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[[アメリカ合衆国]][[ルイジアナ州]]のシューレーヴポートという町の生まれで<ref>吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』[[青弓社]]、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、94ページ、{{ISBN2|4-7872-7208-X}}</ref>、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。 |
[[アメリカ合衆国]][[ルイジアナ州]]のシューレーヴポートという町の生まれで<ref>吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』[[青弓社]]、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、94ページ、{{ISBN2|4-7872-7208-X}}</ref>、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。 |
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6歳でテキサス州に家族とともに引っ越した。12歳で州のコンクールに優勝して[[ヒューストン交響楽団]]と共演した。[[ロジーナ・レヴィーン]]に師事した後、[[1958年]]、23歳で世界的に権威のある第1回[[チャイコフスキー国際コンクール]]で優勝。このコンクールは1957年10月の[[スプートニク1号]]打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、[[ニキータ・フルシチョフ]]に向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していた[[スヴャトスラフ・リヒテル]]は、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点<ref>この操作がなかった場合、クライバーンが優勝だったのかどうかは疑問視されているが、クライバーンの演奏が聴衆に大いに受けているのは録音で確認できる。</ref>をつけた。凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当した[[キリル・コンドラシン]]を帯同させている<ref>[[キリル・コンドラシン]]の国外デビューである。</ref>。この優勝を祝して[[ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール]]が[[1962年]]より開催されている。[[1966年]]には初来日も果たした。 |
6歳でテキサス州に家族とともに引っ越した。12歳で州のコンクールに優勝して[[ヒューストン交響楽団]]と共演した。[[ロジーナ・レヴィーン]]に師事した後、[[1958年]]、23歳で世界的に権威のある第1回[[チャイコフスキー国際コンクール]]で優勝<ref group="注釈">[[中村紘子]]著「チャイコフスキー・コンクール」に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。</ref>。このコンクールは1957年10月の[[スプートニク1号]]打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、[[ニキータ・フルシチョフ]]に向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していた[[スヴャトスラフ・リヒテル]]は、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点<ref group="注釈">この操作がなかった場合、クライバーンが優勝だったのかどうかは疑問視されているが、クライバーンの演奏が聴衆に大いに受けているのは録音で確認できる。</ref>をつけた。凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当した[[キリル・コンドラシン]]を帯同させている<ref group="注釈">[[キリル・コンドラシン]]の国外デビューである。</ref>。この優勝を祝して[[ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール]]が[[1962年]]より開催されている。[[1966年]]には初来日も果たした。 |
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クライバーンの『[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]]』(コンドラシン指揮RCA交響楽団)(1958年)は、[[ビルボード]]のポップアルバムチャートで1位(7週連続)を獲得した唯一のクラシック作品である(2007年現在)。[[キャッシュボックス]]のポップアルバムチャートでも最高2位を記録。続く『[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]:[[ピアノ協奏曲第3番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第3番]]』(コンドラシン指揮[[シンフォニー・オブ・ジ・エア]])もビルボードのポップアルバムチャートで最高10位を獲得している。その後、[[フリッツ・ライナー]]指揮[[シカゴ交響楽団]]との共演で、ラフマニノフの[[ピアノ協奏曲第2番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第2番]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]]と[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]]、[[ワルター・ヘンドル]]指揮[[シカゴ交響楽団]]との共演で[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番]]なども録音した。 |
クライバーンの『[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:[[ピアノ協奏曲第1番 (チャイコフスキー)|ピアノ協奏曲第1番]]』(コンドラシン指揮RCA交響楽団)(1958年)は、[[ビルボード]]のポップアルバムチャートで1位(7週連続)を獲得した唯一のクラシック作品である(2007年現在)。[[キャッシュボックス]]のポップアルバムチャートでも最高2位を記録。続く『[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]:[[ピアノ協奏曲第3番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第3番]]』(コンドラシン指揮[[シンフォニー・オブ・ジ・エア]])もビルボードのポップアルバムチャートで最高10位を獲得している。その後、[[フリッツ・ライナー]]指揮[[シカゴ交響楽団]]との共演で、ラフマニノフの[[ピアノ協奏曲第2番 (ラフマニノフ)|ピアノ協奏曲第2番]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第4番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第4番]]と[[ピアノ協奏曲第5番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第5番「皇帝」]]、[[ワルター・ヘンドル]]指揮[[シカゴ交響楽団]]との共演で[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]の[[ピアノ協奏曲第3番 (プロコフィエフ)|ピアノ協奏曲第3番]]なども録音した。 |
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1990年代に、ピアニストの[[中村紘子]]は「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。<ref>その影響でクライバーン国際の入賞者が日本をツアーから外す傾向が一時みられたが、現在は元に戻っている。</ref>」と論じつつ、「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです」と述べている<ref>NHK『人間講座』2003年4月 - 5月期「国際コンクールの光と影」63ページ</ref>。 |
1990年代に、ピアニストの[[中村紘子]]は「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。<ref>その影響でクライバーン国際の入賞者が日本をツアーから外す傾向が一時みられたが、現在は元に戻っている。</ref>」と論じつつ、「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです」と述べている<ref>NHK『人間講座』2003年4月 - 5月期「国際コンクールの光と影」63ページ</ref>。 |
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== ディスコグラフィー == |
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== クライバーンが書かれている本 == |
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=== 協奏曲 === |
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[[中村紘子]]著「チャイコフスキー・コンクール」に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。 |
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*Van Cliburn, Kyrill Kondraschin - Tchaikovsky's Concerto No. 1 |
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*Van Cliburn, Fritz Reiner - Schumann's Concerto |
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*Van Cliburn, Walter Hendl - Prokofieff' Concerto No. 3 / MacDowell's Concerto No. 2 |
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*Van Cliburn, Fritz Reiner - Rachmaninoff's Concerto No. 2 |
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*Van Cliburn, Kyrill Kondraschin, Walter Hendl - Rachmaninoff's Concerto No. 3 / Prokofiev's Concerto No. 3 |
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*Van Cliburn, Fritz Reiner - Brahms's Concerto No. 2 |
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*Van Cliburn, Erich Leinsdorf - Brahms's Concerto No. 1 |
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*Van Cliburn, Eugene Ormandy - Chopin's Concerto No.1 |
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*Van Cliburn, Eugene Ormandy - Liszt's Concerto No. 2 / Rachmaninoff's Rhapsody On A Theme Of Paganini |
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*Van Cliburn, Fritz Reiner - Rachmaninoff's Concerto No. 2 / Beethoven's Concerto No. 5 |
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*Van Cliburn, Fritz Reiner - Beethoven's Concertos No. 4 & 5 |
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*Van Cliburn, Eugene Ormandy - Grieg's Concerto In A Minor / Liszt's Concerto No. 1 In E-Flat |
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=== 独奏 === |
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*Van Cliburn - Rachmaninoff Sonata No.2 In B-Flat Minor (and Preludes) |
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*Van Cliburn - Chopin's Sonata In B-Flat Minor Op. 35, "Funeral March" / Sonata In B Minor, Op. 58 |
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*Van Cliburn - Beethoven's "Les Adieux" Sonata / Mozart's Sonata In C, K. 330 |
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*Van Cliburn, Two 20th-Century Masterpieces - Prokofieff's Sonata No. 6 / Barber's Sonata |
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*Van Cliburn - Beethoven's 3 Great Sonatas |
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*Van Cliburn - Van Cliburn Plays Liszt |
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*Van Cliburn - My Favorite Debussy |
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*Van Cliburn - My Favorite Chopin |
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*Van Cliburn - The World's Favorite Piano Music |
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*Van Cliburn - A Romantic Collection |
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*Van Cliburn - My Favorite Encores |
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== 参考文献 == |
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*中村紘子 - 『チャイコフスキー・コンクール』 (新潮文庫) |
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<references /> |
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*中村紘子 - 『コンクールでお会いしましょう―名演に飽きた時代の原点』 (中公文庫) |
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*中村紘子 - NHK人間講座 2003年-4・5月期 中村紘子 国際コンクールの光と影 (NHK出版) |
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*吉澤ヴィルヘルム - 『ピアニストガイド』([[青弓社]]) |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 外部リンク == |
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[[Category:アメリカ合衆国のクラシック音楽のピアニスト]] |
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2020年1月30日 (木) 22:46時点における版
Van Cliburn | |
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基本情報 | |
出生名 | Harvey Lavan Cliburn, Jr. |
別名 | Van Cliburn |
生誕 |
1934年7月12日 ルイジアナ州シュリーブポート |
死没 |
テキサス州フォートワース |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1946–2013 |
レーベル | RCAビクター |
ヴァン・クライバーン(Van Cliburn、1934年7月12日 - 2013年2月27日)は、アメリカ合衆国のクラシック音楽のピアニスト。
略歴
アメリカ合衆国ルイジアナ州のシューレーヴポートという町の生まれで[1]、本名はハーヴィー・ラヴァン・クライバーン・ジュニア(Harvey Lavan Cliburn Jr.)。
6歳でテキサス州に家族とともに引っ越した。12歳で州のコンクールに優勝してヒューストン交響楽団と共演した。ロジーナ・レヴィーンに師事した後、1958年、23歳で世界的に権威のある第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝[注釈 1]。このコンクールは1957年10月のスプートニク1号打ち上げによる科学技術での勝利に続く芸術面でのソビエトの優越性を誇るために企画された。クライバーンのチャイコフスキー協奏曲第1番とラフマニノフ協奏曲第3番の演奏後はスタンディングオベーションが8分間も続いた。審査員一同は審査終了後、ニキータ・フルシチョフに向かって、アメリカ人に優勝させてもよいか、慎重に聞いた。フルシチョフは「彼が一番なのか?」と確認、「それならば賞を与えよ」と答えた。冷戦下のソ連のイベントに赴き優勝したことにより、一躍アメリカの国民的英雄となる。このコンクールに審査員として参加していたスヴャトスラフ・リヒテルは、クライバーンに満点の25点を、他の者すべてに0点[注釈 2]をつけた。凱旋公演では、コンクール本選で指揮を担当したキリル・コンドラシンを帯同させている[注釈 3]。この優勝を祝してヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールが1962年より開催されている。1966年には初来日も果たした。
クライバーンの『チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番』(コンドラシン指揮RCA交響楽団)(1958年)は、ビルボードのポップアルバムチャートで1位(7週連続)を獲得した唯一のクラシック作品である(2007年現在)。キャッシュボックスのポップアルバムチャートでも最高2位を記録。続く『ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番』(コンドラシン指揮シンフォニー・オブ・ジ・エア)もビルボードのポップアルバムチャートで最高10位を獲得している。その後、フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団との共演で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番とピアノ協奏曲第5番「皇帝」、ワルター・ヘンドル指揮シカゴ交響楽団との共演でプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番なども録音した。
その後、クライバーンは健康上の理由で長期間のブランクに入り、1980年代には公の場で演奏する機会をほとんど失ってしまうが、1990年代にカムバックした。
2003年に大統領自由勲章、2004年に親善勲章(ロシア)を受章している。2013年に骨癌で死去。
1990年代に、ピアニストの中村紘子は「その演奏はもはや正面きってどうのこうの、といえるような対象ではありませんでした。[2]」と論じつつ、「彼が芸術家として成熟することなく終わってしまったのは、結局アメリカのこの豊かさ、楽しい生活に問題があったのではないか、と考えたものです」と述べている[3]。
ディスコグラフィー
協奏曲
- Van Cliburn, Kyrill Kondraschin - Tchaikovsky's Concerto No. 1
- Van Cliburn, Fritz Reiner - Schumann's Concerto
- Van Cliburn, Walter Hendl - Prokofieff' Concerto No. 3 / MacDowell's Concerto No. 2
- Van Cliburn, Fritz Reiner - Rachmaninoff's Concerto No. 2
- Van Cliburn, Kyrill Kondraschin, Walter Hendl - Rachmaninoff's Concerto No. 3 / Prokofiev's Concerto No. 3
- Van Cliburn, Fritz Reiner - Brahms's Concerto No. 2
- Van Cliburn, Erich Leinsdorf - Brahms's Concerto No. 1
- Van Cliburn, Eugene Ormandy - Chopin's Concerto No.1
- Van Cliburn, Eugene Ormandy - Liszt's Concerto No. 2 / Rachmaninoff's Rhapsody On A Theme Of Paganini
- Van Cliburn, Fritz Reiner - Rachmaninoff's Concerto No. 2 / Beethoven's Concerto No. 5
- Van Cliburn, Fritz Reiner - Beethoven's Concertos No. 4 & 5
- Van Cliburn, Eugene Ormandy - Grieg's Concerto In A Minor / Liszt's Concerto No. 1 In E-Flat
独奏
- Van Cliburn - Rachmaninoff Sonata No.2 In B-Flat Minor (and Preludes)
- Van Cliburn - Chopin's Sonata In B-Flat Minor Op. 35, "Funeral March" / Sonata In B Minor, Op. 58
- Van Cliburn - Beethoven's "Les Adieux" Sonata / Mozart's Sonata In C, K. 330
- Van Cliburn, Two 20th-Century Masterpieces - Prokofieff's Sonata No. 6 / Barber's Sonata
- Van Cliburn - Beethoven's 3 Great Sonatas
- Van Cliburn - Van Cliburn Plays Liszt
- Van Cliburn - My Favorite Debussy
- Van Cliburn - My Favorite Chopin
- Van Cliburn - The World's Favorite Piano Music
- Van Cliburn - A Romantic Collection
- Van Cliburn - My Favorite Encores
参考文献
- 中村紘子 - 『チャイコフスキー・コンクール』 (新潮文庫)
- 中村紘子 - 『コンクールでお会いしましょう―名演に飽きた時代の原点』 (中公文庫)
- 中村紘子 - NHK人間講座 2003年-4・5月期 中村紘子 国際コンクールの光と影 (NHK出版)
- 吉澤ヴィルヘルム - 『ピアニストガイド』(青弓社)
脚注
注釈
- ^ 中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」に、一介の「田舎のピアニスト」だった彼が、チャイコフスキーコンクールの第一位になり、文字通りの「アメリカン・ドリーム」を実現するまでと、その後の停滞と挫折までが、アメリカのクラシック事情と共に詳しく述べられている。
- ^ この操作がなかった場合、クライバーンが優勝だったのかどうかは疑問視されているが、クライバーンの演奏が聴衆に大いに受けているのは録音で確認できる。
- ^ キリル・コンドラシンの国外デビューである。