「和帝 (南朝斉)」の版間の差分
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2019年10月29日 (火) 00:12時点における版
和帝 蕭宝融 | |
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斉 | |
第7代皇帝 | |
王朝 | 斉 |
在位期間 | 501年4月14日 - 502年4月30日 |
姓・諱 | 蕭宝融 |
字 | 智昭 |
諡号 | 和皇帝(梁武帝による) |
生年 | 永明6年(488年) |
没年 |
天監元年4月10日 (502年5月2日) |
父 | 明帝 |
母 | 敬皇后 |
后妃 | 王皇后 |
陵墓 | 恭安陵 |
年号 | 中興 : 501年 - 502年 |
和帝(わてい)は、南朝斉(南斉)の第7代(最後の)皇帝。明帝の八男。
生涯
488年(永明6年)、西昌侯蕭鸞と劉恵端のあいだの子として生まれた。494年(建武元年)、隨郡王に封じられた。496年(建武3年)、冠軍将軍・領石頭戍事となった。499年(永元元年)、南康王に改封され、西中郎将・荊州刺史に任じられて、江陵に駐屯した。
ときに宝融の同母兄の東昏侯蕭宝巻が帝位にあったが、重臣を殺害して放恣のかぎりを尽くし、人心は離反していた。500年(永元2年)11月、荊州長史の蕭穎冑は蕭宝融の同族である雍州刺史の蕭衍を盟主とする東昏侯打倒の起兵を計画して、蕭宝融に迫って蕭衍を左将軍に、蕭穎冑を右将軍に任じさせた。12月、宣徳太后の令により、蕭宝融は宣城王・相国・荊州牧を称した。501年(永元3年)2月、蕭衍が襄陽を出立して、東征の途についた。
同年(中興元年)3月、蕭宝融は江陵で帝位についた。蕭穎冑を尚書令に、晋安王蕭宝義を司空に、廬陵王蕭宝源を車騎将軍に、建安王蕭宝寅を徐州刺史に、夏侯詳を中領軍に、蕭偉を雍州刺史に任じた。兄の東昏侯はいまだ建康で皇帝を称していたが、これを涪陵王に貶めた。
12月、東昏侯が殺害され、蕭衍率いる東征軍が建康城を平定すると、蕭衍は宣徳太后の令により大司馬・揚州刺史の任についた。502年(中興2年)1月、和帝は蕭衍を相国・総百揆・揚州牧に任じ、梁公に封じた。3月、蕭衍を梁王に進めた。蕭衍による簒奪の準備がここに整った。
同年(天監元年)4月、和帝による禅譲の詔が蕭衍のもとに届けられ、蕭衍が皇帝に即位し、梁が建国された。和帝は武帝蕭衍により巴陵王に封じられ、姑孰に宮を構えたが、まもなく殺害された。
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