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「前廃帝 (南朝宋)」の版間の差分

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2019年10月29日 (火) 00:10時点における版

前廃帝 劉子業
第5代皇帝
王朝
在位期間 464年7月12日 - 466年1月1日
姓・諱 劉子業
諡号
廟号
生年 元嘉26年1月17日
449年2月25日
没年 景和元年11月29日
466年1月1日
孝武帝
王皇后
后妃 路皇后
陵墓 丹陽郡秣陵県南郊壇西
年号 永光 : 465年
景和 : 465年

前廃帝(ぜんはいてい)は、南朝の第5代皇帝。姓は、名は子業、小字は法師。

449年1月、武陵王劉駿の長男として生まれた。父の劉駿は江州刺史として尋陽に出向したが、子業は建康にとどまっていた。453年劉劭文帝を殺害して帝を称すると、子業は侍中下省に監禁され、殺害されそうになったことも一再ではなかったが、なんとか無事に切り抜けた。孝武帝(劉駿)が即位すると、皇太子に立てられた。464年閏5月、孝武帝が死去すると、子業は皇帝に即位した。465年8月には自ら衛兵を率いて劉義恭柳元景顔師伯らを殺害し、9月には劉子鸞に死を賜り、11月には何邁を獄死させ、沈慶之を殺害するなど、宗室や高官を次々と処断した。また母の王太后が危篤の際には、「病人のところには鬼が出る」などと称して見舞いにもいかなかった。このような行動のために子業は宋朝における人望を失った。叔父の湘東王劉彧が腹心の阮佃夫・李道児らと謀って、この年の11月29日に後堂で子業を殺害した。

后妃

  • 何令婉(皇太子時代の妃。献皇后追封)
  • 路皇后
  • 貴嬪劉英媚文帝の十女(叔母に当たる)の新蔡公主、謝を改姓した)
  • 羊良娣(南中郎長史羊瞻の娘)
  • 袁保林(宜都郡太守袁僧恵の娘)
先代
孝武帝
宋(劉宋)皇帝
第5代:464年 - 465年
次代
明帝