円が示されており、土砂撤去のほうが大きな問題であった{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。翌1947年7月18日、[[楠瀬常猪]]県知事・[[宮郷忠兵衛]]厳島町長(当時)・野坂宮司の連名で“Restoration of Damaged Itsukushima Isle and Itsukushima Shrine”がギャラガーに送られた{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。これに紅葉谷川も含む周辺河川の砂防工事に関する予備設計の図面とその予算書が添付された{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。同年8月「廣島縣厳島町の災害復旧工事に関する請願」を国会(いわゆる第1回国会)に提出し、復旧に向けて具体化していった{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。

1947年12月15日、ギャラガーは野坂宮司に返書を送る{{Sfn|有賀|2018|p=43}}。この中で、[[経済安定本部]]や[[文部省]]の反応として、当年度予算では困難であるが翌1948年度で文部省が予算獲得に好感触を示していることが書かれていた{{Sfn|有賀|2018|p=43}}{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。これらのことからGHQ(ギャラガー)は復旧に向けて日本政府関係者に積極的に働きかけていたと言われている{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。

そして1948年文部省の史蹟名勝災害復旧事業として、紅葉谷川含めた厳島神社周辺の復旧工事が決定した{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。

=== 庭園砂防 ===
地元宮島町民は景観に優れ歴史的にも重要な史跡名勝としての復旧を強く望み、これに県の防災担当や文部省も同調した{{r|jseceT1-04}}{{Sfn|海堀|2008|p=3}}。そこで、文部省(現[[文化庁]])・県・町の各職員、厳島神社関係者、国・県会議員、学識経験者による「史蹟名勝厳島災害復旧工事委員会」が結成された{{Sfn|広島県|303|p=2}}{{r|jseceT1-04}}。ここで史蹟名勝にふさわしい工事となるよう、あわせて砂防施設として適切に機能するよう、総合的意見を具申し事業の円滑な遂行が図られた{{Sfn|広島県|303|p=2}}。その中で「庭園砂防」という方針と、工事にあたり指針となる「岩石公園築造趣意書」が作られた{{r|jseceT1-04}}。

{{hidden begin
|toggle=right |title=史蹟名勝厳島災害復旧工事委員会{{Sfn|広島県|303|p=3}} |titlestyle = background:lightgrey;text-align:center;
}}
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:left;"
|-
|委員長||[[中津井真]]||県会議員
|-
|rowspan="2"|副委員長||[[土井弘]]||県会文教委員長
|-
|[[宮郷忠兵衛]]||宮島町長
|-
|rowspan="4"|常任委員||梶川裕||県教育長
|-
|飯田一實||県土木部長
|-
|[[野坂元定]]||厳島神社宮司
|-
|岩村平助||宮島町土木委員長
|-
|rowspan="6"|委員||[[犬丸秀雄]]||[[文化庁|文化財保護委員会]]保存部長
|-
|[[吉永義信]]||博士(造園、東大講師)
|-
|[[堀川芳雄]]||博士(植物、[[広島文理科大学|文理大]]教授)
|-
|[[今村外治]]||博士(地質、文理大教授)
|-
|山中忠||宮島町会議長
|-
|[[佐伯好郎]]||博士(言語)
|-
|rowspan="3"|顧問||[[松本瀧藏]]||代議士
|-
|[[山本久雄]]||代議士
|-
|[[檜山袖四郎]]||県会議長
|}
{{Col-break}}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:left;"
|-
|rowspan="7"|幹事||岩田正一||県社会教育課長
|-
|坂田静雄||県砂防課長
|-
|下島定夫||県計画課長
|-
|岡本余所兒||県廿日市土木出張所長
|-
|平野勝||宮島長助役
|-
|[[田島仲康]]||厳島神社権宮司
|-
|角張繁市||県佐伯地方事務所長
|-
|rowspan="7"|書紀||原田武之進||県社会教育課
|-
|高田庭和亀||県砂防課
|-
|[[菊竹倉二]]||県計画課
|-
|藤岡勝||宮島町
|-
|[[岡田貞次郎]]||厳島神社
|-
|正木勝一||県廿日市土木出張所工務課長
|-
|福永要三||史蹟名勝厳島災害復旧工事事務所長
|}
{{Col-end}}
{{hidden end}}

{{Quotation|
# 巨石、大小の石材は絶対に傷つけず、又、割らない。野面のまま使用する。
# 樹木は切らない
# コンクリートの面は目に触れないように野面石で包む。
# 石材は他地方より運び入れない。現地にあるものを使用する。
# 庭園師に仕事をしてもらう。いわゆる石屋さんも、[[鑿]]と[[槌|玄翁]]は使用しない。
|岩石公園築造趣意書|{{Sfn|広島県|303|p=3}}{{Sfn|海堀|2008|p=4}}}}

造園と砂防を両立させるノウハウは当時誰も持ち合わせていなかった{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。その工夫のため日光・鎌倉・京都・長野・九州などで日本庭園づくりを見学して参考にし、[[折下吉延]]や[[丹羽鼎三]]ら学識経験者をアドバイザーとして招いた{{Sfn|広島県|303|p=2}}{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。全体像は県土木砂防課長の坂田静雄ら県の技術者が担当、設計図面とともに春と秋のイメージ図を作成し完成イメージを工事関係者の中で共有化していった{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。

{{OSM Location map
|coord = {{coord|34|17|13.6|N|132|19|21.9|E}}
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| caption =
工事箇所
* 48年度 : 紅葉谷川下流250m[[File:Red_pog.svg|10px]]-[[File:Blue_pog.svg|10px]]{{Sfn|広島県|303|p=2}}
* 49年度 : 紅葉谷川中流570m[[File:Blue_pog.svg|10px]]-[[File:Yellow_pog.svg|10px]]{{Sfn|広島県|303|p=2}}
* 50年度 : 白糸川下流153m{{Sfn|広島県|303|p=2}}
* (51年度:紅葉谷川上流[[File:Yellow_pog.svg|10px]]-[[File:Yellow_pog.svg|10px]]){{Sfn|図集|p=1}}
|label1 =|label-pos1 =|label-size1 = 0|mark1 =Red pog.svg|mark-size1 =12
|mark-coord1 = {{coord|34|17|43.5|N|132|19|15.5|E}}
|label2 =|label-pos2 =|label-size2 = 0|mark2 =Blue pog.svg|mark-size2 =12
|mark-coord2 = {{coord|34|17|40.5|N|132|19|24.9|E}}
|label3 =|label-pos3 =|label-size3 = 0|mark3 =Yellow pog.svg|mark-size3 =12
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|label4 =|label-pos4 =|label-size4 = 0|mark4 =Yellow pog.svg|mark-size4 =12
|mark-coord4 = {{coord|34|16|58.0|N|132|19|23.3|E}}
|label5 =←紅葉谷川|label-pos5 =right|label-size5 = 14|mark5 =|mark-size5 =0
|mark-coord5 = {{coord|34|17|19.9|N|132|19|29.8|E}}
|label6 =白糸川→|label-pos6 =left|label-size6 = 14|mark6 =|mark-size6 =0
|mark-coord6 = {{coord|34|17|11.5|N|132|19|03.7|E}}
}}
工事の特異性と文部省の特別な要請により、1948年8月15日(終戦の日)に工事事務所開きをする{{Sfn|広島県|303|p=2}}。

まず最初に神社に堆積する土砂18,000m<sup>3</sup>を撤去し、過去の災害と同様に有之浦・大元浦を埋め立て西の松原延伸に当てられた{{Sfn|有賀|2018|p=44}}{{r|ch52157}}{{Sfn|広島県|303|p=3}}。そして紅葉谷川下流部から庭園砂防工事が進められた{{Sfn|広島県|303|p=3}}。工事現場は地元広島の日本庭園の庭師が担当し、県の技術者が確認しながら、折下や丹羽らの指導を交えつつ、石の配置を現地で一つづつ確認しながら施工を進めていった{{Sfn|有賀|2018|p=44}}{{r|ch52152}}。傷つけない・割らない前提での巨石の運搬は、「かぐらさん」{{efn2|三本の木を立ててチェーンブロックで移動させる{{Sfn|広島県|303|p=2}}{{r|ccbamomijidani}}。}}という造園装置を用いて人力で移送させている{{Sfn|有賀|2018|p=44}}{{r|ccbamomijidani}}。

3カ年工事のうち2カ年で紅葉谷川の、最後の1950年度で白糸川での砂防構築が行われ、年度末にあたる1951年3月に竣工した{{Sfn|広島県|303|p=3}}。なお委員会設置から趣意書作成し3カ年工事竣工まで流れは、枕崎台風災害による復旧工事すべてではなく、あくまで庭園砂防に関する部分のみになる{{Sfn|広島県|303|p=2}}。

[[ファイル:Gourd Terrace (Miyajima) - DSC02472.JPG|250px|right|thumb|ひょうたん桟敷。元々は[[岩惣]]の川座敷があり枕崎台風災害により流出、跡地に岩惣が庭園砂防竣工記念として整備した{{efn2|name=iwaso}}{{r|kindai}}。]]
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:right;"
|+ 庭園砂防工事概要{{Sfn|広島県|303|p=2}}
|-
!年度!!事業費<br />(千円)!!浚渫<br />(m<sup>3</sup>)!!流路工<br />(m)!!堰堤<br />(基)!!床止<br />(基)!!人員<br />(人)!!セメント<br />(袋)!!備考
|-
!1948
||9,150||16,000<br />防砂堤 5,421||250||-||2||37,420||1,775||rowspan="2"|紅葉谷川
|-
!1949
||12,000||-||570||7||2||26,265||4,825
|-
!1950
||3,000||374||153||-||4||不明||1,090||白糸川
|-
|-
!計
||24,150||16,374||973||7||8||-||7,690||
|}

=== その後 ===
紅葉谷川での砂防を機能させるにはこれだけでは足りなかった。1951年その上流側約1.3km区間に県によって通常タイプの砂防堰堤15基の工事が行われ、これで紅葉谷川すべての砂防施設整備が完了した{{Sfn|図集|p=1}}{{Sfn|有賀|2018|p=45}}{{r|ccbamomijidani}}。庭園砂防事業費は2,415万円(2018年時価で約1億3千万円){{Sfn|有賀|2018|p=45}}。紅葉谷公園にある説明板によると、総工事費7,933万円、うち文部省分が2,115万円。

以降紅葉谷川では土砂災害は起こっていない{{r|cgrh5}}{{Sfn|有賀|2018|p=45}}。何度か補修はしている{{r|sabo1973}}。1996年世界遺産に登録される(紅葉谷川はコアゾーンにあたる)。

[[平成17年台風第14号|2005年台風14号]]で神社・紅葉谷川ともに被害は軽かったが、白糸川で土石流が発生、下流市街地に被害が発生した{{r|sabo61}}{{r|jseceT1-04}}{{Sfn|海堀|2008|p=6}}。復旧に際し文化財保護法・自然公園法など様々な法的規制や世界遺産登録を鑑み、白糸川でも紅葉谷川庭園砂防施設になぞった流れで進んだ{{Sfn|海堀|2008|p=1}}{{Sfn|海堀|2008|p=10}}。技術検討会が結成され「白糸川下流河道整備趣意書」を作成、「滝と清水」をテーマに、紅葉谷川の昭和に対して白糸川に平成の渓流砂防造りを目指し、砂防堰堤2基と渓流の保全が行われた{{Sfn|有賀|2018|p=45}}{{r|ccbamomijidani}}{{r|jseceT1-04}}{{Sfn|海堀|2008|p=10}}。また法的規制のある急傾斜地に工事資材を運搬する手段として、登山道上に設置されたモノレールと陸自の[[CH-47 (航空機)|CH-47]]が用いられている{{r|sabo61}}{{r|ccbamomijidani}}{{r|jseceT1-04}}。

== 構造 ==
=== 紅葉谷公園内 ===
{{OSM Location map
|coord = {{coord|34|17|37.1|N|132|19|25.5|E}}
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| caption =[[File:Red_pog.svg|10px]]-[[File:Red_pog.svg|10px]]が国重文範囲
|label1 =|label-pos1 =|label-size1 = 0|mark1 =Red pog.svg|mark-size1 =10
|mark-coord1 = {{coord|34|17|42.1|N|132|19|18.6|E}}
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|labela3 =もみじ橋|labelb3=↓ |label-color3=|label-pos3 =top|label-size3 = 13|mark3 =|mark-size3 =0|mark-coord3 = {{coord|34|17|41.5|N|132|19|21.2|E}}
|label4 =紅葉谷橋 →|label-color4=|label-pos4 =left|label-size4 = 13|mark4 =|mark-size4 =0
|mark-coord4 = {{coord|34|17|38.4|N|132|19|31.2|E}}
|label5 =奥紅葉谷橋 →|label-color5=|label-pos5 =left|label-size5 = 13|mark5 =|mark-size5 =0
|mark-coord5 = {{coord|34|17|35.9|N|132|19|33.6|E}}
}}
紅葉谷川は中流付近で勾配が緩やかになり川幅が広くなるところがある{{Sfn|広島県|303|p=4}}。そこから河口まで庭園砂防が築造されている。もみじ橋の下流付近までの庭園砂防が紅葉谷公園内{{Sfn|広島県|303|p=4}}、つまり国重文指定範囲にあたる。

砂防工学的にはこの場所は遊砂池として考えられており、野面石を用いた流路工と床止工・堰堤を施している{{r|ph408598}}{{r|cgrh5}}{{Sfn|広島県|303|p=3}}{{Sfn|広島県|303|p=4}}{{r|jfshc26}}。土石流で流出し混在した大小様々な石を傷つけず割らずに組み合わせ、木を切り倒さずに造っている{{Sfn|有賀|2018|p=45}}{{r|cgrh5}}。急な段差で河床が削れないように低い複数の段差を石組で築造した{{Sfn|有賀|2018|p=45}}。巨石をそのまま床止・堰堤に利用している{{Sfn|広島県|303|p=3}}{{Sfn|有賀|2018|p=45}}。滝や淀みも意図して作られている{{r|cgrh5}}{{Sfn|海堀|2008|p=4}}。コンクリートも用いているが野面石で目隠しし石組に似せている{{Sfn|広島県|303|p=3}}。

変化をつけるため紅葉谷橋を挟んで下流側と上流側で別々の庭師の頭が担当し、下流が「静」上流が「動」のイメージで築造されている{{Sfn|有賀|2018|p=44}}。下流側には岩惣{{efn2|name=iwaso}}があるが、下流側の庭師は既存の岩惣側の岩石との調和を図った上で構築している{{r|kindai}}。上流側は特に、紅葉谷橋と奥紅葉谷橋の間を「下の岩石公園」、奥紅葉谷橋から上流側が「上の岩石公園」と呼んでおり{{Sfn|広島県|303|p=4}}、特に上の岩石公園は庭園風に造られている{{r|kindai}}。

これに春は桜・夏は新緑・秋は紅葉が季節ごとに彩る{{r|ch52152}}。

<div style="border:1px solid #aaa; margin-left:0em; padding:0em; overflow:auto">
{{multiple image
|footer=紅葉谷橋より下流側「静」
|align=left
|total_width=1000
|image1=宮島-紅葉谷 - panoramio.jpg
|caption1=もみじ橋より下流側
|image2=Miyajima bridge - panoramio.jpg
|caption2=もみじ橋下。
|image3=Gourd Terrace (Miyajima) - DSC02477.JPG
|caption3=左側は岩惣の敷地。中央の石積より右側が庭園砂防。
|image4=Gourd Terrace buiilding (Miyajima) - DSC02482.JPG
|caption4=左側は岩惣の離れ。中央の石積より右側が庭園砂防{{r|kindai}}。
}}
</div>
<div style="border:1px solid #aaa; margin-left:0em; padding:0em; overflow:auto">
{{multiple image
|footer=紅葉谷橋より上流側「動」
|align=left
|width=200
|image1=Momijidani on Itsukushima Island 8.jpg
|caption1=第二号堰堤(下の岩石公園)
|image2=Momijidani on Itsukushima Island 6.jpg
|caption2=第三号堰堤(下の岩石公園)
|image3=Momijidani on Itsukushima Island 11.jpg
|caption3=第四号堰堤(下の岩石公園)
|image4=Momijidani on Itsukushima Island 12.jpg
|caption4=上の岩石公園
}}
</div>
ただし、本施設は近代的な砂防技術基準から外れており{{efn2|現在の設計基準である「河川砂防技術基準」は1958年(昭和33年)に(案)として制定{{r|stc}}、つまり紅葉谷竣工後。}}、単独での砂防機能には限界がある{{r|utokyo}}。本施設は戦後の混乱期に国・県・GHQが連携して史蹟名勝地の災害復旧として進められ、その景観を壊さず治水砂防と両立するよう幾人もの関係者が並々ならぬ決意のもと整備したことに意味がある{{Sfn|広島県|303|p=3}}{{r|ch52152}}。多くの観光客はこれが砂防工事によって作られたものであると気づかないという{{Sfn|海堀|2008|p=4}}。公園内に整備された経緯と[[高浜年尾]]の句が刻まれた説明板がある。
{{Quotation|雨あとの 水すぐ澄むと いう宿に|高浜年尾}}

=== その他 ===
下流側の御手洗川も庭園砂防にあたり、三面張の流路工で低水路が設けられ自然石の張石が施されている{{r|jfshc26}}。これが西の松原まで続く。

上流側は一般的な砂防堰堤が2008年時点で16基ある{{Sfn|海堀|2008|p=5}}。比較的低い小規模の堰堤を階段状にして多く施工し、土砂量の増大阻止を図るとともに巨石の転出を防いでいる{{Sfn|図集|p=1}}{{Sfn|有賀|2018|p=45}}{{r|jfshc26}}{{Sfn|海堀|2008|p=5}}。また庭園砂防の趣意と弥山頂上への登山道が並行することから、景観に配慮しコンクリート部分を石組で覆うなどの処置がとられている{{Sfn|有賀|2018|p=45}}{{r|jfshc26}}{{Sfn|海堀|2008|p=5}}。白糸川の砂防堰堤でも同様の処置がとられている。
<gallery>
Momijidani River.Miyajima.November 22, 2016.jpg|紅葉谷川。筋違橋より上流側
Mitaraigawa River from exit of Itsukushima Shrine 3.jpg|柳小路と御手洗川
Mitaraigawa River from exit of Itsukushima Shrine 2.jpg|[[大願寺 (廿日市市)|大願寺]]と御手洗川
砂防ダム Barrier to prevent landslides - panoramio.jpg|白糸川の砂防堰堤
</gallery>

== 交通 ==
紅葉谷公園(国重文指定範囲)までは以下の通り。
* [[宮島桟橋]]から徒歩10分{{r|ch52152}}
島外から厳島への交通手段は[[厳島#交通アクセス]]参照。弥山への登山道(紅葉谷コ-スあるいは[[広島観光開発|宮島ロープウェイ]])が並行する。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{notelist2}}


== 参考文献 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2
{{参照方法|date=2020年2月|section=1}}
|refs=
* 「土木の風景-紅葉谷川の庭園砂防 広島県宮島町-災害復旧でつくられて50年,世界文化遺産の一部に」『日経コンストラクション』1997.5.9号、日経BP
*<ref name="ch38006">{{Cite web|和書|date=2019|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/38006.pdf|format=PDF|title=廿日市市の環境|publisher=廿日市市|accessdate=2021-01-20}}</ref>
* {{Cite journal |和書 |author=堀繁 |coauthors=櫻井正明 |year=2001 |title=土構造物の景観設計 : 3. 山地の景観 |journal=土と基礎 |volume=49 |issue=9 |pages=47-52 ||NAID=110003976801 |id={{NDLJP|10441997}} |ref=harv}}
*<ref name="NDLJP2563518">{{Cite book|和書|publisher=河内屋儀助|title=嚴島圖會|id={{NDLJP|2563518/17}}|url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563518/17|date =1842|accessdate=2021-01-20}}</ref>
*{{cite news|url=https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part20_H17/H17_taishou_32.pdf|title=32 宮島紅葉谷川庭園砂防}}
*{{cite news|url=http://www.ccba.or.jp/archives/pdf/momijidani_saboukouen.pdf|title=紅葉谷川庭園砂防}}
*<ref name="ch52152">{{Cite web|和書|date=2021-01-04|url=https://www.city.hatsukaichi.hiroshima.jp/site/kanko/52152.html|title=紅葉谷公園と紅葉谷川庭園砂防施設|publisher=廿日市市|accessdate=2021-01-20}}</ref>
*<ref name="ph408598">{{Cite web|和書|date=2020-10-13|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/408598.pdf|format=PDF|title=紅葉谷川庭園砂防施設が,重要文化財(建造物)へ|publisher=広島県|accessdate=2021-01-20}}</ref>
*{{cite news|url=http://www.jseg.or.jp/chushikoku/gyouji/081003/20081003kaibori_ppt.pdf|title=世界遺産・厳島の土砂災害と庭園砂防}}
*<ref name="cgrh5">{{Cite web|和書|url=https://www.cgr.mlit.go.jp/furusato/contents/hiroshima/h5.htm|title=水辺の風物詩「紅葉谷川庭園砂防」|publisher=国土交通省中国地方整備局|accessdate=2021-01-20}}</ref>
*{{cite news|url=http://www.jseg.or.jp/chushikoku/gyouji/081003/20081003kaibori.pdf|title=世界遺産・厳島の土砂災害と庭園砂防 - 日本応用地質学会}}
*{{cite news|url=http://www.archi.hiro.kindai.ac.jp/laboratory/EDL/student/2014/sugimoto.pdf|title=宮島・紅葉谷川の庭園砂防と老舗旅館一体整備に関する研究}}
*<ref name="ccbamomijidani">{{Cite web|和書|url=http://www.ccba.or.jp/archives/pdf/momijidani_saboukouen.pdf|format=PDF|title=紅葉谷砂防公園|publisher=中国建設弘済会|accessdate=2021-01-20}}</ref>
*<ref name="suirikagaku44">{{Cite journal|和書|author=崎尾均 |title=水辺林(渓畔林)の動態生態的機能および保全・再生指針 |journal=水利科学 |ISSN=0039-4858 |publisher=日本治山治水協会 |year=2000 |volume=44 |issue=5 |pages=31-54 |naid=130007431217 |doi=10.20820/suirikagaku.44.5_31 |url=https://doi.org/10.20820/suirikagaku.44.5_31 |accessdate=2021-01-20}}</ref>
*{{cite news|url=http://www.sabo.pref.hiroshima.lg.jp/portal/sonota/sabo/pdf/302_momiji.pdf|title=紅葉谷川庭園砂防(3833KB)(PDF文書)}}
*<ref name="jila1994">{{Cite journal|和書|author=北村泰一 |title=緩勾配水制域における水辺環境の復活と造園の技術的可能性 |journal=ランドスケープ研究 |ISSN=13408984 |publisher=日本造園学会 |year=1995 |month=mar |volume=58 |issue=4 |pages=421-428 |naid=110004305937 |doi=10.5632/jila.58.421 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010520765 |accessdate=2021-01-20}}</ref>
*{{cite news|url=http://www.sabo.pref.hiroshima.lg.jp/portal/sonota/sabo/pdf/303_momiji_eng.pdf|title=紅葉谷川庭園砂防[(和英併記)(3230KB)(PDF文書)}}
*<ref name="jfshc26">{{Cite journal|和書|author=安田伸生 |title=砂防工事による環境修景について(会員研究発表講演) |journal=日本林學會北海道支部講演集 |publisher=北方森林学会 |year=1978 |volume=26 |pages=34-37 |naid=110009708148 |doi=10.24494/jfshc.26.0_34 |url=https://doi.org/10.24494/jfshc.26.0_34 |accessdate=2021-01-20}}</ref>
*{{cite news|url=http://www.jsece.or.jp/event/conf/abstruct/2011/pdf/T1-04.pdf|title=世界文化遺産宮島における渓流砂防 }}
*<ref name="sabo1973">{{Cite journal|和書|author=海堀正博 |title=オーストリアの渓流流域における古くからの施設の維持についてオーストリア国ケルンテン州でのStudienreiseに参加して |journal=砂防学会誌 |ISSN=0286-8385 |publisher=砂防学会 |year=1999 |volume=51 |issue=5 |pages=78-81 |naid=130004102094 |doi=10.11475/sabo1973.51.5_78 |url=https://doi.org/10.11475/sabo1973.51.5_78 |accessdate=2021-01-20}}</ref>
*<ref name="harp747820110121064801">{{Cite journal|和書|author1=松井輝昭|title=厳島神社における平清盛信仰の源流について―「今社」の成立を中心に―|url=http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/pu-hiroshima/detail/747820110121064801|format=PDF|journal=「学生参加による世界遺産宮島の活性化」最終報告書|NCID=BB04182228|publisher=県立広島大学人間文化学部 |date=2009|page=184-198 |accessdate=2021-01-20}}</ref>
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== 参考資料 ==
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|title=宮島の歴史・史跡
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== 関連項目 ==
* [[もみじ饅頭]]
* [[中国地方にある建造物の重要文化財一覧]]
* 国重文の砂防施設
** [[白岩堰堤]]
** [[牛伏川フランス式階段工]]
* [[広島土砂災害]]
** [[福山藩の砂留]] - 同県内にある江戸期を代表する砂防堰堤
* [[太田川基町護岸]] - 同県内にある親水護岸の代表例

== 外部リンク ==
* [https://www.miyajima.or.jp/pickup/sabou.html 白糸川と紅葉谷川の砂防事業] - 宮島観光協会
* [https://www.hiroshima-kankou.com/feature/momijidanigawa/momijidanigawa 重要文化財 紅葉谷川庭園砂防施設] - ひろしま観光ナビ
* [https://www.sabo.pref.hiroshima.lg.jp/portal/sonota/momijidani/exmtl.html 重要文化財 紅葉谷川庭園砂防施設] - 広島県

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2023年11月30日 (木) 15:32時点における最新版

紅葉谷川庭園砂防施設の位置(日本内)
紅葉谷川庭園砂防施設

紅葉谷川庭園砂防施設(もみじだにがわていえんさぼうしせつ)は、広島県廿日市市厳島(宮島)内を流れる、砂防指定地紅葉谷川にある砂防施設である[1]

厳島神社背後の弥山を流れる紅葉谷川で枕崎台風により土石流災害が発生し、文部省事業「史跡名勝厳島災害復旧工事」により、1950年(昭和25年)に竣工した[1][2]。国の重要文化財、国重文指定区間周辺はほぼ紅葉谷公園になる。

庭園砂防とはこの施設整備の際に作られた言葉で、砂防工に造園技術を加えて日本庭園の美を現出したものを意味する[3]太平洋戦争終戦後の混乱期に、国と県そしてGHQが連携し、神社一帯の文化財の災害復旧工事として進められた。関係者で工事委員会が結成され庭園砂防の趣意を決定、流出した岩石を傷つけず、樹木を一本も伐採せず、人工的なものを人の目に触れない工夫がされた。設計は広島県土木部、施工は庭師が担当した。

「紅葉谷川庭園砂防」で、昭和62年度手づくり郷土賞(水辺の風物詩)受賞。平成17年度には同賞大賞受賞

日本では景観緑三法施行以降、景観に配慮した公共工事が進められているが、紅葉谷はその先駆的事例[4]にあたる。国内のみならず海外の技術者にも評価されており、現在でも水辺環境整備の方法に影響を与えている[1][4][5]

本項では西隣の白糸川含め弥山からの土石流被災と復旧についても記す。

文化財

[編集]
2008年国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。平成17年台風第14号により白糸川で土石流が発生し復旧した後になる。
地図
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750 m


御手洗川
白糸川→
←紅葉谷川
弥山
.
厳島神社
-が庭園砂防、-が通常砂防堰堤区間[6]-が国重文指定範囲[2]

重要文化財

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建造物
  • 紅葉谷川庭園砂防施設 1所

令和2年(2020年)国の重要文化財に指定[2][7]西海橋とともに戦後に整備された土木施設としては初の国重文指定となった[2][7]

この川は、源流から厳島神社裏手までを「紅葉谷川」[8]、神社裏手から河口までを「御手洗川」[9]と呼ばれている。源流から河口までは約2.6 km、流域面積1.19 km2 [10]。砂防施設は、下流部の流路工床止工砂防堰堤からなる庭園砂防と呼ばれる区間1,392mと、上流部の通常タイプの砂防堰堤16基の区間からなる[1][6][11][12]。うち重文指定区間は以下の通り。

  • 重文指定区間 : 688m [2]
    • うち砂防堰堤5基(第一号から第五号堰堤)[2]
    • 所有・管理は、第一号堰堤より上流が広島県、下流が廿日市市[2]

また厳島は全島域が何らかの文化財保護あるいは環境保護法令で登録・指定されている。以下紅葉谷川整備にあたり関係してくる法令を列挙する。

沿革

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弥山頂上。巨石すべてが花崗岩で、その周辺がまさ土。
弥山頂上。巨石すべてが花崗岩で、その周辺がまさ土。
弥山と厳島神社大鳥居。中央に見える崩落は平成17年台風第14号によって起きたものであり、白糸川の源流付近にあたる。紅葉谷川は左の千畳閣の向こう側から右上に伸びる谷にあたる。
弥山と厳島神社大鳥居。中央に見える崩落は平成17年台風第14号によって起きたものであり、白糸川の源流付近にあたる。紅葉谷川は左の千畳閣の向こう側から右上に伸びる谷にあたる。
『厳島図会 本地堂倉庫』現在の厳島神社裏手にあたる。「御霊川」表記。右に筋違橋。
『厳島図会 本地堂倉庫』現在の厳島神社裏手にあたる。「御霊川」表記。右に筋違橋
『厳島図会 紅葉谷』
『厳島図会 紅葉谷』

背景

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厳島は面積約30km2、島の周囲約30kmの細長い島である[14]。主峰は弥山529.8mで、標高400から500mの山が連なる[14][15]。平均勾配は19.5度とほぼ急傾斜地であり、滝や断崖絶壁が各所で見られる[15]。全島が花崗岩で形成され[16][17][18]、表層はその風化残留土であるまさ土で覆われている[19][14]。この土は流水で簡単に崩れやすく、勢いを増していくと山崩れから土石流へ、更に発達すると巨石を伴って威力を増していく[19]。厳島神社周辺は、弥山から流れる川が扇状地を作り、海流が砂を運び砂浜を作ったことで形成された[16]

古来人々は弥山を主峰とする島を自然崇拝の対象とし、弥山から流れる川の河口に開かれた砂浜は遥拝するための場所であったと考えられている[16]。そこに厳島神が祀られ神社が創建、島自体が神格化された[16][20]。以降、島に住むのは内侍巫女)のみで社家や供僧は対岸に居住していたが、参拝人および商人が大勢集まるようになった1300年代に島内に居を移した[21]。そこから島の俗化、門前町・商家町が形成され更に海上交通の要衝・交易港町として発達した[21][22]

鎌倉時代に成立した『撰集抄』に「東の野に清き流れあり ミたらひといふとかけり」とある[23]。天保13年(1842年)刊『嚴島圖會』によると、御手洗川は紅葉谷を源とし、また御霊川ともいい、昔は川水を神供に用いていた[24]。御霊川の名は戦国時代後期の文献にあり[23]、紅葉谷は江戸時代に上流の谷に紅葉の苗木が植えられるなど開発[注 1]されたことが起源である[7]。つまり、この川は元々上流側も御手洗川といい、戦国期より前に御霊川の別名が付けられ、江戸期に上流で紅葉谷の名がついた。そこから近代[注 2]から現代にかけて上流部が紅葉谷川、下流部が御手洗川の名で定着していった。

明治7年(1874年)厳島神社周辺地域は厳島公園となり[27]、大正期に本多静六による厳島公園改良案を元に整備が行われた[28]。そこへ史蹟名勝天然紀念物保存法が施行され大正12年(1923年)史蹟名勝「厳島」指定、昭和4年(1929年)天然記念物「彌山原始林」指定され、地形・植生・景観の改変に厳しい規制がかかることになる[28]

土砂災害

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厳島神社はその立地から、海から大風・高潮災害、山から土砂災害、そして火災や厳島の戦いなどの戦災と様々な災害に遭遇してきた[29]。にもかかわらず神社は豪族・士族・貴族などパトロン、商人・参拝者の寄進により復旧を可能にしてきた歴史を持ち、近代以降は国の文化財を守るという思想のもと行政が介入している[29][30]

大きな土砂災害は文献記録に残るもので3回、200年に1度起こっている[17][31]

天文10年(1541年)紅葉谷川での土石流
梅雨期の大雨により御手洗川(紅葉谷川)で土石流が発生、境内に土砂が流れ込んだ[29]。明治43年(1910年)刊『厳島誌』には「・・・本地堂ともいふ、『房顯記』に、天文十年五月洪水にて山河崩れ、社頭砂利に埋もれたることありて、この堂は天正九年八月に至りて造營成りたりとあり、今は無し・・・」とある[31]
天文24年(1555年)厳島の戦いに勝利し掌握した毛利元就によって荒廃した社殿の修繕が行われた。ここで御手洗川は神社境内を河口としていた流路を、神社の裏手を通り神社の西へと大きく付け替える工事がなされた[29][32]
元文元年(1736年)白糸川沿いでの土石流
社殿が土砂で埋まる[29]
『厳島誌』には「・・・神社の後方を流るる御手洗川の河口を『藝藩通志』に、「今その川すそは長き松原なり、これは元文元年、新たに沙地を高くして植る所なり、俗これを築出といひ、又新松原と呼ぶ」・・・」とある[31]。寛保3年(1743年)広島城下の商人4人が残土を用いて西の松原に50丈(約150m)の堤防(導流堤)を整備し、108基の石灯籠が据えられた[32]
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300 m
西の松原
.
青矢印が旧流路、赤矢印が現行。
毛利家文庫『芸州厳島御一戦之図』。江戸時代の筆。毛利氏による流路付け替え後の御手洗川が描かれている(つまり合戦時の河川状況ではない)。西の松原は現在より小さく描かれている。
西の松原と御手洗川。江戸時代以降山からの土石流残土と海からの堆積海砂の廃棄場所となり、堤防を築出して松が植えられていった[32]。上記のほか、天明年間、昭和20年枕崎台風復旧(後述)で延伸工事が行われている[32]
画像外部リンク
戦前土木学会絵葉書ライブラリー
紅葉谷公園 - 護岸整備されており、川座敷があったことがわかる
1947年米軍撮影。被災後、整備前にあたる。境内に土砂が流入している。西の松原は現在よりも小さい。

近代、紅葉谷川・白糸川両方とも砂防工事が施されており、1945年時点で両川上流にいくつか砂防堰堤があった[17]

昭和20年(1945年)枕崎台風による土石流
1945年8月15日太平洋戦争終戦、同年9月17日夜枕崎台風が広島県を襲う。この台風で広島県全体で数百年に一度の大水害が発生した[6][17][18][33]
厳島においては紅葉谷川・白糸川ともに土砂災害が発生した。当時の記録によると「紅葉谷川は、弥山(標高529.8m)の7合目から山津波を起こし、白糸川は弥山登山口辺りから崩壊し、濁流と化した土砂は、神社四方裏手に押し寄せ、天神社、長橋、揚水橋及び平舞台並びに廻廊の一部を流出するとともに神社の床下は、18,000m3余りにも及ぶ土砂にて埋没した」とある[17][14]
紅葉谷川は、河床が花崗岩の基盤で形成され、年毎に崩れる土砂・石によって川幅自体が狭められ樹木が茂っていた[17]。源流で山崩れが起き3,000m3程度流出したが、川に並行する登山道に降雨が流れ込んだためそこから山崩れを生じ、山崩れから成長した土石流が樹木や石を巻きこみ、河床の岩盤は石の樋のようになり土石流の流下速度を上げ破壊力を高め、途中にあった堰堤・家屋を次々と破壊、筋違橋でせき止められたことにより神社側に流下しそのいくつかを破壊した[17][10]
不幸中の幸いだったのが軽石が境内に流入しなかったことであり、本殿・拝殿など主要なものは壊滅的な被害にまでは至らなかった[17]

復旧に向けて

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枕崎台風災害からの復旧に向けて、関係者は政府機関への陳情に東奔西走した[34]。しかし終戦直後の状況下で困難を極めた。1946年11月国会(最後の帝国議会)において團伊能貴族院議員が「先年の洪水に依つて土砂に埋もれました嚴島神社の社殿の如きは、未だに其の儘抛つてある事實を諸君も御存じの方もあるかと存じます」と当時の状況を嘆いている[6]。つまり災害から1年以上たってもまともに土砂撤去すら行われていなかったことになる[6]

ここでGHQ/SCAPCIE美術記念物課チャールズ・ギャラガ―[注 3]が登場する。ギャラガーは着任早々全国の神社を視察、そして1946年11月16日宮島を視察するとその惨状を嘆き、その場で関係者に復旧にかかる費用試算を指示した[6]

同1946年12月7日、厳島神社野坂元定宮司の名で「厳島神社風水害復旧整備に関する嘆願の件」がギャラガーに送られた[6]。この中で、神社の復旧費として74万4,210円、土砂撤去費として90万円が示されており、土砂撤去のほうが大きな問題であった[6]。翌1947年7月18日、楠瀬常猪県知事・宮郷忠兵衛厳島町長(当時)・野坂宮司の連名で“Restoration of Damaged Itsukushima Isle and Itsukushima Shrine”がギャラガーに送られた[6]。これに紅葉谷川も含む周辺河川の砂防工事に関する予備設計の図面とその予算書が添付された[6]。同年8月「廣島縣厳島町の災害復旧工事に関する請願」を国会(いわゆる第1回国会)に提出し、復旧に向けて具体化していった[6]

1947年12月15日、ギャラガーは野坂宮司に返書を送る[6]。この中で、経済安定本部文部省の反応として、当年度予算では困難であるが翌1948年度で文部省が予算獲得に好感触を示していることが書かれていた[6][36]。これらのことからGHQ(ギャラガー)は復旧に向けて日本政府関係者に積極的に働きかけていたと言われている[36]

そして1948年文部省の史蹟名勝災害復旧事業として、紅葉谷川含めた厳島神社周辺の復旧工事が決定した[36]

庭園砂防

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地元宮島町民は景観に優れ歴史的にも重要な史跡名勝としての復旧を強く望み、これに県の防災担当や文部省も同調した[14][33]。そこで、文部省(現文化庁)・県・町の各職員、厳島神社関係者、国・県会議員、学識経験者による「史蹟名勝厳島災害復旧工事委員会」が結成された[11][14]。ここで史蹟名勝にふさわしい工事となるよう、あわせて砂防施設として適切に機能するよう、総合的意見を具申し事業の円滑な遂行が図られた[11]。その中で「庭園砂防」という方針と、工事にあたり指針となる「岩石公園築造趣意書」が作られた[14]

史蹟名勝厳島災害復旧工事委員会[37]
  1. 巨石、大小の石材は絶対に傷つけず、又、割らない。野面のまま使用する。
  2. 樹木は切らない
  3. コンクリートの面は目に触れないように野面石で包む。
  4. 石材は他地方より運び入れない。現地にあるものを使用する。
  5. 庭園師に仕事をしてもらう。いわゆる石屋さんも、玄翁は使用しない。
— 岩石公園築造趣意書、[37][5]

造園と砂防を両立させるノウハウは当時誰も持ち合わせていなかった[36]。その工夫のため日光・鎌倉・京都・長野・九州などで日本庭園づくりを見学して参考にし、折下吉延丹羽鼎三ら学識経験者をアドバイザーとして招いた[11][36]。全体像は県土木砂防課長の坂田静雄ら県の技術者が担当、設計図面とともに春と秋のイメージ図を作成し完成イメージを工事関係者の中で共有化していった[36]

地図
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750 m
白糸川→
←紅葉谷川
.
工事箇所
  • 48年度 : 紅葉谷川下流250m-[11]
  • 49年度 : 紅葉谷川中流570m-[11]
  • 50年度 : 白糸川下流153m[11]
  • (51年度:紅葉谷川上流-[34]

工事の特異性と文部省の特別な要請により、1948年8月15日(終戦の日)に工事事務所開きをする[11]

まず最初に神社に堆積する土砂18,000m3を撤去し、過去の災害と同様に有之浦・大元浦を埋め立て西の松原延伸に当てられた[36][9][37]。そして紅葉谷川下流部から庭園砂防工事が進められた[37]。工事現場は地元広島の日本庭園の庭師が担当し、県の技術者が確認しながら、折下や丹羽らの指導を交えつつ、石の配置を現地で一つづつ確認しながら施工を進めていった[36][7]。傷つけない・割らない前提での巨石の運搬は、「かぐらさん」[注 4]という造園装置を用いて人力で移送させている[36][18]

3カ年工事のうち2カ年で紅葉谷川の、最後の1950年度で白糸川での砂防構築が行われ、年度末にあたる1951年3月に竣工した[37]。なお委員会設置から趣意書作成し3カ年工事竣工まで流れは、枕崎台風災害による復旧工事すべてではなく、あくまで庭園砂防に関する部分のみになる[11]

ひょうたん桟敷。元々は岩惣の川座敷があり枕崎台風災害により流出、跡地に岩惣が庭園砂防竣工記念として整備した[注 1][26]
庭園砂防工事概要[11]
年度 事業費
(千円)
浚渫
(m3)
流路工
(m)
堰堤
(基)
床止
(基)
人員
(人)
セメント
(袋)
備考
1948 9,150 16,000
防砂堤 5,421
250 - 2 37,420 1,775 紅葉谷川
1949 12,000 - 570 7 2 26,265 4,825
1950 3,000 374 153 - 4 不明 1,090 白糸川
24,150 16,374 973 7 8 - 7,690

その後

[編集]

紅葉谷川での砂防を機能させるにはこれだけでは足りなかった。1951年その上流側約1.3km区間に県によって通常タイプの砂防堰堤15基の工事が行われ、これで紅葉谷川すべての砂防施設整備が完了した[34][19][18]。庭園砂防事業費は2,415万円(2018年時価で約1億3千万円)[19]。紅葉谷公園にある説明板によると、総工事費7,933万円、うち文部省分が2,115万円。

以降紅葉谷川では土砂災害は起こっていない[1][19]。何度か補修はしている[38]。1996年世界遺産に登録される(紅葉谷川はコアゾーンにあたる)。

2005年台風14号で神社・紅葉谷川ともに被害は軽かったが、白糸川で土石流が発生、下流市街地に被害が発生した[13][14][39]。復旧に際し文化財保護法・自然公園法など様々な法的規制や世界遺産登録を鑑み、白糸川でも紅葉谷川庭園砂防施設になぞった流れで進んだ[31][40]。技術検討会が結成され「白糸川下流河道整備趣意書」を作成、「滝と清水」をテーマに、紅葉谷川の昭和に対して白糸川に平成の渓流砂防造りを目指し、砂防堰堤2基と渓流の保全が行われた[19][18][14][40]。また法的規制のある急傾斜地に工事資材を運搬する手段として、登山道上に設置されたモノレールと陸自のCH-47が用いられている[13][18][14]

構造

[編集]

紅葉谷公園内

[編集]
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300 m
奥紅葉谷橋 →
紅葉谷橋 →

もみじ橋
.
-が国重文範囲

紅葉谷川は中流付近で勾配が緩やかになり川幅が広くなるところがある[41]。そこから河口まで庭園砂防が築造されている。もみじ橋の下流付近までの庭園砂防が紅葉谷公園内[41]、つまり国重文指定範囲にあたる。

砂防工学的にはこの場所は遊砂池として考えられており、野面石を用いた流路工と床止工・堰堤を施している[2][1][37][41][10]。土石流で流出し混在した大小様々な石を傷つけず割らずに組み合わせ、木を切り倒さずに造っている[19][1]。急な段差で河床が削れないように低い複数の段差を石組で築造した[19]。巨石をそのまま床止・堰堤に利用している[37][19]。滝や淀みも意図して作られている[1][5]。コンクリートも用いているが野面石で目隠しし石組に似せている[37]

変化をつけるため紅葉谷橋を挟んで下流側と上流側で別々の庭師の頭が担当し、下流が「静」上流が「動」のイメージで築造されている[36]。下流側には岩惣[注 1]があるが、下流側の庭師は既存の岩惣側の岩石との調和を図った上で構築している[26]。上流側は特に、紅葉谷橋と奥紅葉谷橋の間を「下の岩石公園」、奥紅葉谷橋から上流側が「上の岩石公園」と呼んでおり[41]、特に上の岩石公園は庭園風に造られている[26]

これに春は桜・夏は新緑・秋は紅葉が季節ごとに彩る[7]

もみじ橋より下流側
もみじ橋下。
左側は岩惣の敷地。中央の石積より右側が庭園砂防。
左側は岩惣の離れ。中央の石積より右側が庭園砂防[26]
紅葉谷橋より下流側「静」
第二号堰堤(下の岩石公園)
第三号堰堤(下の岩石公園)
第四号堰堤(下の岩石公園)
上の岩石公園
紅葉谷橋より上流側「動」

ただし、本施設は近代的な砂防技術基準から外れており[注 5]、単独での砂防機能には限界がある[43]。本施設は戦後の混乱期に国・県・GHQが連携して史蹟名勝地の災害復旧として進められ、その景観を壊さず治水砂防と両立するよう幾人もの関係者が並々ならぬ決意のもと整備したことに意味がある[37][7]。多くの観光客はこれが砂防工事によって作られたものであると気づかないという[5]。公園内に整備された経緯と高浜年尾の句が刻まれた説明板がある。

雨あとの 水すぐ澄むと いう宿に — 高浜年尾

その他

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下流側の御手洗川も庭園砂防にあたり、三面張の流路工で低水路が設けられ自然石の張石が施されている[10]。これが西の松原まで続く。

上流側は一般的な砂防堰堤が2008年時点で16基ある[12]。比較的低い小規模の堰堤を階段状にして多く施工し、土砂量の増大阻止を図るとともに巨石の転出を防いでいる[34][19][10][12]。また庭園砂防の趣意と弥山頂上への登山道が並行することから、景観に配慮しコンクリート部分を石組で覆うなどの処置がとられている[19][10][12]。白糸川の砂防堰堤でも同様の処置がとられている。

交通

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紅葉谷公園(国重文指定範囲)までは以下の通り。

島外から厳島への交通手段は厳島#交通アクセス参照。弥山への登山道(紅葉谷コ-スあるいは宮島ロープウェイ)が並行する。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c 紅葉谷は岩惣の初代岩国屋惣兵衛が嘉永年間に開墾したことでできたものであり、旅館岩惣としては安政元年(1854年)開業した[25]。岩惣も枕崎台風による土砂災害で被災し、庭園砂防築造より前に自力で再建した[26]。厳島全体は自然保護法に指定され何らかを行う場合許可が必要であるが、岩惣は唯一自然保護法の縛りはないという[26]
  2. ^ 紅葉谷はもみじ饅頭発祥の地でもある[25]
  3. ^ Charles F. Gallagher、生没年不詳[35]。カリフォルニア大学卒業[35]。太平洋戦争中に日本語語学兵となり、1946年初頭にCIE美術記念物課に配属され調査員として活躍した[35]。その時点でアジア芸術に関する専門的知識は持ちわせておらず、堪能な日本語を生かして日本で学んだという[35]。退任した後はイスラム文化研究に傾倒した[35]
  4. ^ 三本の木を立ててチェーンブロックで移動させる[11][18]
  5. ^ 現在の設計基準である「河川砂防技術基準」は1958年(昭和33年)に(案)として制定[42]、つまり紅葉谷竣工後。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 水辺の風物詩「紅葉谷川庭園砂防」”. 国土交通省中国地方整備局. 2021年1月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 紅葉谷川庭園砂防施設が,重要文化財(建造物)へ” (PDF). 広島県 (2020年10月13日). 2021年1月20日閲覧。
  3. ^ 崎尾均「水辺林(渓畔林)の動態生態的機能および保全・再生指針」『水利科学』第44巻第5号、日本治山治水協会、2000年、31-54頁、doi:10.20820/suirikagaku.44.5_31ISSN 0039-4858NAID 1300074312172021年1月20日閲覧 
  4. ^ a b 北村泰一「緩勾配水制域における水辺環境の復活と造園の技術的可能性」『ランドスケープ研究』第58巻第4号、日本造園学会、1995年3月、421-428頁、doi:10.5632/jila.58.421ISSN 13408984NAID 1100043059372021年1月20日閲覧 
  5. ^ a b c d 海堀 2008, p. 4.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 有賀 2018, p. 43.
  7. ^ a b c d e f g 紅葉谷公園と紅葉谷川庭園砂防施設”. 廿日市市 (2021年1月4日). 2021年1月20日閲覧。
  8. ^ 廿日市市の環境” (PDF). 廿日市市 (2019年). 2021年1月20日閲覧。
  9. ^ a b 清盛神社”. はつたび. 2021年1月20日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 安田伸生「砂防工事による環境修景について(会員研究発表講演)」『日本林學會北海道支部講演集』第26巻、北方森林学会、1978年、34-37頁、doi:10.24494/jfshc.26.0_34NAID 1100097081482021年1月20日閲覧 
  11. ^ a b c d e f g h i j k 広島県 303, p. 2.
  12. ^ a b c d 海堀 2008, p. 5.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 村井仁「日本三景「安芸の宮島」工事機材を自衛隊ヘリコプターで輸送」『砂防学会誌』第61巻第3号、砂防学会、2008年、52-57頁、doi:10.11475/sabo.61.3_52ISSN 0286-8385NAID 1300046621522021年1月20日閲覧 
  14. ^ a b c d e f g h i j k 村井仁、為重敦、山本啓文、藤岡修一、蒲原潤一「世界文化遺産宮島における渓流砂防」(PDF)『第60回 平成23年度砂防学会研究発表会概要集』、砂防学会、2011年、20-21頁、2021年1月20日閲覧 
  15. ^ a b 海堀 2008, p. 2.
  16. ^ a b c d 商工会, p. 5.
  17. ^ a b c d e f g h 広島県 303, p. 1.
  18. ^ a b c d e f g 紅葉谷砂防公園” (PDF). 中国建設弘済会. 2021年1月20日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g h i j k 有賀 2018, p. 45.
  20. ^ 商工会, p. 6.
  21. ^ a b 商工会, p. 7.
  22. ^ 商工会, p. 8.
  23. ^ a b 松井輝昭「厳島神社における平清盛信仰の源流について―「今社」の成立を中心に―」(PDF)『「学生参加による世界遺産宮島の活性化」最終報告書』、県立広島大学人間文化学部、2009年、184-198頁、NCID BB041822282021年1月20日閲覧 
  24. ^ 嚴島圖會』河内屋儀助、1842年。NDLJP:2563518/17https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563518/172021年1月20日閲覧 
  25. ^ a b 岩惣の歴史”. 岩惣. 2021年1月20日閲覧。
  26. ^ a b c d e f 杉本真理「宮島・紅葉谷川の庭園砂防と老舗旅館一体整備に関する研究」(PDF)『近畿大学工学部建築学科卒業研究概要』、近畿大学、2014年、11-12頁、2021年1月20日閲覧 
  27. ^ 商工会, p. 10.
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  29. ^ a b c d e 豊田 2011, p. 10.
  30. ^ 豊田 2011, p. 11.
  31. ^ a b c d 海堀 2008, p. 1.
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  34. ^ a b c d 図集, p. 1.
  35. ^ a b c d e Charles F. Gallagher (?-?)” (英語). Monuments Men Foundation for the Preservation of Art. 2021年1月20日閲覧。
  36. ^ a b c d e f g h i j 有賀 2018, p. 44.
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  39. ^ 海堀 2008, p. 6.
  40. ^ a b 海堀 2008, p. 10.
  41. ^ a b c d 広島県 303, p. 4.
  42. ^ 大久保駿「砂防施設の変遷と社会的背景」(PDF)『SABO』第92巻、砂防・地すべり技術センター、2007年、4頁、2021年1月22日閲覧 
  43. ^ 地域デザインをめぐって vol.06 “中国地方””. 東京大学大学院工学系研究科. 2021年1月22日閲覧。

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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