「東亜国内航空機米子空港オーバーラン事故」の版間の差分
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9時32分ごろ、機長の操縦により滑走路25への地上走行を行った。当時、気温が1度ほどで、弱い[[驟雪|しゅう雪]]が降っていた。9時34分に、操縦が副操縦士に引き継がれ、コントロール・チェックを行い、離陸滑走を開始した。23秒後に[[V速度#V1の定義|離陸決定速度(V<sub>1</sub>)]]に達し、数秒後に離陸速度の{{convert|95|kn|km/h|}}に達した。副操縦士が、操縦桿を引き機首上げを行おうとしたが、反応しなかった。これに対して、副操縦士は「おもいなぁ」と発言している。パイロットは離陸を断念しようとしたものの、速度が{{convert|112|kn|km/h|}}近くも出ていたため、機体は滑走路内で停止せず、オーバーランし、滑走路端から50メートル沖合いの中海に突っ込んだ。事故により、乗客8人が軽傷を負ったものの、死者は出なかった。管制官はすぐに美保空港事務所へ連絡し、事務所員が警察や消防へ通報した<ref name="PDF"/>{{rp|3-4}}。 |
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==事故調査== |
==事故調査== |
2020年1月21日 (火) 11:46時点における版
同型機のYS-11 | |
出来事の概要 | |
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日付 | 1988年1月10日[1] |
概要 | 着氷による昇降舵の不具合 |
現場 | 日本 米子空港 |
乗客数 | 48 |
乗員数 | 4 |
負傷者数 | 8 |
死者数 | 0 |
生存者数 | 52(全員) |
機種 | YS-11-109 |
運用者 | 東亜国内航空 |
機体記号 | JA8662 |
出発地 | 米子空港 |
目的地 | 大阪国際空港 |
東亜国内航空機米子空港オーバーラン事故は、1988年1月10日に発生した航空事故[2]。米子空港発大阪国際空港行きだった東亜国内航空670便(YS-11-109)が、米子空港からの離陸時に昇降舵の動作不良により滑走路をオーバーラン、中海に突っ込んで停止した。乗員乗客52人中8人が負傷した[3][4]。
当日の670便
事故機
事故機は日本航空機製造のYS-11-109型機(愛称:なると)で、ロールス・ロイス社製のターボプロップエンジン「ダート542-10」を2基搭載した旅客機であった。機体記号はJA8662、1966年5月9日に製造され、同年に初飛行を行っていた。1966年5月から東亜国内航空の前身である日本国内航空が運用を開始し、事故までには通算で約47,209時間を飛行していた[3][4]:5-6[5]。
事故後は、カットモデルとなり電車とバスの博物館にて展示された。2016年のリニューアルまではフライトシミュレータとして展示されていた[6]。
乗員
当該機の運航乗務員は、機長と副操縦士の2名だった。機長は36歳男性であり、総飛行時間は約8,022時間で、YS-11では約4,384時間の飛行経験があった。副操縦士は37歳男性で、総飛行時間7,604時間のうち3,106時間がYS-11によるものだった[4]:5-6。
事故の経緯
事故以前の飛行
事故機は当日、同じ乗員によって、7時55分に大阪国際空港発米子空港行きの671便として離陸した。9時05分に米子空港の滑走路25へ着陸した。着陸から7分ほどで駐機場に駐機した。引き続き同じ機体と乗員により、米子空港発大阪国際空港行きの670便として運航するために離陸準備を開始した[4]:3。
事故
9時32分ごろ、機長の操縦により滑走路25への地上走行を行った。当時、気温が1度ほどで、弱いしゅう雪が降っていた。9時34分に、操縦が副操縦士に引き継がれ、コントロール・チェックを行い、離陸滑走を開始した。23秒後に離陸決定速度(V1)に達し、数秒後に離陸速度の95ノット (176 km/h)に達した。副操縦士が、操縦桿を引き機首上げを行おうとしたが、反応しなかった。これに対して、副操縦士は「おもいなぁ」と発言している。パイロットは離陸を断念しようとしたものの、速度が112ノット (207 km/h)近くも出ていたため、機体は滑走路内で停止せず、オーバーランし、滑走路端から50メートル沖合いの中海に突っ込んだ。事故により、乗客8人が軽傷を負ったものの、死者は出なかった。管制官はすぐに美保空港事務所へ連絡し、事務所員が警察や消防へ通報した[4]:3-4。
事故調査
パイロットの行動
調査から、670便は正常に加速しており事故機のローテーション速度(操縦桿を引いて機首の引き起こしを開始する速度、以下VR)である95ノット (176 km/h)に達するまでに、430m走行したと推算された。CVRの記録から、機長の「VR」という発声を受け、副操縦士は操縦桿を引いたものと考えられた。この3秒後に、副操縦士は「おもいなぁ」と言っていることから、VRに達してから操縦桿を引き続けていたと推測された。また、CVRによるとこの時点からエンジンの回転数が低下していた。その他の発言から副操縦士が離陸断念を決断して、スロットルを落としたものと考えられた。滑走路のタイヤの痕跡から、パイロットはスロットルを落とすのと同時にブレーキを使用したと推定された[4]:25-27。
昇降舵の作動不良
事故時に、機体に付着したスラッシュ(溶けかけた雪)が離陸滑走中に凍結し、昇降舵が作動しなかった可能性が考えられた。YS-11では、このような昇降舵の作動不良が過去20年ほどで十数件報告されていた。うち、12件は670便と同様に離陸滑走時に発生していた。この12件の事例は、10~2月の冬季に発生しており、天候はしゅう雪または降雪後の曇りであった。また、7件は除雪したにも関わらず発生していた。すべての事例で、コントロール・チェック時には異常は無く、パイロット達はVR付近で異常を認知していた。このような異常が起きた際、場合によっては、離陸を中止した事例もある。エプロンに引き返す途中でコントロール・チェックを再び行ったが、昇降舵は正常な状態に戻っていており、ほとんどの事例で凍結は確認されなかった。一方、離陸を行った場合には上昇中にも異常は続き、雲上に出てから解消された[4]:27-29。
事故原因
事故原因として報告書では、昇降舵に付着したスラッシュが凍結したため、機首上げが難しくなったことをあげた。また、離陸中止を行ったが安全離陸速度(1つのエンジンが停止しても安全に上昇できる速度、V2)を越える高速で、滑走路上にスラッシュがあったことと、主脚分担重量が小さかったためブレーキ効果が減少し、滑走路内で停止できなかったと述べている[4]:47。
脚注
- ^ “米子鬼太郎空港-空港について”. 米子鬼太郎空港. 16 November 2019閲覧。
- ^ “鳥取県空港港湾課-米子鬼太郎空港沿革”. 鳥取県. 16 November 2019閲覧。
- ^ a b “Accident description TOA Domestic Airlines Flight 670”. Aviaiton Safety Network. 13 August 2018閲覧。
- ^ a b c d e f g h 航空事故調査委員会 (1988年10月12日) (PDF), 航空事故調査報告書 東亜国内航空株式会社所属 日本航空機製造式YS-11型 JA8662 美保飛行場 昭和63年1月10日, 63-9B 2018年10月30日閲覧。
- ^ “機体記号JA8662の登録情報”. FlyTeam (フライチーム). 27 October 2018閲覧。
- ^ “電車とバスの博物館-館内案内”. 16 November 2019閲覧。